溝口健二監督の内弟子助監督、私がした仕事 [ 1 ]
映画「朱雀門・森一生監督作品」
「第4回アジア映画祭作品賞・撮影技術賞・東南アジア映画祭ゴールデン・ハーベスト賞
(市川雷蔵)・毎日映画コンクール色彩技術賞」
これも溝口式で考証したリアリズムです ・特報、予告編の創作監督もしました
平成23年4月~6月
著者 宮嶋八蔵
口述筆記 竹田美壽恵
ホームページ担当
勝 成忠
1.映画題名 「朱雀門」大映カラー・総天然色映画
2.製作年 昭和32年3月20日封切
3.本編の製作意図 激動する時代の波濤の中に、数奇な運命とたたかいつつ、一筋の愛情を信じて生きた、若い男女の悲劇を描く。
4.主体の概略
政略の為に婚約を裂かれた和の宮と有栖川宮、彼を慕う和の宮の侍女夕秀 哀切極まりない悲恋の生涯を中心に描く惻惻胸を打つ悲恋の大ロマン。言語、風俗資料は宮嶋八蔵が整理担当したものです。
特報、予告編も宮嶋八蔵が担当しました。
5.製作所 大映株式会社 京都撮影所
6.スタッフ
製作
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永田 雅一
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企画
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辻 久一
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原作
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川口松太郎 朝日新聞連載「皇女和の宮」より
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脚本
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八尋 不二
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監督
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森 一生
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撮影
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宮川 一夫
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録音
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大角 正夫
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照明
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中岡 源権
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美術
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西岡 善信
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音楽
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斎藤 一郎
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衣裳考証
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内藤 シン
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編集
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宮田 味津三
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製作主任
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安達 留雄
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助監督
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井上 昭・宮嶋 八蔵・大田 昭和・大洲 斉
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美術助手
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加藤 茂
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記録
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竹内 衣子
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装飾
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水谷 秀太郎
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衣裳
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吉実 シマ
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美粧
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小林 昌典
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結髪
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石井 エミ
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進行
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田辺 満
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7.キャスト
有栖川熾仁
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市川 雷蔵
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久世廣周(老中)
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荒木 忍
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和の宮(親子内親王)
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若尾 文子
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安藤信睦 (老中)
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南部 彰三
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夕秀 (和の宮の侍女)
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山本 富士子
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大村益次郎(総督府参謀)
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原 聖
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孝明天皇
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夏目 俊二
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剣ヶ崎徳右ェ門
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濱田雄史
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熊の倉友房(夕秀の父)
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東野 英治郎
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織子(その母師の宮の乳母)
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橘 公子
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竜安 (夕秀の実父)
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柳 永二郎
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橋本家の家従
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東 良之介
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岩倉具視(議奏)
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小沢 栄
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熊倉家の取次
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小之田総二
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おふじ(和の宮の乳人)
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万代 峰子
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熊林院住職
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葉山
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酒井忠義(所司代)
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三島 雅夫
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御所の侍 甲
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滝川
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橋本実久(和の宮の祖父、大納言)
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香川 良介
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乙
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小南
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経子 (和の宮の母)
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三宅 邦子
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官兵 一
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安田
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大宮 (師の宮の父)
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水野 浩
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二
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沖 時雄
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九條尚忠(関白)
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十朱 久雄
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伝令
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竹田
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徳川家茂(14代将軍)
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舟木 洋一
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後の役は 省略
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徳川慶喜(15代将軍)
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細川 俊夫
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天璋院(13代将軍未亡人)
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滝花 久子
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実成院(家茂の実母)
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松浦 築枝
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本壽院(13代将軍の母)
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毛利 菊枝
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*議奏:政事を議定して奏上すること。武家時代の朝廷の職名
8.準備稿の台本と決定稿の台本

10.「皇女和の宮」準備稿からの風俗、時代考証調査
1).決定稿の中に準備のメモがある。
資料 1-1 家女房の制度を調査することをメモしている。

資料1-2 駕籠かきカンパンに板倉の紋 所司代の駕籠に板倉紋を入れるメモ

*この場面は森一生監督が学生時代から勉強されたモンタージュ構成になっています。
私もこのシーンでモンタージュを習いました。
資料 1-3
剣ヶ崎の家の場面では アンドン、火鉢、六枚折れ、ケウソク、茶道具のメモ
熾仁の履物について… 先とは替わり侍ゾウリ(白はなを)三枚重ねとメモ

資料1-4 熾仁が書いた短冊を夕秀が和の宮に渡す短冊について調べるメモ
こんな感じで詳しく調べ物をします。 以下台本に書き込みの物は省略します。
2)準備記録 私のノートから
(1)ノート表紙
(2-1)調べ物のおおよそ
(2-2)調べ物のおおよそ
(2-3)調べ物のおおよそ

(2-4)調べ物のおおよそ

(2-5)調べ物のおおよそ

(2-6)調べ物 儀礼食の一部

(2-7)調べ物

(2-8-1) 皇女和の宮の 寺詣り

(2-9-1)御降嫁行列

3 ) スクラップブックから
(1)表紙

(2-1)文鳳漫画 仕出し参考 いつものように、トレーシングペーパーに面相筆にて
宮嶋が、筆写し青写真に仕上げまとめたもの。

(2-2)文鳳漫画 仕出し参考 いつものように、トレーシングペーパーに面相筆にて
宮嶋が筆写し青写真に仕上げまとめたもの。

後省略
(3-1)鉾絵 (3-2)都風流町姿

(4-1)髪型 (4-2)髪型
 
(4-3)髪型

(4-4)髪型

(4-5)髪型

(4-6)髪型
(4-7)髪型
(4-8)髪型

(5)扮装テスト
(5-1)

(5-2)扮装テスト

(5-3)扮装テスト

(5-4)扮装テスト 東下総大将 有栖川熾仁

(5-5)扮装テスト 青侍

(5-6)扮装テスト

(5-7)扮装テスト

(5-8)扮装テスト

(5-9)扮装テスト

(5-10)扮装テスト 御所侍 (上皇の御所や摂関の家などに仕えた侍)

(5-11)扮装テスト 青侍 (公卿の家に仕えた六位の若侍)

(5-12)扮装テスト

*扮装テストは本人不在の場合に限って他の俳優で下調べの扮装テストとしました。
溝口健二監督の内弟子助監督、私がした仕事 [ 2 ]
映画「朱雀門」
(5-13)扮装テスト

*熊毛をあしらった赤熊(しゃぐま)は土佐・白熊(はぐま)は長州・黒熊(こぐま)は
薩摩州
(5-14)扮装テスト

(5-15)扮装テスト

(5-16)扮装テスト

(5-17)扮装テスト

(5-18)扮装テスト

その他 省略
討幕軍の指揮官が頭にかぶった毛の被り物(帽子)詳しい調べは …
提供館

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埼玉県立久喜図書館 (2110009)
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管理番号

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埼熊-2007-023
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事例作成日

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2007/05/15

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登録日時

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2007年09月21日 02時11分

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最終更新日時

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2009年11月05日 17時55分

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質 問

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幕末の倒幕軍の武士は、頭にそれぞれ色のついたものを目印につけていたというが、どのようなものか。その起源についても知りたい。
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回 答

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熊毛をあしらった赤熊(しゃぐま)・白熊(はぐま)・黒熊(こぐま)と喚ばれる冠物をいう。
以下の資料を紹介する。
資料①『ビジュアル・ワイド明治時代館』(小学館)p61「戊辰戦争当時の諸藩兵」の写真解説に、熊毛をあしらった赭熊(しゃぐま)・白熊(はぐま)・黒熊(こぐま)の冠物も現れたという記述あり。
資料②『戊辰物語 幕末から明治へ』(新人物往来社)p64「薩摩州のおもだった人は黒い毛のかぶり物、長州は白い毛、土佐は赤い毛の」と記述あり。
資料③『日本近代軍服史』(雄山閣出版)p71-75〈第3章 各藩兵の戎服〉「赤熊・白熊・黒熊」の項に、どうしてこの風俗が始まったか、各藩の藩史や藩法集を見てもこれについての記録がないとある。
資料④『日本の軍服』(国書刊行会)p36「東征軍の戎装」の項に該当記述あり。
維新の兵乱に際し、東征軍の将校の間に飾毛のみを直接頭に冠る風が起こった。よく引用される「薩州は黒い毛のかぶりもの、長州は白い毛、土州は赤い毛」(「戊辰物語」)は誤りで、各藩とも定まった色ではなかった」とあり。
資料⑤『考古学雑誌 28巻5号』(吉川弘文館)p322「所謂唐の頭について」の論文あり。
資料⑥『図録日本の甲冑武具事典』(柏書房)p338「兜蓑と引廻し」の項
「白色のものを(はくま)、黒色のものを(こくま)、赤く染めたものを(しゃくま)とよび、唐の頭は獣毛の一種で、総て支那から舶載されたもの」と記述あり。
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回答プロセス

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倒幕派の薩摩、長州、土佐藩等の諸藩関連資料を調べるが、該当記述なし。
《Google》を〈戊辰戦争〉等で探索、将校が被ったヤクの毛で作った被り物〈白熊(はぐま)・黒熊(こぐま)・赤熊(しゃぐま)〉の記述が見つかり、『国史大辞典 索引』にあたる。
「白熊」の参照項目「唐頭(からのかしら)」の項に、赤熊・白熊・黒熊の説明および参考文献があり、掲載資料を探す。
次に幕末の戊辰戦争関係資料を探索、『ビジュアル・ワイド明治時代館』『戊辰物語 幕末から明治へ』に該当記述あり。
軍服関係資料にあたる。『日本軍の軍服』(国書刊行会)のp36「東征軍の戎装」の項に記述および薩摩藩士某着用の〈白熊〉の写真あり。『日本近代軍服史』(雄山閣出版)p36「赤熊・白熊・黒熊〈熊毛の冠りもの〉」の項には、「熊毛は、チベット産ヤクの体毛・尾毛のことである」と始まり、詳細な記述が続く。左記2冊の資料には、敵味方の目印として袖印・肩印をつけたという記述もあった。
その他に『箱館戦記』p10、15に〈赤熊・白熊〉の写真あり。『箱館海戦記』p23、26に〈赤熊〉の錦絵あり。
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(6)朱雀門衣裳帖 表紙

(6-2)
有栖川熾人(市川雷蔵)の衣裳帖

(6-3)
和の宮 (香川京子となっていたが若尾文子に変更)の衣裳帖

(6-4)
夕秀 (山本富士子)の衣裳帖

(6-5)
岩倉具視 (小沢 栄)・孝明天皇(夏目俊二)・橋本大納言(香川良介)の衣裳帖

*徳川家茂、熊の倉友房、龍安、天璋院などなど省略
(7-1)
御降嫁御行列 衣裳及び人数表 1 考証 宮嶋八蔵

(7-2)
御降嫁御行列 衣裳及び人数表 2

(7-3)
御降嫁御行列 図表 (模造紙に書いたもの)宮嶋八蔵作ったもの紛失。
(7-4)江戸城内風俗参考に二条城を調べました。
①二条城創建三百五十年記念 京都文華展

② 二条城全景

➂ 二の丸大広間

④ 二の丸黒書院

⑤ 二の丸 白書院

⑥ 本丸御殿(旧桂宮御殿)

⑦ 本丸御殿(旧桂宮御殿)

⑧

⑨

(8-1)御東征行列 衣裳及び人数割 1 考証 宮嶋八蔵

(8-2)御東征行列 衣裳及び人数割 2

(8-3)御東征行列 表 考証 宮嶋八蔵
*これはスタッフルームに貼り細かい資料の青写真は俳優部と関係裏方
へ渡しました。
11. 香盤
1-1)セットの部

1-2)セットの部

*この泉涌寺のセットにて予告編撮影の折の挿話は宮嶋八蔵 日本映画
四方山話の中の「団子串刺し式私の履歴書」のパート4映画製作の現場
風景という所で「朱雀門」の予告編撮影報告として書いていますので、
ご一読下さい。
2) 香盤 ロケーションの部

3)香盤 ロケーションの部

香盤 他省略
12.朱雀門 ダビングリストの一部

朱雀門」 [ 3 ]
13.
映画「朱雀門」をみて頂く為の皇女と家女房、婚約者の伝承的な
位置、地位、約束事を知って頂く事が必要ですので紹介しておきます。
生まれながらにして父孝仁帝を知らぬ和の宮と、母を知らぬ侍女夕秀とは、夕秀の父の
陰陽師、熊の倉友の房の占いによって,出生間もない頃から同じ桂の御所で起居を共にし、
十八の春を迎えた。
孝明天皇が皇女和の宮の婚約者に選ばれた有栖川熾人親王は、将来を嘱望される貴公子で既に数年来書道の師として宮と親しんでおり、宮は勿論、夕秀もまたひそかな思いをよせていた。当時の宮家は慣習に従って、宮はご息女(正妻)、夕秀は家女房(側室)として共に師の宮に嫁ぐ日を夢みていた。
その頃幕府では、当面の難局を切り抜けるため、公武合体を画策し、そのくさびとして
和の宮を将軍家茂の御台所に迎えようと企んだ。天皇は苦悶の末、降嫁を勅許されたが、これを知った夕秀は、師の宮に和の宮と京を逃げることをすすめる。しかし逃亡の夜、和の宮は夕秀と共に所司代の手の者に抑えられてしまった。焦燥の一夜を明かした師の宮は、
宇治川べりをあてどもなく歩く内、雲水の僧竜安に導かれ霧の中へ消えていく。「私は力が欲しい。無力だからこそ妻を将軍に奪われるのだ」
娘として友房に引き取られた夕秀は、ある日竜安に師の宮の隠れ家へと導かれた。同じ屋根の下に起居する内、遂にある夜二人は結ばれる。この噂は和の宮に強い衝撃を与え、幕府と和の宮との板挟みとなって苦しむ天皇を思い悲壮な決意をするのだった。生きた屍として家茂の妻となった和の宮は、冷たい江戸城内で前将軍の未亡人に疎まれたが、夫の家茂が好人物なのがせめてもの慰めだった。
そして6年、この間に家茂は世を去り、鳥羽伏見の一戦に幕府軍は大敗し、東征軍は錦旗をひるがえして江戸へ進撃した。この東征大総督こそ、奇しくもかっての師の宮その人だった。
上野の戦が官軍の勝利を以って終結を告げようとする頃、江戸郊外の仮寓で、臨終の床にあった和の宮は、竜安の知らせによって夕秀と駆けつけて来た師の宮の姿に歓喜の目を輝かした。二人は今こそ誰憚らぬ二人だけの法悦に浸ることが出来たのだ。
(公開当時のプレス・シートより)
詳しくはhttp://www.raizofan.net/link4/movie2/kojyo.htm
14.
朱雀門 撮影完了のスタッフ記念写真

*中央黒のベレー帽 宮川一夫カメラマンと森一生監督 、若尾文子さん
前から2列目向って右より2人目、白い帽子の宮嶋八蔵
おわり
宮嶋八蔵日本映画四方山話 宮嶋八蔵日本映画四方山話 |