溝口組と他の組との違い
宮嶋八蔵

 普通シナリオの決定稿が出来ると、監督が決められて、企画者と監督の間で俳優が決まります。時には、主役が先に決まっていて脚本が書かれる場合もあります。作品の監督は京都撮影所の所長が決めます。溝口組の場合は、本社の社長との話し合いの上で溝口作品が決まります。その他大作の場合は、本社社長の許可がいるのです。

 監督が決まると、その監督がチーフ助監督を指名します。監督室は、幹事制ですので部長も課長も係長もいません。チーフ助監督が決まると幹事(助監督の選考で選ばれる。)がセカンド、サード、フォースを指名します。

指名のない時は、出勤する必要はありません。家庭にいても、外出して旅行に行っても自由です。それは、日常生活全てが勉強につながるからです。幹事から呼び出しの電報が来て初めて出社しますが、タイムレコーダーを押す必要もありません。

 溝口組の場合、私は内弟子の助監督ですので、チーフ助監督が決まるまでに第一稿から溝口監督につくのです。その時から基本的な準備資料を監督の書庫より選び出すことから始まります。以前に書きましたが、「山椒太夫」の第1稿の本読みもチーフ不在で、ついているのです。

 溝口組では、その作品の時代を知る為に経済史を調べる事から始まるのが常でした。決定稿が出来て香盤(台本からロケ、セット、オープンセット、特別撮影と区分けして各シーンの朝、昼、夜の区分けと各シーンの内容、出役、特殊持ち道具、出道具、効果[クレーン移動等、スモーク、雨、蛍、霧等]を記入すること。)を書いている間に、溝口邸から資料図書(昔夜店の古本屋が本を運んでいたようなりんご箱風の箱)に図書を詰めて何杯もスタッフルームへ運び込むのです。スタッフルームはその時から図書館のようになります。企画部の書庫にも多少の資料はあるのですが、そんなものは使い物になりませんので溝口監督の私蔵本で埋まります。

 決定稿が出来ると、監督、チーフ助監督、美術者、キャメラマン、照明、制作部(ロケ地必要経費の支払い)がロケハンテング(ロケ地探し)に行きます。

 溝口組の助監督の仕事は以下のような内容です。

1.          助監督には、1級から5級まであります。通常の作品には1級から4級迄の助監督がつきます。大作の場合は5級(5番目)の助監督も入り5人の助監督となります。

2.          1級(チーフ)助監督の仕事

    B班といって、監督に代わり封切りに間に合わない場合、別班を立てて本編に差し障りのない場面を監督に代わって演出する。

    日常の俳優、スケジュール関係を主体とする。

    香盤から引き出して、明日のスケジュール、ロケ、セットと区分けして出役、仕出しの人数、その効果、クレーン、移動等の予定表を書く。予定表を補助する。

  各部への連絡はセカンド以下の者の仕事である。

3.          2級(セカンド)3級(サード)の助監督の仕事

    予告編、監督の脚本、演出を主体として風俗考証も受け持つ。

    宿屋の手配や部屋別の一切(演出に関係の無いこのような事務処理)は制作部の仕事です。

    現場撮影に関する俳優の結髪、衣装、持ち道具、小道具、撮影準備の伝達を結髪部、

美粧部、小道具部、風俗考証に基づいた伝達をする。

    その前の仕事として、セカンド以下の助監督は、風俗考証の調べ物、撮影に必要な香盤を作成する。

  他の組では、大作でも自前の資料本を持って来た監督は1人もありません。

 新平家物語2部(義仲編)では、1部(清盛編)で使った資料に3頁程加えたものを、衣笠組資料として印刷したのはチーフの西沢鋭治さんの仕業です。3部目(義経編)島耕二監督にも助監督として私が就かされたのは溝口組の資料を利用したかったからでしょう。私を助監督に就けておけば溝口監督からの文句が出ないと思ったのでしょう。

  溝口組の助監督の仕事は、レフ・クレショフの映画、演出法講座というソビエトの映画大学の翻訳本にある「助監督は、調べ物から始まる。」という一句と同じです。

  立命館大学の講師であり、私も人文学園で教わった市川喜久也先生の「独創の理念」という小冊子に書かれていたものと似ています。

  溝口組以外の監督の仕事は、調べ物など殆んどしなくて済みました。溝口組では衣装調べ、衣装合わせ、ずら(かつら)合わせ、髪型合わせ、被り物、持ち道具、扮装テストで役者のキャラクターを含めた扮装テストが終わります。

  他の組では、入社後4年もしているのに、この段取りを知らなかった助監督がいたのには驚かされました。又衣装も結髪も小道具、持ち道具も専門部まかせ、役者まかせです。

  溝口組では、いよいよセット入りとなりますと、黒板が持ち込まれ、俳優さんが黒板を囲みます。シナリオのセリフを記録係が黒板に書きます。一応俳優さんにセリフをしゃべらせて、溝口先生はその場面の俳優さんの心理を説明されます。他の溝口研究所ではシナリオライターが黒板にセリフを書くと云われていますが、それは嘘です。記録係が書いたのです。新平家物語では、増村保造助監督が書きました。

これからお見せする写真はほとんど「新平家物語 (清盛編)」の写真です。ロケの見物人の整理をする助監督


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その日のシーン (場面) のセリフを黒板に書くのも助監督の仕事の一つです。黒板システムと呼んでいます。黒板システムの読み合わせでは、黒板にはセリフ以外は一切書きません。心情的な要点には、赤い線 青い線を監督の注文で引くのです。浴衣がけで待ち時間中の市川雷蔵、進藤英太郎がセリフを確かめている。しゃがんでいるのが 増村保造助監督。

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                       映画の出来るまでに苦労は多い。

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                   助監督は現場のいたるところにいる。

●これらの写真は昭和31年3月20日、朝日新聞社から刊行された「アサヒ写真ブック 27 「映画のできるまで」より採録。

  シナリオライターがセットへ来たのは一本の作品で、依田さんが4~5回ありました。同じ企画でシナリオに携わった辻久一さん(プロデューサー兼共同脚本家)は社内の企画部にいるにもかかわらず、セットを覗きに来た姿は知りません。シナリオライターはセット内で自分のシナリオが削られ増やされ修正されるのが嫌だったのでしょう。

  溝口組のシナリオは、ト書きや説明書きが非常に少ないのです。動きやキャメラ位置をシナリオでは指定できないのです。

(ト書きというのは例えば“木立を透かしてみれば、遠く二人の影”というような細かいキャメラ位置も指定できるのです。役者の動きの心理までハッと驚きホッとする様に表現しますと、もう演出の中へ入り込んでしまうことになるのです。ハッと驚きホッとするなどは、安物の映画の典型です。)

  俳優さんにはラッシュ(撮影済みのものを粗編集した試写)は観せません。俳優さんには部分的な自分の芝居を自分で観て勝手に演技を変えられては困ります。監督は総体の一部としてそのラッシュを観ているのですから。近松物語では、長谷川一夫さんにも観せていません。見学者は入れません。作品は、ちゃんとした映画館で観て頂くのが監督としての責任だと溝口監督は云われていました。俳優さんもテストの続く撮影現場を見学者に観られるのは嫌だったでしょう。書き忘れていましたが主要な俳優さんには、他の組との掛け持ちはさせませんでした。

  撮影の準備が始まる頃、溝口監督のカバンの中には新しい大学ノートが一冊入ります。その事をチーフ助監督の田中徳三さんは溝口組のエンマ帖と呼んでいました。撮影の最初と中ほどと最後頃には決まって何かの注文が入ります。その内容が大学ノートに書いてあるのです。そのノートも内弟子の私が持って歩くのです。

  チーフ助監督の田中徳三さんはそのエンマ帖を「見せろ、見せろ」というのですが、それは見せられません。スタッフ一同の気持ちを引き締めるのには、撮影開始のその時、中程で慣れてだれてきた時、最後にもう一度気を引き締めてという意図のもとの注文が書かれていました。

サロン山賊会の事

溝口組についてはサロン山賊会のことは忘れられません。私が書生の頃、先生が嵯峨野から帰って来られまして、「今日は山賊会で半助鍋を食べて、一杯やってきた。」と云われました。それがサロンを知った始まりです。半助鍋とは、東京の下町で食べられていたという、焼いた鰻の頭も入れた鍋物です。

  山賊会は作家の川口松太郎、花柳章太郎、永楽善五郎、詩人の吉井いさむ、金剛流の小寺金七、高島屋飯田社長、内藤しん、甲斐庄楠音(日本画家)などが集まった私的サロンです。甲斐庄楠音先生は私を溝口邸に紹介して頂いた最初の先生です。内藤しんさんは、甲斐庄楠音の弟子で私の兄弟子になります。サロンの人たちは溝口作品に色々な影響を及ぼしているのです。永楽さんは楽焼の窯元です。楽焼とは称号を賜った人の事です。楽焼は、普通の清水焼のような1400度という高い温度では焼きません。よく観光地等や素人さんが楽しみに焼いているような温度です。雨月物語では信楽焼きですから、清水焼の蛇が谷にある壽陶器の登り窯を見本としています。詳しくは「雨月物語」の作品説明の段でお話いたします。

  サロンと聞くと昔私が通学していた京都人文学園で学園長の新村猛先生(お父さんが書かれた広辞苑を再編された仏文学者)より「フランス文化はサロンによって支えられ、幾多の文化人や芸術家を生んだのです。」と教わりました。山賊会を知った時にその事を思い出したのです。新村猛先生は私の結婚式の時も「ヨーロッパ帝国主義の成立」という著書を頂いています。北山茂夫先生からは「フィガロの結婚」のほんを頂きました。
サロンと作品との関係は溝口組の京都作品のそれぞれをお話する時に説明させて頂きます。私の知っている監督の中ではサロンを持っていたのは、溝口監督だけでした。

  スターは、監督も含めて仲間内の集団を作るのですが、それはマージャン遊びと一杯飲み会の取り巻きを集めているのに過ぎません。市川雷蔵もそんな取り巻きを集めた「とんとん会」というのを作っていましたが、私はそんな会には一切関係していませんでした。

  原作 谷崎潤一郎の「お遊さま」は私が内弟子のカバン持ちで大映助監督席はまだ無かったのですが、毎日お供をして先生についていました。脚本は貰えませんので借りた脚本を写して持っています。溝口組は長廻し撮影なので皆ワンシーン、ワンカット主義と呼びますが「お遊さま」にはクレーン移動で撮った3シーン、ワンカットがあるのです。詳しくは次回から大映京都の私がついた「雨月物語」から他の組に残した溝口流を

 スチール、参考資料を交えてお伝えしたいと思います。

              

                 平成19年3月3日 記

                宮嶋八蔵 黄班変性症にて視力障害あり

                口述筆記  竹田 美壽恵

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 私の戦後の歩み

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                                     著   者    宮嶋  八蔵 
口述筆記   竹田美壽恵

 このブログの記事の一つ 「溝口組と他の組との違い」 の中で、4枚のスチール写真を無為際していますが、   これらの写真は昭和31年3月20日、朝日新聞社から刊行された「アサヒ写真ブック 27」「映画のできるまで」より採録・・・と断っていますが、アサヒ 写真ブック(27)「映画の出来るまで」より再録したものは、再販されたものです。新平家物語「清盛編」のスチール、スナップ、衣裳調べ等の写真は私が記者を案内したり写真を差し上げたりしたものです。

 初版が再販されたのは、次のような事情があったからです。私宮嶋が衣裳部に行くと、戸朱久夫さん(戸朱幸代さんのお父さん)より呼び止められ「八ちゃん えらいきつい無茶苦茶な写真が載っとるよ!」と云われて見せられたのが初版でした。
 私が膝をついて作業をしている時後ろから声がかかって振り向いた所フラッシュをたかれて驚いて目をパチクリしている写真で、足元も冷めし草履(わら草履)を履いたフルサイズの写真です。その写真の下に「溝口監督に叱られている小道具さん」とコメントしてありました。別の1枚はミディアムロングの情景の中で、増村助監督が視線を落として片手を頭に添えているスナップです。それには、「溝口監督に叱られている助監督」と説明してありました。増村さんは叱られたことはありません。

 私には親戚も友人も子供もあるのです。嘘を書かれて、図書館にでも残れば困ります。増村さんも困るでしょう。
溝口監督の事を奇人、変人、ゴテて怒りまわる人というように仕立てて読者の興味をあおって本を売らんかなという安物根性は新藤兼人や津村秀夫の溝口監督に関する伝記と同じです。溝口監督はスタッフを直接に怒鳴ったり、がなったりするような人ではありません。私が人文学園で教わったヒューマニズム……人間愛に固まっていて作品上でも極端に嘘を嫌悪した監督です。発行所 の責任者に会いに行きました。責任者は「いくら(お金)出せば良いのですか」と云いましたがお金ではありません。「嘘を訂正して下さい。」と申し入れました。その後2枚の写真は割愛されて再販されたのです。

                                        宮嶋 八蔵

               

          

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