画家、牧野克次の妻・兄弟・一族     
                                                                             
       2020(令和2)7月(追加)
 著 者  竹田美壽恵
 HP担当  勝 成忠
    
ご兄弟を紹介するに当たって、牧野家の系図と牧野克次が育った杉本家の系図、
母貞が再婚した太井家の系図を紹介致します。宮嶋春様、晃様の聞き書きや、
牧野克次が書き残した書類を基に藤井寺市立図書館や大阪市立中央図書館、
堺市立中央図書館での資料収集をし、杉本家の子孫の方にお出会いし、
お話を聞かして戴き作成出来ました。
牧野克次の関係系図を作成していると、歴史上の有名人物が出て来て唯唯驚きの
連続でしたのでその辺も紹介したいと思います。

         
     牧野楠枝(牧野克次の妻 )                 若かりし頃の牧野楠瀬と楠枝と思われる

 
      
                       
 
兄の杉本忠治(牧野克次の兄)    ・  弟の太井武夫(牧野克次の弟) 
目次
1.家系図
  (1)天王寺屋・牧野家系図
  (2)牧野克次、幼少期の家族構成(杉本家)と弟、太井武夫の家族
  (3)杉本家の家系図(牧野克次に関係する範囲)
  (4)その後の杉本(本)家
2.牧野克次の実家、杉本家
    (1)杉本忠治(牧野克次の兄)と妻タミ
   (2)明治天皇大和行幸時、宮内卿と侍従長の宿泊所だった杉本家
   (3)現在の杉本家当主・杉本忠行様宅(長崎)訪問
   (4)杉本忠道様紹介(杉本忠治[克次の兄]の息子で跡取り・杉本忠行様の父)
   1)杉本忠道氏略歴
   (5)杉本忠道著「風雪70年」
         杉本忠道氏の人生・杉本家の歴史・牧野克次とのつながり
   1)忠道氏は長崎原爆体験直後、親友と長崎復興に貢献
   2)第5回内国博覧会(大阪)で牧野克次より聞いたエピソード
   3) 謡のエピソードと牧野克次
   4)杉本家のルーツ
   5)杉本家と藤井寺市道明寺にある真宗眞光寺
       6)杉本家と天誅組・水郡(にごり)善之祐
 (6)白石美知子様宅(杉本忠道氏の長女・杉本忠行様の姉)訪問
   1)白石美知子様紹介
   2)杉本家の写真(牧野克次が生まれ育った家)
   3)白石美智子様よりお聞きした杉本家のお話
   4)堺出身郷土画家、岸谷勢蔵(白石美智子様の従兄弟・杉本忠治の孫)
3.牧野楠枝(牧野克次の妻)の母、大江タケは大江廣元の末裔だった
  (1)大江廣元という人物
  (2)牧野家遺品の木箱に大江氏ゆかりの山形県寒河江が宛先に
  (3)山形県に大江氏18代の居城「寒河江城」あり
  (4)山形県寒河江市へ訪問
   1)古澤徳治を訪ねて
   2)寒河江城跡
   3)宇井啓様(寒河江市史編集委員長)に面会
4.太井武夫(牧野克次の弟)
  (1)太井武夫邸を捜す
  (2)太井武夫氏の自宅と所有地
  (3)太井武夫氏は医師だった
  (4)太井家のお墓を捜す
  (5)太井武夫氏の養子さん(土師善治様)の実家訪問
   1)土師楠嘉様(土師善治様の実家の現当主)邸でお話伺う
   2)土師家の人々
   3)土師家のルーツ
   4)土師楠嘉様紹介
   5)太井武夫様の事
   6)太井家は履中天皇陵の管理をしていた
   7)太井家の古文書や人別帳
   8)土師善治様(太井武夫氏の養子に入られた方)と妻の翠様
   9)太井家と天誅組、水郡(にごり)善之祐とは親戚だった
   (6)太井武夫氏の遺言


                            
 
  
    
   


    


            

    

 兄 杉本忠治(牧野克次の兄)と妻 タミ

    


牧野克次の、幼少期どのような理由があったか分からないのですが、実母の杉本貞(さだ)と実父の松本伊右衛門(45歳で亡くなり絶家になっている)とは、克次が3歳頃までに離婚したと考えられる。実母貞がその後再婚したことにより、実母の実家の杉本家で育てられています。
杉本貞(克次の実母)の兄夫婦(杉本と杉本信枝)が戸籍上、克次の親となっていました。宮嶋家に残されていた写真(左下)の裏に兄、杉本忠と書いてありましたが、真実の名は、杉本忠治で、実母、貞の兄の杉本忠平の子供でした。
宮嶋家では、杉本家が、牧野家の本家になると思われていましたが、牧野克次の母、貞の実家だったと云う事が調査して分かりました。
藤井寺市史に明治天皇大和国行幸記録が残されている。陸軍卿山県有朋に宮内卿德大寺実則が提出した行幸日程では、明治10年2月12日道明寺御伯、行幸供奉として左政大臣 三条実美、参議として伊藤博文、従三位の木戸孝允(桂小五郎)、宮内卿 德大寺実則議長 有栖川宮熾仁親王等の名前があった。行幸宿割で宮内卿 德大寺実則及びその従者2名と侍従長 東久世道禧及び従者1名(接待の担当)の宿は杉本忠平(牧野克次の養父・戸籍上の父)宅で行在所より隔たる事凡2丁12間で、補筆朱書として忠逸(牧野克次の祖父の杉本忠逸)の名前も記録されていた。当日宿割変更があり参議の伊藤博文から山県有朋に、杉本忠平宅では、宮内卿德大寺と宮内少輔杉孫七郎の名前になっていた。
(明治10年2/10~11明治天皇行在所の今井町称念寺にて明治天皇へ西郷隆盛挙兵・西南戦争の一報が入ったという逸話がある。)

 
牧野克次の略歴書に
明治10年(1877年) 牧野克次13歳にて明治天皇大和行幸され行在所にて給仕を務むと書かれ、内容は藤井寺市史の明治天皇行幸記録と一致しました


明治天皇大和国行幸日程 藤井寺市立図書館蔵 藤井寺市史594ページ~595ページ


明治天皇大和国行幸宿割 藤井寺市立図書館蔵 藤井寺市史604ページ~605ページ

現在の杉本家当主 杉本忠行様

現在の杉本家当主 杉本忠行様と 妻の美奈子様 長崎市自宅にて
明治大学卒業 長崎放送局37年勤務された 杉本忠行様
平成28年11月15日 竹田美壽恵 撮影   後の掛け軸は牧野克次の作品

平成28年10月19日に藤井寺道明寺の杉本俊門様の奥様より「92歳の義母が隣に住んでいるが、杉本家は江戸時代からの家だったが、戦時中に長崎に行かれた。杉本忠道さんと云う方で、女の子供さんがおられた。杉本忠道さんをインターネットで調べると「風雪70年」という本を1968年に刊行され、長崎大学付属図書館 経済学部分館にあるそうです」という貴重な情報を頂き杉本家の方とお出会いする事へと繋がりました。
杉本俊門様の奥様、本当にありがとうございました。感謝申し上げます。
「風雪70年」の本を読んでみると牧野克次の略歴書と符合する所が何か所もありました。
杉本忠道氏は牧野克次の甥になり、杉本忠道氏の次男の忠行様は現在、杉本家の当主で
長崎に在住されていました。
牧野克次の甥に当たる杉本忠道氏はどうして長崎に住まれることになったのか、
牧野克次とのエピソードなどを、杉本忠道氏が書かれた「風雪70年」の本から紹介したいと思います。


                    杉本忠道様紹介(杉本忠治の跡継ぎ当主)(牧野克次の甥)


                  杉本忠道氏自筆表紙           26歳 杉本忠道氏 
「風雪 70年」 1968(昭和43)年発行

      杉本忠道氏略歴
      明治26年11月大阪に生まれる。
     大正5年早稲田大学卒業。
     大正6年内外興業株式会社入社。
     大正9年九州支店長就任。
     大正11年会社業務一切継承(関東大震災にて本社倒産にて九州3支社統合し継承)
     昭和21年大 長崎建設株式会社設立発起人に参加設立。
     昭和43年大 長崎建設株式会社代表取締役社長。
     昭和43年   長崎市 長崎公園に 忠霊塔(再建の記)発起人代表の中に
                       長崎市旧在郷軍人会代表 杉本忠道の名が記されている
  昭和44年2月5日 没  享年 75歳


 ①  杉本忠道様の男兄弟3人の内2人のお兄さんが亡くなり杉本家当主になられる。
 ②長崎へ原爆投下された時の杉本忠道氏の行動を「風雪70年」から知り、こんな方がおられたのだと強く感動した

杉本忠道氏の風雪70年より
 
(理解しやすいように竹田が勝手にタイトルを入れています。)
 原爆直後「人生意気に感ず」親友と長崎復興へ!
原爆、そのころのことを思い起こすと全く感慨無量の想いがする。
原爆直後の1カ月、県も市もがら空きの状態、長崎市の関係者は勿論有力者達も
遠方に疎開して帰って来ない。岡田市長は一家全滅にも拘わらず毎日出勤。
市長室に只一人悄然として座っていたもので、この市長の責任感に感激し、
そこで、只一人の市長に協力することになり4、5人の者が毎日午前9時 市に集まる事を申し合わせ、差しあったっての市政(?)に参画。まず虚脱状態の市民に潤いを与えるのが先決と私の提案で
戦時中減封されていた倉庫を開き、多量の缶詰、砂糖を配給した。私の家も屋根は吹き飛んで
仕舞って、家族は本河内の知人の家に疎開。私は中部さんと毎日町を廻り、帰りには杉本家の
傾いた家で、壊れた椅子に腰かけ番茶をすすりながら何時も「一体長崎はどうなるのか」というだけで、それ以上話は一向に進まなかった状態だった。
たまたまこんな話が出た
「この状態で県、市のみに依存していてはとうてい長崎の早急な復興は見込みはない。
一層県、市、市民が一体となった復興会社を創設してはどうだろうか。
お互い幸いに命拾いしたのだ。余生は一つ長崎のために捧げようではないか」
「人生意気に感ず」全く同感、自分も従来の営業は勿論全てのものを捨てて、
これに協力する事を誓ったのである。

翌日早速当時の県知事を訪問した。まことに結構な案だ。県は全面的に協力する。
岡田市長曰く。「実は自分も考えていた問題で全く同感、その方法によらねば市の復興は困難と思っていた。
是非頼む」各階層代表は当時貴族院議員の橋本辰二郎氏にお願いし第1回発起人会合の運びに漕ぎつけた。
しかし当時は、資金調整令があって、会社の新設は勝手にできなかった。許可権は勿論日銀にあったので早速上京することにした。……略
中部悦郎氏が社長、私が専務取締役で一切を引き受けた。発足を祝って当時米軍の長崎司令官だった
デルノア中佐が「個人の利益よりも公益の福利、目前の事より将来を考える人によって大事業は出来る。
大都会の恥部を取り去って、長崎を美しい都会にして欲しい」というメッセージを寄せた。これは、
まさに発足の精神で、私はまことに結構なメッセージだとすなおに受け取ったいまも社に保管している。…… 
長崎復興の取り組み内容等… 略



杉本忠道氏(左)と40年来の知己朋友の中部悦郎氏(右) 杉本忠行様提供

 杉本忠道様は昭和38年11月28日 経済同友会有志の集まりで
「中部悦良を語る」をお話されています。
お話された内容は冊子にまとめられていました。
    杉本忠行様提供

   
 中部悦郎 なかべ えつろう1895-1962 昭和時代後期の実業家。
明治28年9月20日生まれ。
大洋漁業(現マルハ)副社長。戦後,壊滅状態にあった長崎の復興のため,鋼製漁船を三菱長崎造船所に発注し,また南氷洋捕鯨船団を長崎からおくりだした。佐世保重工業の再建,長崎魚市の創設にもつくした。長崎商工会議所会頭。昭和37年11月3日死去。67歳。兵庫県出身。 デジタル版日本人名大辞典より
  被爆当時の長崎市長・岡田氏の遺影を登録 追悼記念館
長崎原爆当時の長崎市長で、原爆で家族を失いながら復興に奔走した岡田壽吉(じゅきち)氏(一九四九年死去)の遺影が、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(同市平野町)に登録された。「あの日」から五十九年。原爆で亡くなった妻と二人の子どもとともに、爆心の丘に静かに眠る。
 岡田氏は四一年十月、市長に就任。太平洋戦争、原爆投下、終戦後の混乱期の市政を担い、四六年十月、連合国軍総司令部(GHQ)による公職追放指定を前に辞職した。公職追放解除に希望をつないだが、四九年三月に行方不明となり、七年後の五六年、市内の山中で遺体で見つかった。自殺とみられる。…… 
 2004年8月13日長崎新聞掲載より

杉本忠道氏は牧野克次の甥だった!!
  「風雪70年」の本には、直接、牧野克次という名前は出てきませんが関係する
エピソードや杉本家の事が書かれていましたので紹介していきたいと思います。  


 明治36年の大阪 第5回内国勧業博覧会正門表面の圖 大阪毎日新聞ポスター
  左上 大阪美術館  左下 水族館  右上大阪市地図 赤い所が会場 天王寺界隈
  大阪市中央図書館所蔵を縮小して竹田美壽恵が撮影したもの
 
第5回 内国勧業博覧会・大阪(明治36年)でのエピソード
頁136 大阪で「内国勧業博覧会」が催された。その時の話だが、岡田三郎助の裸体婦人の油絵が当時の文部省のご機嫌に触れ、出陳を拒否されたことがある。理由は勿論「風俗を潰乱する」ということだった。
この頃私の叔父は岡田氏とも特別したしかったものあり(日本における洋画の祖小山正太郎に共に師事した同期の関係で)この叔父がたまたまこの事を知って(その当時岡田三郎助は外遊中であった)岡田氏の裸体画に桃色の腰巻を描きそえたので、文部省のお許しも叶って出陳出来たという。この話を私はかって直接その叔父から聞いたことがあった。ところが、それから50年後の今日、図らずも県の副知事室に、薄桃色の腰巻をした裸体画がポスターとなってあるではないか、その裏面に岡田三郎助画と明記してあり、50年後この絵を見た私は叔父の話を思い出して愕然とした

(牧野克次は明治36年第5回内国博覧会では、自らの作品「落葉」を出品し
審査委員も務めています。又牧野克次は、明治21年から25年まで小山正太郎の家塾で学んでいる。)赤字は竹田美壽恵記


②頁167 
私が15歳の頃と記憶する。祖父(杉本忠平)が謡を教えてやろうと云う。祖父は観世流、当時大阪での一人者中村弥三郎に師事していた。…謡曲五流の由来を大和田博士の文から写し記してあるところ割愛…


牧野家に残されていた写真
杉本忠平ではないかと思われる 家紋(丸の中に2本線)は杉本家のものです。 
謡の扇を持っている

謡とは  フシ(メロディ)をつけて謡うもののこと。
 能はセリフの全てが謡となっています。それゆえ、日本のミュージカルやオペラ
 のようなものと言われることがあるのです。このセリフの書かれた本を「謡本
 (うたいぼん)」と云います。   「NPO法人せんす」より

祖父(杉本忠平)は中村弥三郎のワキ役として何回か舞台に立ち、
旦那芸としては勝れていたらしい。
……20番近く進むにつれて、私の声帯がこれに適しないことを私自身が発見した。
……叔父(この本は色々な今迄のエピソードを集めたものから成り立っている)は、この父について永年熱心に稽古していた。
その後京都から東京に居を移し、観世の家元で教えを受けていた。東京に移ってからでも京都の大家のお能には必ず出席、熱心に研究していた。
叔父は高音ではないが、低音で然も音調が狂っていない…に気持ち良く耳に入る。
私が東京(早稲田)在学中の頃、この叔父が道明寺天満宮の宮司南坊城良興さん
(公卿さんで叔父の竹馬の友)とシテ、ワキでたしか「松風」と記憶しているが、
二人とも低音で調子が合っている、冬の夜10時も過ぎていたか、あたりの静けさが身に沁み鉄瓶の湯気の音が静かにきこえる、この時ほど謡のよさを味わった事は今に忘れられない。



  下記写真 道明寺天満宮 能舞台


          H.29.3.4 竹田美壽恵撮影


私は音痴であっても耳は馴れている。今日殆んど感心する謡を伺った事はないと
憎まれ口を云うのも私は本当の事をいっているので、これも亦致し方のない話。
この叔父は父に習い(私の祖父)観世家元に師事して前後謡歴60年、アメリカに画の仕事で行ったのが動機で高峰譲吉博士(タカジアスターゼ)の向こうの住宅建設に関係して10年間も滞在していた。早稲田の内藤多仲博士の謡曲も有名だったが、元は私の叔父に弟子入りして、熱心に稽古された事を叔父から聞いた事がある。

 
(牧野克次は略歴書の趣味の所に謡曲は幼時先々代中村彌三郎に指導を受けたと記されている。)
                                                                                                         赤字は 竹田美壽恵

              
牧野克次が残した謡会の写真  後列右端 内藤氏の名前がある 
                大正9年(1920年)10月7日 撮影 後列右から4番目 牧野克次

            
 内藤博士について(ウィキぺディアより)
 日本の建築構造技術者、・建築構造学者。「耐震構造の父」と評され「塔博士」とも呼ばれて
 1913年早稲田大学教授  耐震構造理論を用いて 日本興業銀行本店の構造設計を実施。
竣工3ヶ月後に関東大震災が起こるが、丸の内にあったアメリカ流の鉄骨造ビルは大きな被害を受けた  のと対照的に興銀が無事だった事で内藤博士の理論が実証された。・建築物として名古屋テレビ塔・   通天閣・ 東京タワー等がある。唯一の趣味が能であり、自ら演じた。「能を演じるのと構造設計とは同じく やり直しきかぬ所に無限の味わいが ある」と多仲本人の言葉が紹介されている。 

東京四谷の牧野克次邸で謡の話を聞く
何時か四谷(牧野克次は四谷区南寺町49に居住)のこの叔父を訪問した際、
久しぶりに謡を拝聴したいと申したところ又君に冷笑かされるかなー。
よろしい今日は私が観世さんに稽古して頂いているところを、描写しょう」といって、
自分が家元になり自分になり二人役でたしか 「平の将門」だったと記憶しているが、 
 
家元  「昨日のところ稽古しましょう」
叔父  「ハイ」と云って「将門」(ショウモン)とやり出したが家元、調子が違う。
           又叔父が「「将門」とやり直す、
家元  「全然なってないどうしましたか」
家元  「それでは只の乞食の姿だ」
           叔父改めて「将門」
家元  「それは現役の士だ」
         一向進まない。
家元  「もう一度私のを聞きなさい」
          と云って叔父が謡ってそのあとで家元のレコードを掛けて、
叔父  「ドウダ似ているかネ 謡はむつかしいよ、家元のやかましく云って
          おられるのは平の将門の身分と、現在の心境をこの「将門」の二文字に
          表現せよ、即ち位を出せと云っておられるのだが君達分かるかネー。」
          こんな事素人の連中には分からないだろうが、日本舞踊にしても位を出す
          事がむつかしいので、位の出ていない踊りは上手な盆踊りに過ぎない。仲仲手厳しい事を
         聞いた事がある。
   (玆で一寸平将門の事を記しておく、将門は謡曲の内でも秘曲中の秘曲三十年歴の者にも家元は
        教えない
          最高至難の曲 と聞く)…平将門の謡曲の話続く… 略

杉本家は南河内道明寺・金剛山の楠公の千早城近くのサムライだった!
    御土産話に大阪の恩人「五代友厚」を語る
3)
頁197
インタービュア 
         「大阪のどちら(に住んでおられたの)ですか?」
 杉本忠道
    「私は、南河内道明寺だよ。……金剛山即ち楠公の千早城の近くだ。少しは、
        筋金の通ったサムライだよ。」

インタービュア
     「分かりました成程思っている事をズバズバ云われる。…会社でも頑固な爺さん
    で、通ってるのじゃないですか、ワンマンでしょう」
  杉本忠道
    「君も仲仲僕の目の前でズケズケ云うじゃないか」
  インタービュア
    「大阪人だから大阪の人を知るとでも申しますか、しかられながらなんだか
     なつかしくなって参りました」
  杉本忠道
   「イヤ実は私もそんな感じをしている。君達初めて会ったわけだが後輩が訪ねて来たので何か
          お土産 にお話でもして上げようかと直感した。幸い五代友厚を  
    知らぬと云うから話して置くべきだと考えたわけだ」
          五代友厚の功績を8頁に亘って話す…
インタービュア
     「イヤ驚きました。伺って見るとこの五代友厚という大人は近代日本では、
     一寸みあたりませんネ。……私達は兎に角、大阪の財界の連中達もこの人
     この歴史を知らないとは、大先輩に申し訳ない、まことに不思議に思いますが」
  杉本忠道
     「それはこれだけの人物にして伝記がなかった事だよ。ここにも財界人の
     手落ちがある。今からでも遅くはない。君達大阪に帰り知事、市長、会頭に
     会って何とか恩人に酬いる途を構ずるよう督励して頂きたいネ。天王寺図書館
     前に銅像が一個あるが、私は物足りないと思う。毎年慰霊祭とか感謝祭なども大いにやるべきだネ。」
インタービュア
    「全くその通りで御座います。こんなよい話を伺いまして感激致しました。
     どうもありがとうございました。」       

 
       藤井寺市道明寺にある真宗眞光寺と杉本家の縁
4)頁263
       「長崎と私」に関する因縁話が書かれ、杉本忠道氏の7~8代前の先祖に遡って書かれています。
   1人の旅僧が隔日に玄関(藤井寺市道明寺の杉本家)に立ってお経を唱えて呉れる。
      「坊さんこちらにお這入り下さい」と丁寧に案内した。
   「あなたはドチラから来られたか」
      「私は肥前長崎でゴアす」
      「随分遠方の方ですネ。そしてこれからドチラの方に参られるのか」
      「別に当てもなく托鉢修業しております」
      「如何です。この村に留まりませんか当村には真宗の御寺も御座いませんので」と云った様な話から
      当時隣村に禅寺の売場があったのを幸いにこれを買い求めて
      移築したのが現在の真宗真光寺である。

                                    現在の真宗眞光寺 H.29.3.4 撮影 竹田美壽恵

お寺の構造は禅宗で中身は真宗と云ったような寺である。この旅僧の姓は、
佐々木と云い、現住職の佐々木泰忍がその後裔である。
私が長崎で知っている範囲で……佐々木は長崎の真宗系統の僧侶の関連した姓であり、
この佐々木某も長崎出身であることは疑う余地はない。
私 が郷里を離れて既に50年ともなる今日なお、郷里の御寺から壁の塗り替え
とか屋根替えとか何とか云って来られるのもどうやら先祖のⅠ建立の因縁によるらしい。
(平成28年10月に竹田が杉本家について問い合わせの手紙を藤井寺市道明寺に
ある真宗真光寺さんに、出して10月19日「杉本忠道さんは長崎に行かれた」「杉本さんが住まれていた
お家はその後、違う方が、新しく建て替えて住んでおられます」と話して下さったお寺さんでした)

4)頁、265

明治の初年、唐通使で「呉来安」と云う仁がどう云う関係だったか聞き洩らしたが

長崎から来て私の家で草鞋をぬいだことがあるらしい。この人は立派な学者で然も非常な親日派であった「呉 来安著」として日本外史の訳本を出版している(私の 手元にある)子弟に漢学を教え詩文をよくした。その後私の家から土師神社の離れ座敷に居を構え悠々自適していたと聴く。…長崎で呉・来安の親戚と遭遇…

5)頁 279

インタービュア

          お言葉の訛りから感じていたんですが、お国は関西の方とちがいますか?

  杉本忠道氏
   その通り、私は大阪府楠公千早城の付近で、南河内郡道明寺が私の郷里であり、

   生地だよ。私は大阪の町の中で生まれずに田舎で生まれ育った事を色々な意味で

   仕合せに思い自慢にしている。あの付近は楠公と其の一党和田家に継がる一族が多い。 
それに関しても一言何か云いたい様な気もするが、今時「我が家は」なんて云って見た
所で
一向反響がない。これも時代の変遷とでものか

   時によると相手によっては、寧ろ滑稽に解される事スラあるからネー。

   杉本忠道氏の母タミは
   天誅組に参加した河内勢首領、郷士水群にごり善之助の姪だった!

5)頁 280

  杉本忠道氏は父杉本忠治(牧野克次の兄)の妻、母タミについて興味深い話を書いています。

母は例の天誅組に参加した郷士水郡善之祐の姪に当たるので、子供の時から母から

自慢話として何時も天誅組の話を聞かされたものだ。

インタ-ビュア

―天誅組と申しますと中山忠光とその同志が維新の先鞭を付けたあれですか。―

杉本忠道氏

― その通り、君も中々話せるじゃないか。―

水郡善之祐 にごりぜんのすけ 1826-1864(文政9-元治元)

 河内勢の首領。河内国錦部郡甲田村(大阪府富田林市)の庄家水郡岩五郎の長子。本名長雄、のち大和五條て小隼人と改める。嘉永6年(1853)家を継ぎ、神戸藩(甲田村は伊勢本多伊予守の知行地)の士籍に列する。天保末年から自邸に道場を設け、20歳で柔術初伝の免許をうけた。また軍学を好み、彼自ら講ずることもあった。近隣の者にも文武を学ばせ、のちにその多くが彼に従って天誅組に参加している。安政に入って尊王攘夷論が熾烈になるにつれて、善之祐の交友関係は、熊本藩の松田重助、宮部鼎蔵、江戸の安積五郎、福岡藩の平野国臣、三河刈谷藩の松本奎堂ら全国的な広がりをもち、甲田村の自邸にはこれら来訪者、寄食者が絶えなかった。善之祐自身も家業を実弟謙三郎に任せてたびたび上京、その京都で土佐の脱藩浪人吉村寅太郎と出会い肝胆相照らした。文久3年(1863)8月、攘夷祈願のため大和行幸の詔勅が発行されると、松本奎堂、吉村寅太郎らは天皇親征の先鋒隊たらんとして天誅組を結成、中山忠光を盟主とする総勢38名が京都を発して甲田村に至り、水郡家を拠点にして軍旅を整えた。善之祐はかねてから用意していた銃砲刀鎗、旌旗鼓鐘を拠出し、森本伝兵衛ら郷党10数名と百姓数十名を率いて参加、この中に善之祐の一子英太郎(13歳)もいる。善之祐は池内蔵太とともに輜重器奉行になる。一行は千早峠を越えて大和五條に向かい、代官所を襲って代官の首級をあげたが、8・18の政変によって行幸は中止、天誅組は孤立して四方の諸藩に攻められ、十津川に敗走した。善之祐の率いる河内勢はよく戦ったが、忠光を中心とする京都勢に失望し本隊と別れて独自に戦いながら紀州領菅野に入る。ここで挙兵の理由を天下に明らかにするために自首を決意、日高郡龍神村の紀州藩衛所に善之祐はみずから出向き降伏を告げた。10月京都の六角獄に投ぜられ、翌年夏、禁門の変の混乱の中て斬られた。墓所は甲田の養楽寺にある。享年39歳

皇国のためにとつくすまごころは 神や知るらん知る人ぞ知る

幕末史蹟研究会の義士紹介ブログより

大阪府指定史跡『水郡邸』 が紹介されていました。(富田林市役所 文化財課)

富田林市役所 文化財課掲載写真より

水郡(にごり)邸 富田林市甲田二丁目

市役所の南部、甲田二丁目に水郡邸があります。伊勢神戸藩の代官で、また大庄屋であった水郡家によって、安永2年(1773年)に建てられたものであり、現在でも当時の大庄屋としての姿をとどめているとともに、明治維新の先鋒をなしたとされる天誅組が軍議をこらしたという歴史的に重要な邸でもあります。
 文久3年(1863年)、孝明天皇の大和行幸の詔が出た翌日、前侍従の中山忠光を総帥とする
「後に天誅組と呼ばれた人々」は、尊王攘夷(そんのうじょうい)派(※)の先鋒として京都を出発し、堺で船を降りた後、狭山を通って甲田村の水郡邸に入りました。
 その際、当時水郡家の当主であった水郡善之祐は、息子の英太郎と周辺の村からの同士など数十名を率いて、中山忠光と会見し、かねてより蓄えてあった武器や食料などを天誅組の人たちに提供しました。中山は、この用意周到な準備と尽力をたたえ、天誅組一同が水郡邸に一泊して、部署を定め軍略を練りました。
 翌日、夜明けに隊を整え、三日市、観心寺を経て、千早峠を越え、五条で行動を起こしましたが、時を同じくして京都で発生した政変の影響で事態は変化し、天誅組は壊滅に追い込まれることになりました。
 この事件は、数年後の明治維新のさきがけとして、日本近代史に残る重要な事件になり、一行が宿泊した水郡邸のあるこの地は、大阪府指定文化財として昭和49年3月29日に史跡指定されました。
 当時、尊王攘夷を掲げ、活動をしていた中心的な人たちは、下級武士や善之祐のような人たちで、水郡邸の周辺の村から天誅組に参加した人たちの名前が書かれた石碑が錦織神社の参道わきに立っています。
※尊王攘夷・:幕府を倒して、天皇中心の政府をつくり、外国勢力を打ち払うという考え方
   (平成15年6月号)


         

杉本忠道氏の父忠治(左)と      杉本忠治(左側)と妻タミ
杉本忠道氏の妻重野様の父                                          牧野克次所藏写真
藤井寺市道明寺の杉本邸にて       
杉本忠行様提供(現在の当主
 
 
6)頁 282
インタビュアー
   ― 先程郷里は楠公千早城の付近で生地は道明寺と申されましたが、… ―

  杉本忠道氏
お菓子の道明寺の話の後…序に私の郷里道明寺に就いて一寸お話してみよう。
由来道明寺と云う所は太古民族の住居したところと云われているがその実証も沢山ある、歴史にもそうなっている。道明寺には、「石器時代遺跡跡地」の石標が建てられている。この附近の畑地を少し掘ると石の矢尻や埴輪の片鱗が今でも出て来る、私の手許にもある。山腹の至るところに今も穴居時代の遺跡もある。大体飛鳥時代と云えば今から凡そ1400年程以前のことで、当時仏教の伝来と共に文化も稍発達したと云われているが、それ以前既に文化のあった事はこの埴輪や土器や石器、金具等によって証明されているよ。郷里の自慢話として聞いて貰いたいのは、
人皇十一代垂仁天皇の頃、野見宿弥が勅間に応え土偶、即ち埴輪を作って殉死の制を改めた功績で菅公の祖先が土師性を賜った事は歴史を通じて知っておられると思うが、今日あの辺一帯(私の郷里)を土師の里とも称している。道明寺、即ち「土師の里」が私の生地なんだよ。今日道明寺天満宮と云う神社の方は菅公の遠祖野見宿弥をお祀りしてあるのだが、その後裔で菅公の曽祖父にあたる清公(キヨキミ)孫の是善に至る三代共文章博士
となり天皇にご進講申し上げる様な重要な地位にあった。謂わば文教の巨匠、今日で云うなら菅原家の人々は代々新思想と学問の名門と称えられるのもこの様な由緒から来ている。野見宿弥と云えば、例の暴勇不遜の当麻就速(タイマノケハヤ)を殪した話は子供でも知っている。これが日本の相撲の元祖とでも云うかネ。道明寺天満宮毎年八月一日の祭礼には奉納相撲が今日も続いている、茲が私の生地だよ。
……大阪夏の陣の最後の戦場地の話省略… 
地勢的には遠く金剛葛城山を望み前に石川の清流がある。玆では鮎がよく取れ私などはこの川で育った。中学時代に既に投網を三張りも破った位で、わたしはこの川の主とまで云われたもので、投網は私の最も得意とするところだよ。


        

   道明寺天宮 撮影竹田美壽恵H29.3.4   道明寺天満宮内 撮影竹田美壽恵 
  
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)・                仲姫命陵古墳
代15代応神天皇の陵「応神天皇陵」          (写真・藤井寺観光協会より)
                                                                                                     (写真 ウィキペディアより)

近くに応神帝(おうじんてんのう)を始め仲姫(応神帝の妃・なかつひめのみこと)の陵、仲哀帝(ちゅあいてんのう・応神帝の父)等非常に史蹟に富んだところだ。―郷里の自慢話を一寸やり過ぎたかナ。
 …自身の軍隊生活…
甲種合格の刻印を押されて主計志願兵として入隊したのが、計らずも少尉に任官したので、…前後三カ年を要したよ。
軍隊と云うところは常識も学問もいらぬ、元の子供に還すところなんだネ。不動の姿勢で然も大きな声を張り上げて、
極めて簡単に答える丈で、意見を云ったり、議論なんかは以っての外、そんな事は堅く禁じられている。
 他興味深いお話が多々(早稲田の関係者創立者や会津八一先生の事、川上音次郎と新派劇…)書かれていました。
以上の内容から杉本忠道様は牧野克次様の母方の実家の子孫の方という事で間違いないと思いました。
杉本忠道様の75歳頃の写真は「牧野家の家族史」で、牧野克次の兄として紹介していた杉本忠治様の御顔とよく似ておられ
ました


杉本忠道氏著 「風雪70年」より
昭和43年9月10日発行
平成28年11月、長崎市在住の杉本家の当主 杉本忠行様宅を訪問
   杉本忠行様ご夫妻様は急な訪問の申し出に関わらず暖かく迎えて下さいました。
同居されている息子様のお嫁さんも同席して下さいました。
 杉本忠行様は父忠道様が九州長崎に転勤され、大阪でお母さんや兄弟と共に生活をされていたそうですが、小学4年生より家族全員、長崎に移住されました。ところがその年の8月に長崎に原爆が投下され被爆体験されたとの事。父忠道様は、長崎市の復興の為力尽くされたわけですが、家族も大変な状況になられました。「僕は家の歴史の事は何も聞いていないんですよ。」と話されていました。玄関の壁に杉本忠道氏が自ら彫られた漢詩が掛けられていました。

杉本忠道氏 若かりし頃の刻、杉本家玄関にあり応接間には、牧野克次の書画が掛けられ克次の画号が入っていました。杉本家の、アルバムから牧野克次の正装の写真や杉本忠治様や、杉本忠治様の四男の忠和様
(太井家に養子に入られた方)の写真を出して見せて下さいました。
藤井寺市道明寺の自宅にあったという仏壇を長崎市の杉本家に運ばれていました。
部屋の壁面全てに、はめ込まれた立派な仏壇に驚きました。
杉本忠道様著「中部悦郎氏を語る 」をコピーさせて戴きました。

道明寺の実家より長崎の自宅へ運ばれてきた仏壇の前で 当主 杉本忠行様
明治大学卒業後、長崎放送局37年勤務
右上の額(大)入り写真は 杉本忠道様の妻、杉本忠行様の母 重野様
  平成28年11月15日 竹田美壽恵撮影

当主 杉本忠行様より
「杉本家については東京にいる姉が詳しいです」と
白石美知子様を御紹介して下さいました。


杉本忠治様(牧野克次の兄)・ 杉本家の事をお尋ねする為東京へ
白石美知子様宅訪問 平成29年3月22日(水)
       
                                                                                 訪問者 竹田美壽恵
牧野克次の実家であった杉本家のアルバム公開

リビングにて  87歳 人形が好きとの事                                竹田美壽恵撮影 
 杉本忠道氏(牧野克次の兄の三男)の長女白石美知子様 東京都世田谷区在住
 著書「これだけは書き残しておきたい 白石美知子」創栄出版 
 2008(平成20)年11月11日 第1回出版 長崎での原爆体験を書かれた
 
御主人は鹿島建設のエンジニアで、1964年(昭和39年)の東京オリンピックで活躍された。
小学4年生の時に牧野克次さんが自宅に6カ月位逗留されていた時のエピソードを話して下さった。「杉本家ではいつも絵を描いておられました。学校から帰って来た時、「『画用紙と鉛筆を持って来なさい』と云われ持って行くと海で海水浴をしている女の子を5分位で描いて下さって本当に大切にしたお気に入りの絵だったんですよ。
お嫁に行く時に持って行かなかったので、あとから聞いた時点では分からなくなって、持って行くべきだったと残念でならないの」
「父は(杉本忠道氏)牧野克次さんを心から尊敬して誇りにしていました。母も克次さんが家に来られるのを心より喜んでいました。」家庭ではワンマンな父でしたが、牧野克次さんは、「『忠道、世間ではそんな事ではとうらんぞ』と穏やかに意見されていました。そして奥様(楠枝)の写真をいつも肌身離さず持っておられて、『妻は…』
『「家内は…』と話されていました。白石美知子様談

白石美知子様宅 飾り棚にはロイヤルコペンハーゲンのコレクション

テーブルの上に牧野克次の実家・兄の杉本忠治様・忠道様一族が住まれた家の
写真のアルバムを準備して下さっていた。


白石美知子様宅 東京都世田谷区自宅リビングから廊下玄関方向を撮影


白石美知子様宅       東京都世田谷区  白石美知子様の趣味で
1年に1枚ずつロイヤルコペンハーゲンの陶器を壁に飾られている 

白石美知子様宅 東京都世田谷区  白石美知子様の趣味で
壁に飾られたロイヤルコペンハーゲンコレクション
母菊野様の実家は天王寺から上町線の姫松(現在の帝塚山)にあり「祖母はミッション
スクールで友人にフランス人が多かった。」琴、鼓弓を引き美知子様は琴の手ほどきを
受けたという。美知子様は祖母の鏡台の引き出しにあった美しく輝くガラス製品を
見た印象がべネチアングラスに魅かれたきっかけになっていると 
著書「これだけは書き残しておきたい 白石美知子」の中に記されている。
杉本家の写真1 白石美知子様提供
(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)

杉本忠治様(牧野克次の兄)か妻タミ様の葬儀が自宅で行われた(写真は杉本家の玄関前) 

手前は眞光寺の佐々木住職様 アルバムを横向きに大きなこの写真が1枚貼られていた

この写真の後方右(玄関入口付近)に牧野克次と牧野純一が写っているように見える。

白装束の先頭が杉本忠道氏。写真はすべてアルバム1ページに1枚貼られ隣のページは

空けてある。

杉本忠治様の家があった住所(牧野克次が生まれ育った家)

   大阪府藤井寺市道明寺2丁目3の24 

杉本家の写真2 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)


杉本家の横側の土塀 写真1の杉本家の玄関の 左端にあたる

「この路を上って行くと広い道に出て道明寺天満宮が近くにあります。

杉本家は地主で土地を1000坪位所有していましたが、第2次世界大戦後の農地改革によって土地を失いました。」(白石美知子様談)

杉本家の写真3 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)


杉本忠道氏(牧野克次の甥)と妻、重野様の子供達

長女美知子様(後側の方)・左側より忠行様(次男)年子様(三女)信子様(二女)


杉本家の写真4 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)


写真は昭和14年頃の杉本家

杉本家の庭 写真5 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)



杉本家の写真6 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)



杉本家の写真6 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)


庭にあった池の前で 杉本タミ(杉本忠治の妻・杉本忠道の母)と親戚の男性 

「池には鯉が5~6匹泳いでいた カエルではなくて名前は出て来ないけど

きれいな鳴き声を聞かしてくれた事も思い出します。」(白石美知子談)

 杉本家にはお手伝いの女性が2人おられた。

杉本家の写真8 白石美知子様提供 (アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)



杉本家の写真9 白石美知子様提供 (アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)


牧野克次はここ杉本家で生まれ育った

杉本家の写真10 白石美知子様提供 (アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)


書は杉本忠治(牧野克次の兄)の名前が書かれているように見える

 

平成29927日 白石美知子様よりTELでお聞きした杉本家の事

(ご主人様が入院中で、毎日面会に行かれている中お話して下さいました。)

 ①美知子様がご結婚された時、お父様の忠道様が大事にされていた埴輪をもらったが、

 その時に掛けられた言葉は忘れてしまった。若い時なので、深く考えもしていなかった。応接室に
 飾っていたが、手を滑らせて落して割ってしまった。皆から高価な物だったのにと言われました。
 割った物を接着する事が出来ると云う事も知りませんでした。

②杉本忠道様の母タミ(牧野克次の兄の杉本忠治の妻)様は、太井家(牧野克次の実母の再婚) から杉本家に嫁して来られた方だった。タミさんの事を「太井のおばあちゃん!
 太井のおばあちゃん!」と呼んでいました。

➂杉本家は蔵が3つあり(年貢を入れる藏・衣裳を入れる藏など)トイレは4つか5

(庭師用・家族用・お客様用・女中用など)ありました。

封建的な家で、ご飯は、父が留守の時は、先に取って別に置いていました。ご飯は、

お茶碗の口が手にあたると汚いのでさわらず小さなお盆の上において、よそってそのまま

渡すようにしていました。

タミ様は確か腎臓を悪くして亡くなった。忠治様は、タミ様が亡くなってから

えのもとひさのさんがお世話をして下さっていたのですが、耳が遠くなり電車の音が

聞こえなかったのか電車に轢かれて亡くなったんです。私は母の代理として長崎に住んでいたので、
 その事を電報で知ったんです。

⑥長崎に住む父忠道様の所へ早く家族一緒に住みたいと母は思っており、大きな家は中々買い

手がつかず困っていたようです。

昭和19年頃だったか(戦争が激しくなってきた時)確か20円で売却されたと記憶しています。

⑦忠道氏の妻菊野様の実家は住吉の姫松(今の帝塚山)にあり藤沢という姓で、小児科の医師が養子に入られて阪大の先生をされていた

⑧杉本忠道は長崎の商工会議所で、会議中に原爆に遭いワイシャツは血だらけになって帰って来たと聞いている。


白石美知子様に、宮嶋家にあった人物名不明写真の確認をして頂きました
  
杉本忠治(克次の兄)と妻 タミ(天誅組の水郡善之祐の姪)
右側は竹田がデジカメで撮影し拡大して白石様宅に持参した写真
杉本忠治様は家が地主で村長さんなどをされていた。
写真は、杉本忠治と妻タミであると白石美知子様に確認して戴いた。

○杉本家のお墓は道明寺にあると過去帳に書いてあったが、道明寺に確認しても眞光寺にもないといわれたがどこにあるのですか?とお聞きしました。
「道明寺天満宮の近くに村の墓がありそこに杉本家の墓があった。
杉本忠道が長崎に行ってから道明寺にあった墓は墓じまいして長崎で墓を作っています。
三女(年子様)が早くに亡くなり一族(忠治様の四男忠和様一家も)が入っています。」
(白石美知子様談)

○堺出身郷土画家 岸谷勢蔵は杉本忠道の姉の子(甥)で杉本忠治とタミの孫に
なり杉本家に泊まりがけでよく来ていた。私とは従兄になります。父は「せいぞう!
かんぞう!」と2人の甥の名前を呼んでいたのを覚えています。
                                                                                             (白石美知子様談)


堺出身郷土画家 岸谷勢蔵 (牧野克次の兄の孫だった!!)  


郷土画家岸谷勢蔵の作品を中心に、近代の堺の都市を描いた資料を展示し、かつての堺の景観をたどります。建物疎開を行う前に、岸谷勢蔵が昭和19年に描いた宿院付近の疎開地区記録の原画を初公開します
と、堺市博物館より上記のようなポスターで企画展が行われました。その時の堺市民の方の投稿を読むと感動と尊敬をされている方でした。尚このポスター右下のお店の絵は、戦争後に焼失した生家を
岸谷勢蔵が描いたものですと堺博物館職員の方が話されていた。

     牧野克次 の妻 ・牧野楠枝       

   
牧野克次  牧野楠枝(牧野克次の妻)牧野家遺品
  宮嶋(牧野)春の祖父になる・  
宮嶋(牧野)春の父の純一は、克次と楠枝との長男
牧野楠枝(牧野克次の妻)の母 大江タケは大江廣元の末裔だった!
牧野克次が残した牧野家過去帳に「大江タケの父、大江半次郎は大江廣元の末裔」と記している。大阪幸町5丁目枡屋(大江姓)家の墓地に墓がある。
大江タケ(明治31年没72歳)は大江半次郎を父とし天王寺屋牧野平右衛門(岩之助)
(明治28年没70歳)の妻である。大江家を建てる為姓のみ公唱している。と記載されている。
 
 大江タケと天王寺屋牧野平右衛門(岩之助) と思われる(牧野家遺品)

牧野克次が書き残した永代過去帖
大江廣元という人物
没年:嘉禄1.6.10(1225.7.16)
生年:久安4(1148)
鎌倉幕府創立期の首脳。長く中原姓を称していたが,建保4(1216)年に改姓を許され,大江姓に変わった。みずから中原広季と大江維光の2人を父と記しているが,実父,養父の区別はつけにくい。系図類にも実父は広季,維光,藤原光能などの諸説に分かれる。明経生から出身し,外記(局務)を専職とする下級貴族として朝廷実務の経験を積んだのち,30歳代半ばから幕府首脳への途に転身した。源平の内乱の勃発とともに兄の中原親能が早くから源頼朝の陣営にあり,広元も寿永2(1183)年7月の平家都落ちののちまもなく,鎌倉に下ったと思われる。頼朝に文筆の才を見込まれ,公文所別当および政所別当に取り立てられた。しかし,単なる実務家ではなかった。文治1(1185)年には御家人らの訴えを頼朝に取り次ぐ「申次」を務め(たとえば源義経の有名な「腰越状」も広元宛である),頼朝の側近としての地位を固める。そして同年,守護・地頭政策に関する献策により頼朝の信頼を高め,名実ともに首脳としての実力を発揮するようになった。文治・建久年間(1180年代後半~90年代前半)には特に対朝廷交渉に起用され,ほぼ連年,頼朝の使節として京都に滞在し,朝廷・幕府関係の基礎作りに働いた。首脳部内の序列を正治1(1199)年の名簿(十三人合議制)にみれば,広元は北条時政,北条義時に次ぐ第3位である。頼朝の死後,しばらく幕府は内部抗争に揺れ動いたが,一貫して北条義時と連携する立場を守り,義時の覇権を支えた。承久3(1221)年の承久の乱に際しては,積極的な京攻めを主張して,幕府の勝利に貢献している。頼朝に仕えて以後,因幡守,明法博士,左衛門大尉,大膳大夫,掃部頭,陸奥守などに任官し,正四位下に叙された。子孫は長井,毛利,那波などの諸氏に分かれ,幕府評定衆の職を受け継いだ。<参考文献>目崎徳衛「鎌倉幕府草創期の吏僚について」(『三浦古文化』15号)
(河内祥輔)
朝日日本歴史人物事典の解説より


宮嶋晃氏所有 「牧野家の遺品」     宮嶋晃氏所有 「牧野家の遺品」


宮嶋晃氏所有「牧野家の遺品」の表書きに宛先 山形県西村山寒河江
送り主 東京都四谷須賀町十四の三・ 牧野純一(克次の長男)と書かれている

寒河江莊の地頭大江氏の人脈
(山形県謎説き散歩編著 山形大学名誉教授 横山昭男より引用)

奥州藤原氏滅亡後、寒河江荘の地頭職は置賜地方とともに、大江廣元に与えられた。
平安時代の大江家の系譜を華やかに彩るのは、学者、文人としての血筋であるが、
大江廣元は、鎌倉幕府の創立に大きな役割を果たした人で、源頼朝の最高政治顧問で
あった。
 承久の乱(1221年)で朝廷方につき、幕府に抵抗して姿を消した廣元の長男親広(ちかひろ)が
幕府の追及の眼を逃れて寒河江荘に潜伏して、後に赦免されたという。寒河江荘は、そののち「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」によると親広の次男広時とその子孫によって相伝されるが、その寒河江荘は、北寒河江荘(現在の河北町域)を没収された領域であった。
 大江氏が鎌倉から寒河江に来て土着するのは、元顕(もとあき)からで十三世紀末のことである。
南朝方として旗幟(きし)を鮮明にした大江氏は、北寒河江荘の奪回をめざして北朝勢に対抗する
ため、要地に一族を配して防備を固めた。寒河江・溝延(みぞのべ)・左沢楯山(あてらざわたてやま)・白岩(しらいわ)の四域がその中心である。漆川(うるしがわ)の戦い(1368)で、斯波兼頼(しばかねより)(最上氏の祖)軍に大敗したが、寒河江大江氏はその後も寒河江城を中心に、各城にはそのまま大江の血筋が城主としている。
 大江一族は、内部でそれぞれ自立性を強め、時には対立しながらも、全体として伊達(だて)
最上・武藤など守護大名の間で必死に生き延びを図ってきたが、天正十二年(1584)六月
最上によって滅ぼされた。ただ白岩城主は、以前に最上氏に服属していた関係で、
最上氏改易の元和八年(1622)まで大江の名跡を保った。
大江家滅亡の後、最上義光は、大江家宗廟(そうびょう)の荒廃を嘆く旧大江家家臣団の懇請を
受け、阿弥陀堂の再建を助け118石9斗余の黒印地(のちに朱印地)を寄進した。
この阿弥陀堂の別当に補されたのは、大江一族の良光である。
 別当は安中坊無量寿院と称した。西川町吉川の地がそれである。
                                                                                    (北畠教爾)
寒河江城(さがえじょう)<寒河江市>
           角川日本地名大辞典6 山形県より
中世~近世初期の城郭。現在の寒河江市の中心市街に所在。寒河江川末端の川岸段丘上に
立地。標高100mの平地に築かれた輪郭式の平城。天文3年の城絵図や江戸期に描かれた
絵図によれば、本丸は東西110m・南北162mで、濠幅14m、その内側に土塁があった。
二の丸は東西250m・南北330mで、濠幅15m、三の丸は東西400m・南北550mで、濠幅16m、その外側に幅約10mの通水路がめぐらされていた。当城は、鎌倉期以後寒河江莊の地頭であった大江氏18代の居城である。
 大江氏初代親広は、はじめ本楯(現寒河江市)に城を築いたが、嘉禄年間に当地に居館を移し、8代時氏・9代元時が整備拡張したといわれる。寒河江大江家は、左沢(あてらざわ)・荻袋(おぎのふくろ)
(現大江町)、白岩・高屋・柴橋(現寒河江市)、溝延(現河北町)などに一族を分封し支配を固めた。その間、最上氏・伊達氏としばしば戦闘を繰り返したが、天正12年6月
最上義光の攻撃により大江氏は滅亡した。以後、大江氏の庶族寒河江光俊が入り、最上義光の次男家親も一時居城したが、元和8年の最上氏改易によって当城も接収され、山形藩鳥居氏の預かりとなった。この時幕命によって二の丸・三の丸の土塁が崩され、濠も埋められ、さらに寛永13年当地が幕府領になるにともない廃城となった。
                      寒河江城(山形県)
 
             寒河江城の概観(『寒河江城古絵図』より作成) ウイキペディアより

 城郭構造  連郭式平城
 築城主  寒河江時氏
 築城年   南北朝時代末期から室町時代初期にかけて
 主な城主  寒河江氏、最上氏
 廃城年  元和9年
 遺構  堀・石垣・門
 位置   北緯38度22分34秒
     東経140度16分47秒
 ウィキペディアより


  寒河江城及び支城と周辺地形 ウィキペディアより

寒河江城跡の碑

寒河江小学校庭の西側に「寒河江城跡」の碑がある 
                                               平成29年3月23日 撮影 竹田美壽恵

                     平成29年3月23日 撮影 竹田美壽恵

以後二の丸付近に幕府領を支配する寒河江陣屋が設置された。現在、城跡は市の中心市街となり、本丸跡は寒河江小学校の敷地となっている。遺構はほとんど残されていないが、二の丸西門にあたる同小学校校庭の西側に「寒河江城跡」の碑がある。
       山形県寒河江市へ古澤徳治と寒河江城跡を訪ねて
                                                      平成29年3月23日(木)~24日(金)   

目的  宮嶋家に残された鍵付き大型木箱(横幅82㎝×奥行き50㎝×高さ56㎝)の上に宛先山形県西村山寒河江 古澤徳治様 送り主 東         京都四谷須賀町十四ノ三  牧野純一と書かれた紙と札がつけられていた。中に牧野克次・純一の大切な遺品が入っていた。
    牧野克次の妻楠枝の母は大江タケで、大江タケの父は大江半次郎である。
    牧野克次が書き残した過去帳によると、大江半次郎は大江廣元の末裔であるとの事。大江タケは牧野平右衛門の妻であったが、
         大江家を建てる為姓のみ公唱しと記載されていた。
    寒河江市には大江廣元の長男親広が城を築き寒河江大江家は、・
       (現大江町)、白岩・高屋・柴橋(現寒河江市)、溝延(現河北町)などに一族を分封し支配を固めた。とされている。
①牧野純一は古澤徳治様とどのような関係だったのか?
②寒河江城跡の碑を見たい。
➂大江半次郎は寒河江に住んでいた事があるのか?
牧野克次・純一は古澤徳治様とどのような関係だったのか?
 平成29年3月23日(木)
 古澤酒造の古澤康太郎様は当日東京へ行かれる予定だったところ
8時30分からだったら良いですよと会って下さいました。

古澤酒造株式会社代表取締役 古澤康太郎様  撮影 竹田美壽恵
 「 確かに寒河江の古澤徳治は2代目の古澤徳治に間違いはありません。
 しかし古澤徳治と牧野家がどのような関係だったかは知らないのです。
 古澤徳治は東京にも住んでいた事があります。
画家の福田古道人と云う方(俳諧もされていた)が古澤家に滞在されていた
こともあると聞いています。
貴方が来られると云う事で郷土史編纂史家の宇井さんや中山さんにも聞いたが
大江家の家系は2系統あり末裔の方の事は不明との事。
明治時代の住民台帳が寒河江市役所にあるので年代が分かれば調査出来るそうですよ。」
              古澤酒造株式会社代表取締役 古澤康太郎様談

⦁ 市役所で住民台帳を調べるには、調べたい方と血族が繋がっている人が自分の代
から順番に遡って住民票を取っていく必要があるとの事。
(さがえ市役所で言われた)

その後古澤徳治様の写真を出して来て下さり建物内を案内して戴きました。

古澤酒造2代目  古澤徳治様  寒河江の文化人だった方
「いろんな方が訪ねて来られるので、正月やお盆などの時にこの写真を出しています。」
 と古澤酒造株式会社代表取締役 古澤康太郎様談
古澤酒造株式会社会社社歴  古澤酒造公式サイトより
天保7年 古澤四郎治、出羽の国、羽前の郷寒河江楯北村にて酒造業創業。
昭和3年 2代目古澤徳治、1年おきに開催された仙台国税局管内清酒品評会において、
3回連続優等賞を受賞し名誉賞に輝く。
昭和5年 全国の名誉賞の栄誉を受賞。名実ともに銘酒造の仲間入りを果たす。この年、
日本酒に金箔を入れた独創的な「ゴールド澤正宗」を新発売。
昭和23年 古澤酒造株式会社に改組


山形県寒河江市にある伝統の酒造会社、古澤酒造公式サイトより
所在地 〒991-0023 山形県寒河江市丸内三丁目5-7
私が訪問した時は職人さんが屋根に登って作業をされていた

山形県寒河江市にある伝統の酒造会社、古澤酒造公式サイトより




古澤酒造2代目 古澤徳治様が建てられた座敷付きの蔵 撮影 竹田美壽恵


 
  蔵の裏に庭が広がる             古澤徳治様が残された酒母経過表


 
     古澤酒造の玄関を入ると手入れされた庭が見られた


   古澤家に伝わるお雛様が展示されていた        撮影 竹田美壽恵



宇井啓様と寒河江市立図書館 寒河江市史編集室にて
                                                                平成29年3月24日(金)

       宇井啓様 郷土史家       撮影 竹田美壽恵

   宇井啓様より戴いた著書

寒河江市史編集委員長 同文化財保護委員長 西村山地域史研究会長
主な著書論文「寒河江市史・中巻・下巻・近代編・現代編」「ふるさと寒河江の歴史」
「さがえ風土記」「さがえ風土記Ⅱ」「三泉村誌(寒河江市)」など多数
宇井先生は牧野家の家族史をまとめた今迄の経過と古澤徳治様との関係を調べている
事を真剣に聞いて下さり、先生の著書を戴きました。(上記掲載写真)
 大阪へ帰ってからも古澤徳治様の事を知りたくて図書館に行って調査していると、
歴代総理大臣伝記叢書(上)31巻に小磯国昭が、昭和20年5月20日
(郷土訪問と農村改善時の項)名酒紅葉盛で有名な古澤酒造の徳治君宅に宿泊
させてもらったと記されていた。
平成29年5月宇井啓先生より古澤徳治様について書かれた下記内容のお手紙を戴きました。後、市史編纂だよりを掲載した市報さがえ2017,7,5号も、送って下さいました。
古澤徳治(1889~1978年)は寒河江の酒造家で、若い頃、秋田県湯沢町の「両関」
酒造場や兵庫県の灘・広島県西条町の銘醸家に出かけて実施研鑽に務めた。
昭和3年、東京日本橋国分商店を卸店として、東京に「紅葉盛」「澤正宗」を送った。
この頃、東京に暮したという。そして、優良得意先を蔵元に招待したのである。
 上山市村尾旅館に全員を宿泊させ、蔵元への送迎には、内陸地方のタクシー全て
を集めて対応したという。古澤酒造には、昭和3年から、5年にかけて3年連続で
最高名誉賞の栄に輝いた。
 一方、徳治は芸術文化にも高い関心を持っていた。正岡子規とも交流があり、漢詩・
書画・俳句・和歌で知られる福田古道人(1865~1944)を古澤家に宿泊させ、多くの
作品を制作してもらった。遺跡の顕彰にも関わり、ストンサークル記念碑・
高瀬山古墳碑なども建立している。朝日町の大沼浮島には古道人の歌碑も建立した。
「浮島は奇しき島かも波の上に ゆれつつ立てり奇しき島かも」とある。
徳治は、昭和10年代寒河江を代表する文化人であった。(文・宇井啓先生)
牧野克次は1864年~1942年に、長男純一は1895年~1960年に生きた人だ。
弟  太井武夫   牧野克次の弟 堺市石津町1317 
     1869年(明治2年)1月7日~1954年(昭和21年)5月没

  身長の高い、体格の良い方で医師をしていた。
  東京の牧野克次邸に、太井さんが来て「一回、堺の自宅に来るように」と
言われ父の純一と美喜子(母)に連れられ、園(妹)と私と4人で訪問し
ました。 
東京から行ったので母の美喜子の実家(京都)で1泊してから行きました。
浜寺1丁目で降りて歩いて行きました。
太井邸では、女中さんが応対して下さり、食用ガエルが飼ってあって、初めて
見たのでびっくりしたのを覚えています。私が小学生の時でした。」
                 宮嶋(牧野)春(牧野克次の孫) 談
「小学生の頃、祖母、牧野美喜子に連れられて1度、堺の太井家を訪問した。
  黒塀がどこまでも続くお城のような大邸宅だったのが印象的だった。行くとまず
玄関にいる門番が対応した。」宮嶋晃様(牧野克次のひ孫)談 

太井武夫氏は実子がおられなかった為、養子さんが引き継いでおられた。
                           (竹田が調査)
「太井さんはドイツで留学して来られたと聞いている。
借家が太井家のまわりにあった。
太井氏の跡地は現在はクボタ鉄鋼所の独身社宅が20軒位建っていた。」と話されていた。
その後一般住宅が建てられた。
                  太井武夫邸の近所に住んでおられた方の話 
約1360坪あった太井武夫邸と太井氏所有の土地台帳
明治20年頃の地図   大阪府堺市石津町1317(太井武夫氏住所)周辺
太い黒いマジックで囲んだ所は太井武夫氏が所有していた土地 
左側の黒マジックで囲まれた中にピンクで囲まれた所が太井武夫邸で453坪あった。
それ以外の太井氏所有名義は約503坪あった。堺法務局堺支局で太井武夫氏の
住所とその周辺の所有者を確認しただけで、それ以外は調査していないが、
養子に入られた様の実家の様は太井家は、1360坪の宅地が
ありましたと話されていた。 調査 平成29年6月16日  竹田美壽恵



昭和31年頃の地図 大阪府堺市石津町1317(太井武夫氏住所)周辺
 太井武夫氏邸宅と太井家が所有していた所をピンクのマジックで囲んだのが
下の地図です。
大阪府堺市1956年(S31年)11月15日発行吉田地図ではピンクのマジックで囲んだ太井武夫氏邸宅と太井家が所有していた所に、50数軒家が建っている。     


調査 平成29年6月16日  竹田美壽
大阪市中央図書館資料


昭和7年刊行 第36版 日本紳士録(発行所 財団法人交詢社)
堺市中央図書館所蔵

P150に下記のように記されている。 
太井武夫  医師 大阪工業大学学医
      東平野2-27
      所得税 126
      TEL 本局23-2414
太井武夫氏は東平野で開業され、阪大の前身の大阪工業大学校医をしていたことは、太井武夫氏の養子に入られた土師善治様の甥にあたられる土師楠嘉様や土師善治様
の長女の中田真理子様 が話された事で、確認出来た。
 P691に牧野純一の名前もあった
    宮内庁内匠寮室内装飾
    四谷南寺49
    所得税 122
TEL (4)35-3563
堺医師会史(25周年記念)にも太井武夫氏の氏名が掲載されていた
 昭和47年度祝賀会で発行 堺市中央図書館所蔵
  昭和14年8月1日現在
  太井武夫  
 電話番号  2167 神石 上石津

太井家のお墓について 

大阪府堺市石津町3丁目にある 神石共同墓地入口
撮影H29年7月14日 竹田美壽恵

太井家本家のお墓 太井武夫の父の武治・母 貞が眠っている。
                                                         撮影H29年7月14日 竹田美壽恵


本太井家の墓の裏側に太井武夫の名前が読める。
太井武夫様と養子に入られた太井(土師)善治様もここに眠っておられると
後に、太井善治様の長女、中田真理子様よりお聞きする事が出来ました。
                                                          撮影H29年7月14日 竹田美壽恵

土師様宅訪問    平成29年8月6日・10日・21日訪問
太井武夫様の養子に入られた太井(土師)善治様の実家        

当主の土師楠嘉様 83歳           平成29年9月21日 竹田美壽恵撮影
堺市南区和田   太井武夫氏の養子に入られた土師善治様の実家


    
   土師楠嘉邸 長屋門                              長屋門左の塀の前に土師楠嘉邸全容の図に
                                                                        堺市指定保存樹木くすのきの位置が示されている
                                                                                平成29年8月6日 竹田美壽恵撮影

       
 土師楠嘉邸 母屋 右側に藏                        土師楠嘉邸母屋 客用玄関で迎えて下さった 
                平成29年8月6日 竹田美壽恵撮影               当主の土師楠嘉様 
                                                                                            平成29年9月21日 竹田美壽恵撮影
            土師楠嘉様のお話
1.土師家の人々
土師楠三郎 長男 楠弥様  長男 楠嘉様(現在の当主)  養子様
次男 正嘉様(京大卒・河盛堺市長の親戚へ養子に)
三男 善治様 (京大卒・太井武夫家に養子に入られた方)

前列 右から2番目長男 楠弥様 3番目 次男正嘉様 4番目3男善治様
                                                平成29年9月21日土師楠嘉様提供の写真を 竹田美壽恵撮影 

前列 右側祖母 定様(実家は2代目貝塚市長・醤油屋)隣で母千賀様に抱かれている現在当主の楠嘉様 
後列 右端 叔父(3男)善治様  真ん中 楠嘉様の父 楠弥様  左端 叔父(次男)正嘉様 
平成29年9月21日土師楠嘉様提供の写真を 竹田美壽恵撮影 
2.土師(はぜ)家のルーツなどについて

① 父の楠弥様の口伝では
・土師家の先祖は(出雲大社のある)出雲の出やと聞いている→奈良に入り奈良朝廷に
仕え埴輪などを作った→ 河内に行ったそこが和泉国になって(現在住んでいるところ)住みついた。
②明治6年に家を建て直した時、(土師本家)家系図など家の大事な物を近くのお寺に預けた所、廃仏毀釈の頃でそこのお寺の坊さんが売却してしまった。そこのお坊さんの墓を、近所の人はどろぼうのお墓があると言っていたが、小さい時に聞いて意味が解らなかった。
➂土師家の長男はタバコを吸ってはいけない事になっている。贅沢したらあかんと云う事です。五代程前に贅沢しすぎた。タバコをこの辺で作っているのに、九州から取り寄せたりした。曾爺さんまでは酒もたばこも止めた。自宅にある古文書を調べたら、不作で
村中食べ物が無い時に土師家は土地を売ってサツマイモを買い、村中に分けた。1回ではなく何回もしていた。時々その当時の事を知っている方がお世話になったと言われました。
④土師家は帯刀を許されていたので大6本小4本家にあった。
 マッカーサーの命令で堺南警察へ提出しました。
⑤幕末の火縄銃もあった。
⑥古文書が自宅土蔵に1300点ある。江戸時代元禄時代からのものです。村の土地、
人別帳もありましたが、ネズミがかじってそれは焼きました。
⑦祖父、土師楠三郎は村長、郡会員、大阪全体の所得調査員をしていた。
⑧祖母、実家は2代目貝塚市長・醤油屋、 実家に第9代早稲田大学の時子山常三郎総長の本家からお嫁さんが入っておられる。父の楠弥氏に総長が書かれた本が送られて来た。
⑨家系は
 土師嘉兵衛(はぜかへい)→大阪から養子に入った人で最後の庄屋の弥三郎(88歳没)→長男 楠太郎(80代没)→楠三郎(農学校の獣医46歳没)→ 楠弥(S40年59歳没)→ 長男 楠嘉様(現在83歳)
⑩明治に入って最初国宝だったのが、重要文化財になった多治速比売(たじはやひめ)
神社のおまつりを神主様の代理として、江戸時代に勤めた。
すもう谷にて、毎年相撲大会などをしていた。そこは菅原道真の紋が入っていた。
多治速比売(たじはやひめ)神社の大将のような役割をしていた京大の近くにある
吉田神社では、3つの柏紋だったので、それにせよと云う事で土師家の紋となる。
(丸の中に3つ柏)


多治速比売神社

所在地 大阪府堺市南区宮山台2丁3-1
ウィキペディアより
3.土師楠嘉様の事
 ・国立大阪学芸大学卒業(現在は大阪教育大学になっている)
  歴史(東洋史専攻)中国史 古文書が読める方。
  小、中、髙の教員免許を持っておられる。
  社会科の教員として30年勤務。最後は原山台東小学校教頭だった。
  校長試験を奨められていた時大変忙しくしていた時、体に変調を感じ51歳の時
難波で、MRIを撮ってもらったところ脳梗塞をしていると言われ今だったら
きちんと治してあげると言われ退職された。その後古墳の研究を30年、大阪府の
文化財愛護推進委員を40年現在も続けられている。
 ・土師楠嘉様の奥様の事
  仙骨骨折して、入院されたが、今は家に戻られている。
奥様の祖父も師範学校に行かれている。
養子さん(和泉市の大庄屋をしていた家で村のダンジリが置いてある家・公務員)がおられそのお嫁さん(奈良県桜井市の古代より原始信仰の対象になっている三輪山の人)が、よくしてくれて良い子です。」と話される
・宗教は高倉寺宝積印(たかくらじほうしゃくいん)の 古義高野山真言宗
(古い真言宗の事)高野山の仏様の下に両親のお札を入れて、祀ってもらっている。
・太井家の親戚に牧野克次という親戚があると聞いている。
・戦時中太井家が空襲にあわれ、防空壕内に住んで居られた為、太井武夫様を迎えに
行って土師家で過ごされた部屋があった。土師家は金岡の兵隊が20人位寝泊りしていた。
床の間に鈴木貫太郎首相の書を掛け軸にして掛けられ、室町時代に書かれたという屏風が立てかけてあり富岡鉄斎の絵の屏風があった。そこの和室、廊下のガラス戸からは庭が見え川が流れるようにしてあり大きな石燈籠が何基も配置されていた。
母屋には応接室が4つもあり、美術館のようだった。


 
  戦時中、太井武夫様が過ごされた部屋       どちらも平成29年9月21日 竹田美壽恵撮影

 
  土師家の庭                      鈴木貫太郎首相の書
     平成29年9月21日 竹田美壽恵撮影          平成29年9月21日 竹田美壽恵撮影

4.太井武夫様の事
 ①ドイツの医学校を卒業しドクトルオブメジチ―ネ(医学博士)の資格をとり
大阪で開業していた。阪大の前身の大阪工業大学学医をしていた
太井武夫さんは、堺市長の娘さんを妻に迎えたが、離婚された。子供はいなかった。

        
土師楠嘉様の叔父の河盛(土師)正嘉様宛に太井武夫様が書かれた手紙
土師楠嘉様提供 平成29年9月21日 竹田美壽恵撮影
② 太井家は履中天皇陵の管理もしていた。
太井家は、江戸時代上石村の庄屋をしている。
 太井家に行って太井家にある古文書を読ませて戴いていた時に太井家が履中天皇陵        
 を管理していた事が書かれていた。(土師楠嘉様は専門教育を受け古文書が読める方)


左側の大きな古墳が仁徳天皇陵   多治速比売神社  右側に履中天皇陵古墳
 堺市役所21階展望ロビーの解説写真

左側の大きな古墳が仁徳天皇陵     中央右側に履中天皇陵古墳
堺市役所21階展望ロビーより撮影 竹田美壽恵 H29年9月21日
➂.太井家の古文書は、タンスにきっちり整理してあった。が…
  太井家は蔵が2つあった。
  第2次世界大戦で大阪空襲にあった時、鉄筋の蔵は焼夷弾で全部焼かれて
しまったが、古い蔵は残っていた。
  古文書は長持ちなどに入っていたのでビクともせず残ったが、養子の善治様の妻
翠さんが古い古文書をただ同然でゴミのようにして回収業者に売ってしまった。
  丁度売った後に楠嘉様が、太井家を訪問して事情を聞き翌日に、買い戻しに
行ったが古い紙類を全部束にくくってしまってあり、どこにあるか分からず結局
戻ってこなかった。
④太井家に人別帳もあった。
  和泉が丘で、人別帳を持っている家を廻ったが薄いものだった。太井家のように
  人別帳が一杯ある家は見た事がない。
  人別帳について 竹田調べ ブルタニカ国際大百科事典
   江戸時代の戸籍の称
   戦国時代の諸大名の中には富国強兵の為に人別調を行ったものがあり江戸幕府も
   初めは切支丹改の為に人別改を行ったが、享保以後は主として人口調査(事に農民の移動防止)の目的で町村役人に子(ね)および午(うま)の年(6年毎)に管内の人別帳を作成させた。これは、毎年作成させる宗門改帳とは目的も内容も異なるものであるが、後には、両者は混同され宗門人別帳などと呼ばれた事もある。
   現在でいう戸籍原簿や租税台帳(江戸時代の中期)
⑤ 石津は7軒旧家があったが、太井家1軒になった。
 太井家と水郡家は親戚ですよ。水郡家の分家と土師家の親戚が結婚している。
⑦ 太井家の檀那寺は永詳寺
  息子さんは、京都の大学を卒業して高校の先生だった。
永詳寺の和田氏は 和泉国の和田氏の一番古い家と称している
⑧ 太井武夫様より太井家の冊子をもらったが、
  太井家の屋敷内で武夫さんが立っている写真があった。
  お祖母さんが持っていたので、どこかにあると思うのですが、見当たらない。
⑨太井は最初 「太」と云っていた・太井家は宅地で1360坪あった。
5.太井(土師)善治さんの事
 ① 善治さんは23歳頃に太井家へ養子に入ったのでは?と思う

太井家の前近くで、右端 太井(土師)善治様・真ん中、妻の翠様 左端善治様の母定様
 前に写っている方は太井真理子様 戦争によって爆撃の被害をこうむった太井家
 写真は土師楠嘉様提供 平成29年9月21日 竹田美壽恵撮影
② 太井(土師)善治様の妻翠様の実家は、鳳郵便局長(新居家)で、4人の娘さんがいた。
 長女 翠さん   夫は京大卒の太井(土師)善治さんクボタ鉄工本社の経理の勤務
 二女       夫は京大卒の検事(裁判官)
 三女       夫は京大卒 大阪ガスの常任監査役
 四女       夫は京大卒 医師(神戸で開業) ・土師楠嘉様と同級生
➂ 太井(土師)善治様と翠様の子供さん 真理子様の話
「私が、10歳の時に父が亡くなり太井家について何も聞かされていないので何も知らないのですよ。太井武夫さんは明治生まれの立派な人だったと母から聞いています。」

土師楠嘉様に面会出来るまで、堺市石津町の古橋保守様の奥様、松川晴治様、吉岡啓至様の奥様、中野建様、上総秀隆様、永詳寺の和田正俊様がご協力下さいました。
上総秀隆様にはお父様の上総修一郎様が書かれた「神石地区のこぼれ話」という本を
コピーさして戴いたり、土師楠嘉様と親戚になられるとの事で、自宅まで自家用車で一緒に行って下さいました。
本当にありがとうございました。
太井家は天誅組水郡善之祐を応援していた!!が…
天誅組と村々の動向という小目次に(P.1157~P.1159)
河内勢の中心だった水郡善之祐の叔父丹南郡日置莊西村庄屋太田平左衛門と同村の日置
孫左衛門らは、文久元年12月に水郡善之祐から銀五貫目を利息月六朱で預かっている。
……  しかし前述の太田平左衛門の親戚で水郡善之祐の従兄弟であった太田信之助と、
神石津村庄屋、太井民之助らは、天誅組出発後、京都の八・一八の政変を知り、8月22日
に大和五条へ善之祐を呼び戻しに出かけたが、善之祐と面会出来ずに引き返してきた。
……その後堺の周辺地域の農村の庄屋・豪農層にとってはその立場に微妙なものがあった
等と書かれている。
                      堺市史続編 第一巻より

       

太井武夫氏(牧野克次の弟)の遺言書(縦書きで記載されている)

          弁護士・税理士 居谷清一 

                                           大阪府堺市櫛屋町東2丁7番地 ・電話 堺774

 

昭和2151日 堺市石津町1317番地 太井武夫宅に於いて同氏の証人に対し左の

遺言を為したり


太井武夫氏遺言書1枚目  宮嶋晃所蔵 ・ 撮影;竹田美壽恵

太井武夫氏遺言書2枚目  宮嶋晃所蔵 ・撮影:竹田美壽恵



             
 遺言の趣旨

太井(土師)善治、太井翠に告ぐ (太井武夫氏宅に養子に入られたご夫妻)

拙者(せっしゃ=私は)病褥(びょうじょく=病気になって床につく)にあること約1年、療養努めたるも、到底全治の見込みなく昨今危急に迫りたると覚か、吾れ死後は夫婦相和し、円満なる家庭を造れ、祖先を崇拝し、太井家の永久を図れ、徒(いたず)らに我を張り他を排する勿(なか)れ、世の指弾(しだん=非難)を受け太井家の名を辱(はずかし)むること勿れ、之夙夜(しゅくや=1日中)憂いる(うれう=将来が心配)所にして、汝等(なんじら=あなたたち)に切望する所なり

 

延井○?江(もとえ?)に告ぐ(太井武夫氏の身辺のお世話を多年された方)

汝は 多年予の家に在り、 勤勉カ行太井家の為めに図るる殊に予の病む中、日夜看護に

従事し、家政の整理に汲々(一心に努めて)とし、毫々倦怠の色なし(疲れをみせず)、予は

深く之を謝す。

其の労に酬いる為め 予の所有に係る近畿日本鉄道株式会社一株に付 金五十円也全額払込 
参百株を寄贈す

 

牧野園に告ぐ(牧野純一の次女)

予は汝を養子として迎えたり、之れ必竟(ひっきょう=つまるところ) 太井家の滅亡を

(おもんばか=深く考え)りなるが為なり、

汝に分家料として、近畿日本鉄道株式会社 株式 壱株に付 金五拾円 

払込 ○?弐百株、京阪神急行電鉄株式会社 株式壱株に付 金五拾円払込み 

○?参百株を寄贈す、汝能○?予の意を躰し、祖先を祭祀し、太井家の連綿(長く続いて

絶えないように)を期せよ

右株式を直ちに 各受遺者名義に書換変更すべきの所、罹災焼失の為め、新株券交付請求に
時日を費し、其の意を遂ぐるを得さるを遺憾とす。新株交付あり次第直ちに其の

所有名義 書検の手続きを為すべき○?のとす

右株式の遺贈に因り生ずる全ての公租 公課は全て善治に於いて負担し受遺者に迷惑を

掛けざるものとす

 

本遺言の執行と堺市石津町 白野吉三郎 同市神石市之町 平山幸治郎 堺市櫛屋町東弐町 
居谷清一の三氏に委嘱す

 

○?の遺言に、左記証人立ち合いの上、遺言者は其一人 居谷清一に前記遺言の趣旨を

口授し、その口授を受けたる居谷清一は、之を筆記し遺言者及 他の証人に読聞かせ 
○?証人筆記の正確なる事を承認し、左に署名捺印す

     居谷清一 印  白野吉三郎 印  平川幸治郎 印

右確認す

昭和21515

堺区裁判所

判事  堤実雄 印

 

・この遺言は昭和23年5月23日 太井善治宅にて遺言執行者 居谷清一 白野吉三郎

 平山幸治郎 立ち合いのもとで受遺者 牧野園子代理牧野純一と延井○?江のサイン押印され
遺言執行調書も同封されている

 

年考(縦書きで記載されている)

 

財産総額 貳拾参万六千弐百拾参圓也 ( ¥236213円)

右に対する税金(財産税)

    金 六万九百拾七圓拾五銭 (¥60917円15銭)

税金負担割合左之通り

 

太井善治氏 金 四万百五円参拾七銭  (¥40105円37銭 税金額

              (拾五万五千五百拾参圓に対し) ¥155513円に対して

 

 牧野園氏 壱万弐千九百弐拾円参拾八銭 (¥12920円38銭 税金額)

     (五万壱百圓に対し)    ¥50100円に対して

 

 延井○江氏 金 七千八百九拾壱円四拾銭    7891円40銭 税金額)

                  (近鉄300株 参万六百円に対し)    ¥30600円に対して

 

財産税課率

10万円~ 11万円迄        2割5分

11万円~12万円          3割

12万円~13万円          3割5分

13万円~15万円          4割

15万円~17万円          4割5分

17万円~20万円          5割

20万円~30万円          5割5分

 

 

昭和15年~昭和30年の物価状況( 明治~平成値段史 より)

白米

1升

白米

10

砂糖

1

玉子

1

ビール

大瓶1

そば

1

昭和15

50銭 

3,3

47

7,1

45

15

昭和20

公定

53

ヤミ

70

 

公定

1

ヤミ

270

公定

29

ヤミ

3,4

公定

2,85

ヤミ

20

 

昭和25

60

990

310

15

130

15

昭和30

 

1080

150

14

125

30

 

1935(昭和10) 年~1955(昭和30)年迄の給料・労賃状況(明治~平成 値段史より)

給与

所得者

年収

勤労者

世帯

実収入

(月)

国家

公務員

初任給

大卒

初任給

巡査

初任給

高卒

初任給

大工

手間賃

1日)

 

日雇い

労働者

賃金

(1)

 

昭和

10

712

91

75

73

45

 

2

9

1,3

昭和

15

13

748

125

75

75円~

80

45

中卒

42

3

14

2

昭和

20

 

 

 

 

 

 

ヤミ

35

 

昭和

25

12万円

1,3万円

4223

 

4000

 

320

260

昭和

30

20,8

万円

2,9万円

8700

1,1万円

7800

6600

560

410

 

新円切替昭和21年に行われている。

 1946(昭和21)216日夕刻に幣原内閣が発表した戦後インフレーション対策として行われた金融緊急措置令を始とする新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策に対する総称である。(ウィキぺディアより)

概要  

  第二次世界大戦の敗戦にともない、物資不足にともなう物価高及び戦時中の金融統制の歯止めが外れた事から現金確保の為の預金引き出し集中の発生、又一方で政府も軍発注物資の代金精算を
強行して実施したことなどから、市中の金融流通量が膨れ上がり、ハイパーインフレーション
発生した対策が背景としてある。

 この時同時に事実上の現金保有を制限させる為、発表翌日の17日より預金封鎖し、従来の紙幣は
(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方で
194633日付けで旧円の市場流通の差し止め、
一世帯月の引き出し額を
500円以内に制限させる等の金融制限策を実施した。これらの措置には、
インフレーション抑制(通貨供給量の制限)と共に、財産税法制定、施行の為の、資産差し押さえ・資産把握の狙いもあった。この時従来の紙幣(旧円)の代わりに新しく発行されたのが新円である。

 インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきる事は出来なかった。その為

市民が戦前に持っていた現金資産は、日本国債等債権同様にほぼ無価値になった。

                                                                                        (ウィキぺディアより)

 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0b/Changeover_to_the_New-Yen_in_1946.JPG/200px-Changeover_to_the_New-Yen_in_1946.JPG

 ウィキぺディアより

わかったこと

・物価指数は1835(昭和10)年を1として、1940(昭和15)年は1.64倍、 1935(昭和20)

年は3.5倍、1950(昭和25)年には220倍に跳ね上がっている。

(明治~平成値段史参考)

・明治20年に遺産税法式がとられるようになり税率は家督相続の場合の最低税率は、1000分の12(0.012%)が課され、遺産相続の場合の最低税率は、1000分の15(0.015%)が課されて
いました。(相続税
100年の軌跡 2005.4税務大学教授 菊池紀之39~40参照)

太井武夫氏が亡くなり遺産相続された昭和21年には高額財産所有者に対し税率の引き上げを
改正され相続者は相続額の
25%の課税があった事が遺言書に文章がついています。

 

 

太井武夫氏は太井家の滅亡を避ける為遺言書を残したが、昭和21216日第2次世

大戦敗戦後の日本政府の政策により市民が戦前にもっていた現金資産は預金封鎖になり

現金は、引き出せずほぼ無価値となった。株式を遺していたとはいえ財産税で4分の1を

没収された上、貨幣価値が全く変わった。

給料面を見ると国家公務員初任給は、戦前の昭和15年は月75円で戦後昭和25年には

4223円で56倍になっている。物価の方は戦前昭和15年お米10キロが3.3円であっ

のが戦後昭和25年には990円となり物価高騰し300倍に跳ね上がっている。

太井武夫氏の遺言が遺されましたが財産を継承される事にはなりませんでした。

そういう厳しい中で養子になられていた太井(土師)義治様は、太井家の墓に入られて現在子孫の
方が守っておられます。

日本政府が第2次世界大戦に参戦し、敗戦したことにより国民の生命や財産、生活が簡単に
奪われた事を太井武夫氏の遺言書を通じて私達に教えてくれています。

 

おわりに

・ある新聞にシベリア抑留された方の想い出話に「ジャガイモが道に落ちているのを発見して仲間同士が殴り合いの喧嘩をして勝った人が喜び持ち帰り、ストーブで焼いて食べようとしたところ馬の
糞だったのであまりのショックで泣いていた」という記事があった。戦争を経験された方はもっと
もっと悲惨な日常だったと思うと胸が痛んだ。

・戦争で父を亡くし貧乏など辛酸を経験された、政治生活40年の古賀誠氏は、戦争を知らない国民が8割を超えた現在、言うべき責任があると現行憲法に流れる平和主義、主権主義、主権在民の精神はつないでゆく必要があるとして「憲法9条は世界遺産」を出版されている。

・俳優の鈴木瑞穂氏はガチガチの軍国少年で、75年前広島に原爆が投下された朝、広島湾に浮かぶ江田島(海軍兵学校で授業中)から広島市内の光景を見られたそうです。復員後京都大学経済学部に
進学してそこで新憲法に出会い条文を読んで強い衝撃を受けた。

「日本は戦力を放棄する。もう2度と戦争をしない、と書かれている。なぜこんなに優しい言葉で、一人一人の人間に愛情を注げる憲法が生まれたのか。感動したというより、未知のものを見た驚きがありました。兵学校の2,3期上は戦地に赴き、無残に死んでいった。この憲法は、戦争で死んだ人達の遺言に思えたのです。」と話されています。

毎日新聞夕刊2018.8.14[庄司哲也記者]

私はこの言葉をしっかりと受け止めなければと思った。

実際に戦争を経験して来られた方の言葉を新聞はしっかり記録して下さっています。

2020.7.6毎日新聞余録に第2次世界大戦中の大量国債と戦後のハイパーインフレの状況だった事に関連して現在日本の国債発行がすさまじくその為国の借金がすでに敗戦時並みの水準に
なっていると警告
している。

・私は、小学生の時学校の図書室で原爆写真集を見た時はショックを受けた。

しかし、学校教育の中で第二次世界大戦について何を学んだのか殆ど思い出せない。

大阪には、ピースおおさか(大阪国際平和センター)があり職員の方が、太平洋戦争

末期の大阪空襲の体験画を含む資料1万点をデータベース化し館内の端末から常時閲覧出来る
ようにする計画が進められているとのこと事。

私達は、昔の事としてではなく今後も平和を維持していく為、新聞や映画、本を読んで戦争の実態を知る必要がある。 

選挙時だけでなく普段から、憲法を守る候補者なのか、経済対策の展望がしめされて

いるか等政策と人柄(何を取り組んで来た人なのか)をしっかり点検して投票する事が

大切だと思う。



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