2020(令和2)7月(追加) 著 者 竹田美壽恵 HP担当 勝 成忠 |
兄の杉本忠治(牧野克次の兄) ・ 弟の太井武夫(牧野克次の弟)
目次
1.家系図
(1)天王寺屋・牧野家系図
(2)牧野克次、幼少期の家族構成(杉本家)と弟、太井武夫の家族
(3)杉本家の家系図(牧野克次に関係する範囲)
(4)その後の杉本(本)家
2.牧野克次の実家、杉本家
(1)杉本忠治(牧野克次の兄)と妻タミ
(2)明治天皇大和行幸時、宮内卿と侍従長の宿泊所だった杉本家
(3)現在の杉本家当主・杉本忠行様宅(長崎)訪問
(4)杉本忠道様紹介(杉本忠治[克次の兄]の息子で跡取り・杉本忠行様の父)
1)杉本忠道氏略歴
(5)杉本忠道著「風雪70年」
杉本忠道氏の人生・杉本家の歴史・牧野克次とのつながり
1)忠道氏は長崎原爆体験直後、親友と長崎復興に貢献
2)第5回内国博覧会(大阪)で牧野克次より聞いたエピソード
3) 謡のエピソードと牧野克次
4)杉本家のルーツ
5)杉本家と藤井寺市道明寺にある真宗眞光寺
6)杉本家と天誅組・水郡(にごり)善之祐
(6)白石美知子様宅(杉本忠道氏の長女・杉本忠行様の姉)訪問
1)白石美知子様紹介
2)杉本家の写真(牧野克次が生まれ育った家)
3)白石美智子様よりお聞きした杉本家のお話
4)堺出身郷土画家、岸谷勢蔵(白石美智子様の従兄弟・杉本忠治の孫)
3.牧野楠枝(牧野克次の妻)の母、大江タケは大江廣元の末裔だった
(1)大江廣元という人物
(2)牧野家遺品の木箱に大江氏ゆかりの山形県寒河江が宛先に
(3)山形県に大江氏18代の居城「寒河江城」あり
(4)山形県寒河江市へ訪問
1)古澤徳治を訪ねて
2)寒河江城跡
3)宇井啓様(寒河江市史編集委員長)に面会
4.太井武夫(牧野克次の弟)
(1)太井武夫邸を捜す
(2)太井武夫氏の自宅と所有地
(3)太井武夫氏は医師だった
(4)太井家のお墓を捜す
(5)太井武夫氏の養子さん(土師善治様)の実家訪問
1)土師楠嘉様(土師善治様の実家の現当主)邸でお話伺う
2)土師家の人々
3)土師家のルーツ
4)土師楠嘉様紹介
5)太井武夫様の事
6)太井家は履中天皇陵の管理をしていた
7)太井家の古文書や人別帳
8)土師善治様(太井武夫氏の養子に入られた方)と妻の翠様
9)太井家と天誅組、水郡(にごり)善之祐とは親戚だった
(6)太井武夫氏の遺言
兄 杉本忠治(牧野克次の兄)と妻 タミ
牧野克次の、幼少期どのような理由があったか分からないのですが、実母の杉本貞(さだ)と実父の松本伊右衛門(45歳で亡くなり絶家になっている)とは、克次が3歳頃までに離婚したと考えられる。実母貞がその後再婚したことにより、実母の実家の杉本家で育てられています。
杉本貞(克次の実母)の兄夫婦(杉本と杉本信枝)が戸籍上、克次の親となっていました。宮嶋家に残されていた写真(左下)の裏に兄、杉本忠と書いてありましたが、真実の名は、杉本忠治で、実母、貞の兄の杉本忠平の子供でした。
宮嶋家では、杉本家が、牧野家の本家になると思われていましたが、牧野克次の母、貞の実家だったと云う事が調査して分かりました。
藤井寺市史に明治天皇大和国行幸記録が残されている。陸軍卿山県有朋に宮内卿德大寺実則が提出した行幸日程では、明治10年2月12日道明寺御伯、行幸供奉として左政大臣 三条実美、参議として伊藤博文、従三位の木戸孝允(桂小五郎)、宮内卿 德大寺実則議長 有栖川宮熾仁親王等の名前があった。行幸宿割で宮内卿 德大寺実則及びその従者2名と侍従長 東久世道禧及び従者1名(接待の担当)の宿は杉本忠平(牧野克次の養父・戸籍上の父)宅で行在所より隔たる事凡2丁12間で、補筆朱書として忠逸(牧野克次の祖父の杉本忠逸)の名前も記録されていた。当日宿割変更があり参議の伊藤博文から山県有朋に、杉本忠平宅では、宮内卿德大寺と宮内少輔杉孫七郎の名前になっていた。
(明治10年2/10~11明治天皇行在所の今井町称念寺にて明治天皇へ西郷隆盛挙兵・西南戦争の一報が入ったという逸話がある。)
牧野克次の略歴書に
明治10年(1877年) 牧野克次13歳にて明治天皇大和行幸され行在所にて給仕を務むと書かれ、内容は藤井寺市史の明治天皇行幸記録と一致しました。
藤井寺市道明寺にある真宗眞光寺と杉本家の縁
4)頁263
「長崎と私」に関する因縁話が書かれ、杉本忠道氏の7~8代前の先祖に遡って書かれています。
1人の旅僧が隔日に玄関(藤井寺市道明寺の杉本家)に立ってお経を唱えて呉れる。
「坊さんこちらにお這入り下さい」と丁寧に案内した。
「あなたはドチラから来られたか」
「私は肥前長崎でゴアす」
「随分遠方の方ですネ。そしてこれからドチラの方に参られるのか」
「別に当てもなく托鉢修業しております」
「如何です。この村に留まりませんか当村には真宗の御寺も御座いませんので」と云った様な話から
当時隣村に禅寺の売場があったのを幸いにこれを買い求めて
移築したのが現在の真宗真光寺である。
現在の真宗眞光寺 H.29.3.4
撮影 竹田美壽恵
お寺の構造は禅宗で中身は真宗と云ったような寺である。この旅僧の姓は、
佐々木と云い、現住職の佐々木泰忍がその後裔である。
私が長崎で知っている範囲で……佐々木は長崎の真宗系統の僧侶の関連した姓であり、
この佐々木某も長崎出身であることは疑う余地はない。
私 が郷里を離れて既に50年ともなる今日なお、郷里の御寺から壁の塗り替え
とか屋根替えとか何とか云って来られるのもどうやら先祖のⅠ建立の因縁によるらしい。
(平成28年10月に竹田が杉本家について問い合わせの手紙を藤井寺市道明寺に
ある真宗真光寺さんに、出して10月19日「杉本忠道さんは長崎に行かれた」「杉本さんが住まれていた
お家はその後、違う方が、新しく建て替えて住んでおられます」と話して下さったお寺さんでした)
明治の初年、唐通使で「呉来安」と云う仁がどう云う関係だったか聞き洩らしたが
長崎から来て私の家で草鞋をぬいだことがあるらしい。この人は立派な学者で然も非常な親日派であった「呉 来安著」として日本外史の訳本を出版している(私の 手元にある)子弟に漢学を教え詩文をよくした。その後私の家から土師神社の離れ座敷に居を構え悠々自適していたと聴く。…長崎で呉・来安の親戚と遭遇…
インタービュア
杉本忠道氏
その通り、私は大阪府楠公千早城の付近で、南河内郡道明寺が私の郷里であり、
生地だよ。私は大阪の町の中で生まれずに田舎で生まれ育った事を色々な意味で
仕合せに思い自慢にしている。あの付近は楠公と其の一党和田家に継がる一族が多い。
それに関しても一言何か云いたい様な気もするが、今時「我が家は」なんて云って見た所で
一向反響がない。これも時代の変遷とでも云のか、
時によると相手によっては、寧ろ滑稽に解される事スラあるからネー。
5)頁 280
母は例の天誅組に参加した郷士水郡善之祐の姪に当たるので、子供の時から母から
自慢話として何時も天誅組の話を聞かされたものだ。
インタ-ビュア
―天誅組と申しますと中山忠光とその同志が維新の先鞭を付けたあれですか。―
杉本忠道氏
― その通り、君も中々話せるじゃないか。―
水郡善之祐 にごりぜんのすけ 1826-1864(文政9-元治元)
河内勢の首領。河内国錦部郡甲田村(大阪府富田林市)の庄家水郡岩五郎の長子。本名長雄、のち大和五條て小隼人と改める。嘉永6年(1853)家を継ぎ、神戸藩(甲田村は伊勢本多伊予守の知行地)の士籍に列する。天保末年から自邸に道場を設け、20歳で柔術初伝の免許をうけた。また軍学を好み、彼自ら講ずることもあった。近隣の者にも文武を学ばせ、のちにその多くが彼に従って天誅組に参加している。安政に入って尊王攘夷論が熾烈になるにつれて、善之祐の交友関係は、熊本藩の松田重助、宮部鼎蔵、江戸の安積五郎、福岡藩の平野国臣、三河刈谷藩の松本奎堂ら全国的な広がりをもち、甲田村の自邸にはこれら来訪者、寄食者が絶えなかった。善之祐自身も家業を実弟謙三郎に任せてたびたび上京、その京都で土佐の脱藩浪人吉村寅太郎と出会い肝胆相照らした。文久3年(1863)8月、攘夷祈願のため大和行幸の詔勅が発行されると、松本奎堂、吉村寅太郎らは天皇親征の先鋒隊たらんとして天誅組を結成、中山忠光を盟主とする総勢38名が京都を発して甲田村に至り、水郡家を拠点にして軍旅を整えた。善之祐はかねてから用意していた銃砲刀鎗、旌旗鼓鐘を拠出し、森本伝兵衛ら郷党10数名と百姓数十名を率いて参加、この中に善之祐の一子英太郎(13歳)もいる。善之祐は池内蔵太とともに輜重器奉行になる。一行は千早峠を越えて大和五條に向かい、代官所を襲って代官の首級をあげたが、8・18の政変によって行幸は中止、天誅組は孤立して四方の諸藩に攻められ、十津川に敗走した。善之祐の率いる河内勢はよく戦ったが、忠光を中心とする京都勢に失望し本隊と別れて独自に戦いながら紀州領菅野に入る。ここで挙兵の理由を天下に明らかにするために自首を決意、日高郡龍神村の紀州藩衛所に善之祐はみずから出向き降伏を告げた。10月京都の六角獄に投ぜられ、翌年夏、禁門の変の混乱の中て斬られた。墓所は甲田の養楽寺にある。享年39歳
皇国のためにとつくすまごころは 神や知るらん知る人ぞ知る
幕末史蹟研究会の義士紹介ブログより
大阪府指定史跡『水郡邸』 が紹介されていました。(富田林市役所 文化財課)
富田林市役所 文化財課掲載写真より
水郡(にごり)邸 富田林市甲田二丁目
市役所の南部、甲田二丁目に水郡邸があります。伊勢神戸藩の代官で、また大庄屋であった水郡家によって、安永2年(1773年)に建てられたものであり、現在でも当時の大庄屋としての姿をとどめているとともに、明治維新の先鋒をなしたとされる天誅組が軍議をこらしたという歴史的に重要な邸でもあります。
文久3年(1863年)、孝明天皇の大和行幸の詔が出た翌日、前侍従の中山忠光を総帥とする「後に天誅組と呼ばれた人々」は、尊王攘夷(そんのうじょうい)派(※)の先鋒として京都を出発し、堺で船を降りた後、狭山を通って甲田村の水郡邸に入りました。
その際、当時水郡家の当主であった水郡善之祐は、息子の英太郎と周辺の村からの同士など数十名を率いて、中山忠光と会見し、かねてより蓄えてあった武器や食料などを天誅組の人たちに提供しました。中山は、この用意周到な準備と尽力をたたえ、天誅組一同が水郡邸に一泊して、部署を定め軍略を練りました。
翌日、夜明けに隊を整え、三日市、観心寺を経て、千早峠を越え、五条で行動を起こしましたが、時を同じくして京都で発生した政変の影響で事態は変化し、天誅組は壊滅に追い込まれることになりました。
この事件は、数年後の明治維新のさきがけとして、日本近代史に残る重要な事件になり、一行が宿泊した水郡邸のあるこの地は、大阪府指定文化財として昭和49年3月29日に史跡指定されました。
当時、尊王攘夷を掲げ、活動をしていた中心的な人たちは、下級武士や善之祐のような人たちで、水郡邸の周辺の村から天誅組に参加した人たちの名前が書かれた石碑が錦織神社の参道わきに立っています。
※尊王攘夷・:幕府を倒して、天皇中心の政府をつくり、外国勢力を打ち払うという考え方
(平成15年6月号)
杉本忠道氏の父忠治(左)と 杉本忠治(左側)と妻タミ
杉本忠道氏の妻重野様の父
牧野克次所藏写真
藤井寺市道明寺の杉本邸にて
杉本忠行様提供(現在の当主
6)頁 282
インタビュアー
― 先程郷里は楠公千早城の付近で生地は道明寺と申されましたが、… ―
杉本忠道氏
お菓子の道明寺の話の後…序に私の郷里道明寺に就いて一寸お話してみよう。
由来道明寺と云う所は太古民族の住居したところと云われているがその実証も沢山ある、歴史にもそうなっている。道明寺には、「石器時代遺跡跡地」の石標が建てられている。この附近の畑地を少し掘ると石の矢尻や埴輪の片鱗が今でも出て来る、私の手許にもある。山腹の至るところに今も穴居時代の遺跡もある。大体飛鳥時代と云えば今から凡そ1400年程以前のことで、当時仏教の伝来と共に文化も稍発達したと云われているが、それ以前既に文化のあった事はこの埴輪や土器や石器、金具等によって証明されているよ。郷里の自慢話として聞いて貰いたいのは、
人皇十一代垂仁天皇の頃、野見宿弥が勅間に応え土偶、即ち埴輪を作って殉死の制を改めた功績で菅公の祖先が土師性を賜った事は歴史を通じて知っておられると思うが、今日あの辺一帯(私の郷里)を土師の里とも称している。道明寺、即ち「土師の里」が私の生地なんだよ。今日道明寺天満宮と云う神社の方は菅公の遠祖野見宿弥をお祀りしてあるのだが、その後裔で菅公の曽祖父にあたる清公(キヨキミ)孫の是善に至る三代共文章博士
となり天皇にご進講申し上げる様な重要な地位にあった。謂わば文教の巨匠、今日で云うなら菅原家の人々は代々新思想と学問の名門と称えられるのもこの様な由緒から来ている。野見宿弥と云えば、例の暴勇不遜の当麻就速(タイマノケハヤ)を殪した話は子供でも知っている。これが日本の相撲の元祖とでも云うかネ。道明寺天満宮毎年八月一日の祭礼には奉納相撲が今日も続いている、茲が私の生地だよ。
……大阪夏の陣の最後の戦場地の話省略…
地勢的には遠く金剛葛城山を望み前に石川の清流がある。玆では鮎がよく取れ私などはこの川で育った。中学時代に既に投網を三張りも破った位で、わたしはこの川の主とまで云われたもので、投網は私の最も得意とするところだよ。
道明寺天宮 | 撮影竹田美壽恵H29.3.4 道明寺天満宮内 撮影竹田美壽恵 |
杉本忠治様(牧野克次の兄)か妻タミ様の葬儀が自宅で行われた(写真は杉本家の玄関前)
手前は眞光寺の佐々木住職様 アルバムを横向きに大きなこの写真が1枚貼られていた
この写真の後方右(玄関入口付近)に牧野克次と牧野純一が写っているように見える。
白装束の先頭が杉本忠道氏。写真はすべてアルバム1ページに1枚貼られ隣のページは
空けてある。
杉本忠治様の家があった住所(牧野克次が生まれ育った家)
大阪府藤井寺市道明寺2丁目3の24
杉本家の写真2 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
杉本家の横側の土塀 写真1の杉本家の玄関の 左端にあたる
「この路を上って行くと広い道に出て道明寺天満宮が近くにあります。
杉本家は地主で土地を1000坪位所有していましたが、第2次世界大戦後の農地改革によって土地を失いました。」(白石美知子様談)
杉本家の写真3 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
杉本忠道氏(牧野克次の甥)と妻、重野様の子供達
長女美知子様(後側の方)・左側より忠行様(次男)年子様(三女)信子様(二女)
杉本家の写真4 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
写真は昭和14年頃の杉本家
杉本家の庭 写真5 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
杉本家の写真6 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
杉本家の写真6 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
庭にあった池の前で 杉本タミ(杉本忠治の妻・杉本忠道の母)と親戚の男性
「池には鯉が5~6匹泳いでいた カエルではなくて名前は出て来ないけど
きれいな鳴き声を聞かしてくれた事も思い出します。」(白石美知子談)
杉本家にはお手伝いの女性が2人おられた。
杉本家の写真8 白石美知子様提供 (アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
杉本家の写真9 白石美知子様提供 (アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
牧野克次はここ杉本家で生まれ育った
杉本家の写真10 白石美知子様提供 (アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
書は杉本忠治(牧野克次の兄)の名前が書かれているように見える
平成29年9月27日 白石美知子様よりTELでお聞きした杉本家の事
(ご主人様が入院中で、毎日面会に行かれている中お話して下さいました。)
その時に掛けられた言葉は忘れてしまった。若い時なので、深く考えもしていなかった。応接室に
飾っていたが、手を滑らせて落して割ってしまった。皆から高価な物だったのにと言われました。
割った物を接着する事が出来ると云う事も知りませんでした。
②杉本忠道様の母タミ(牧野克次の兄の杉本忠治の妻)様は、太井家(牧野克次の実母
太井のおばあちゃん!」と呼んでいました。
➂杉本家は蔵が3つあり(年貢を入れる藏・衣裳を入れる藏など)トイレは4つか5つ
(庭師用・家族用・お客様用・女中用など)ありました。
④封建的な家で、ご飯は、父が留守の時は、先に取って別に置いていました。ご飯は、
お茶碗の口が手にあたると汚いのでさわらず小さなお盆の上において、よそってそのまま
渡すようにしていました。
⑤タミ様は確か腎臓を悪くして亡くなった。忠治様は、タミ様が亡くなってから
えのもとひさのさんがお世話をして下さっていたのですが、耳が遠くなり電車の音が
聞こえなかったのか電車に轢かれて亡くなったんです。私は母の代理として長崎に住んで
その事を電報で知ったんです。
⑥長崎に住む父忠道様の所へ早く家族一緒に住みたいと母は思っており、大きな家は中々買い
手がつかず困っていたようです。
昭和19年頃だったか(戦争が激しくなってきた時)確か20円で売却されたと記憶しています。
⑦忠道氏の妻菊野様の実家は住吉の姫松(今の帝塚山)にあり藤沢という姓で、小児科の医師が養子に入られて阪大の先生をされていた
⑧杉本忠道は長崎の商工会議所で、会議中に原爆に遭いワイシャツは血だらけになって帰って来たと聞いている。
城郭構造 | 連郭式平城 |
築城主 | 寒河江時氏 |
築城年 | 南北朝時代末期から室町時代初期にかけて |
主な城主 | 寒河江氏、最上氏 |
廃城年 | 元和9年 |
遺構 | 堀・石垣・門 |
位置 | 北緯38度22分34秒 東経140度16分47秒 |
天保7年 | 古澤四郎治、出羽の国、羽前の郷寒河江楯北村にて酒造業創業。 |
昭和3年 | 2代目古澤徳治、1年おきに開催された仙台国税局管内清酒品評会において、 3回連続優等賞を受賞し名誉賞に輝く。 |
昭和5年 | 全国の名誉賞の栄誉を受賞。名実ともに銘酒造の仲間入りを果たす。この年、 日本酒に金箔を入れた独創的な「ゴールド澤正宗」を新発売。 |
昭和23年 | 古澤酒造株式会社に改組 |
太井武夫氏(牧野克次の弟)の遺言書(縦書きで記載されている)
弁護士・税理士 居谷清一
大阪府堺市櫛屋町東2丁7番地 ・電話 堺774昭和21年5月1日 堺市石津町1317番地 太井武夫宅に於いて同氏の証人に対し左の
遺言を為したり
太井武夫氏遺言書1枚目 宮嶋晃所蔵 ・ 撮影;竹田美壽恵
太井武夫氏遺言書2枚目 宮嶋晃所蔵 ・撮影:竹田美壽恵
遺言の趣旨
太井(土師)善治、太井翠に告ぐ (太井武夫氏宅に養子に入られたご夫妻)
拙者(せっしゃ=私は)病褥(びょうじょく=病気になって床につく)にあること約1年、療養努めたるも、到底全治の見込みなく昨今危急に迫りたると覚か、吾れ死後は夫婦相和し、円満なる家庭を造れ、祖先を崇拝し、太井家の永久を図れ、徒(いたず)らに我を張り他を排する勿(なか)れ、世の指弾(しだん=非難)を受け太井家の名を辱(はずかし)むること勿れ、之夙夜(しゅくや=1日中)憂いる(うれう=将来が心配)所にして、汝等(なんじら=あなたたち)に切望する所なり
延井○?江(もとえ?)に告ぐ(太井武夫氏の身辺のお世話を多年された方)
汝は 多年予の家に在り、 勤勉カ行太井家の為めに図るる殊に予の病む中、日夜看護に
従事し、家政の整理に汲々(一心に努めて)とし、毫々倦怠の色なし(疲れをみせず)、予は
深く之を謝す。
其の労に酬いる為め 予の所有に係る近畿日本鉄道株式会社一株に付 金五十円也全額払込
参百株を寄贈す
牧野園に告ぐ(牧野純一の次女)
予は汝を養子として迎えたり、之れ必竟(ひっきょう=つまるところ) 太井家の滅亡を
慮(おもんばか=深く考え)りなるが為なり、
汝に分家料として、近畿日本鉄道株式会社 株式 壱株に付 金五拾円
払込 ○?弐百株、京阪神急行電鉄株式会社 株式壱株に付 金五拾円払込み
○?参百株を寄贈す、汝能○?予の意を躰し、祖先を祭祀し、太井家の連綿(長く続いて
絶えないように)を期せよ
右株式を直ちに 各受遺者名義に書換変更すべきの所、罹災焼失の為め、新株券交付請求に
時日を費し、其の意を遂ぐるを得さるを遺憾とす。新株交付あり次第直ちに其の
所有名義 書検の手続きを為すべき○?のとす
右株式の遺贈に因り生ずる全ての公租 公課は全て善治に於いて負担し受遺者に迷惑を
掛けざるものとす
本遺言の執行と堺市石津町 白野吉三郎 同市神石市之町 平山幸治郎 堺市櫛屋町東弐町
居谷清一の三氏に委嘱す
○?の遺言に、左記証人立ち合いの上、遺言者は其一人 居谷清一に前記遺言の趣旨を
口授し、その口授を受けたる居谷清一は、之を筆記し遺言者及 他の証人に読聞かせ
○?証人筆記の正確なる事を承認し、左に署名捺印す
居谷清一 印 白野吉三郎 印 平川幸治郎 印
右確認す
昭和21年5月15日
堺区裁判所
判事 堤実雄 印
・この遺言は昭和23年5月23日 太井善治宅にて遺言執行者 居谷清一 白野吉三郎
平山幸治郎 立ち合いのもとで受遺者 牧野園子代理牧野純一と延井○?江のサイン押印され
遺言執行調書も同封されている
年考(縦書きで記載されている)
財産総額 貳拾参万六千弐百拾参圓也 ( ¥236213円)
右に対する税金(財産税)
金 六万九百拾七圓拾五銭 (¥60917円15銭)
税金負担割合左之通り
太井善治氏 金 四万百五円参拾七銭 (¥40105円37銭 税金額)
(拾五万五千五百拾参圓に対し) ¥155513円に対して
牧野園氏 壱万弐千九百弐拾円参拾八銭 (¥12920円38銭 税金額)
(五万壱百圓に対し) ¥50100円に対して
延井○江氏 金 七千八百九拾壱円四拾銭 ¥7891円40銭 税金額)
(近鉄300株 参万六百円に対し) ¥30600円に対して
財産税課率
10万円~ 11万円迄 2割5分
11万円~12万円 3割
12万円~13万円 3割5分
13万円~15万円 4割
15万円~17万円 4割5分
17万円~20万円 5割
20万円~30万円 5割5分
昭和15年~昭和30年の物価状況( 明治~平成値段史 より)
年 |
白米 1升 |
白米 10㎏ |
砂糖 1㎏ |
玉子 1個 |
ビール 大瓶1本 |
そば 1杯 |
昭和15年 |
50銭 |
3,3円 |
47銭 |
7,1銭 |
45銭 |
15銭 |
昭和20年 |
公定 53銭 ヤミ 70円 |
|
公定 1円 ヤミ 270円 |
公定 29銭 ヤミ 3,4円 |
公定 2,85円 ヤミ 20円 |
|
昭和25年 |
60円 |
990円 |
310円 |
15円 |
130円 |
15円 |
昭和30年 |
|
1080円 |
150円 |
14円 |
125円 |
30円 |
1935(昭和10) 年~1955(昭和30)年迄の給料・労賃状況(明治~平成 値段史より)
年 |
給与 所得者 年収 |
勤労者 世帯 実収入 (月) |
国家 公務員 初任給 |
大卒 初任給 |
巡査 初任給 |
高卒 初任給 |
大工 手間賃 (1日) |
日雇い 労働者 賃金 (1日) |
昭和 10年 |
712円 |
91円 |
75円 |
73円 |
45円 |
|
2円 |
昭9 1,3円 |
昭和 15年 |
昭13 748円 |
125円 |
75円 |
75円~ 80円 |
45円 |
中卒 42円 |
3円 |
昭14 2円 |
昭和 20年 |
|
|
|
|
|
|
ヤミ 35円 |
|
昭和 25年 |
12万円 |
1,3万円 |
4223円 |
|
4000円 |
|
320円 |
260円 |
昭和 30年 |
20,8 万円 |
2,9万円 |
8700円 |
1,1万円 |
7800円 |
6600円 |
560円 |
410円 |
新円切替が昭和21年に行われている。
1946年(昭和21年)2月16日夕刻に、幣原内閣が発表した戦後インフレーション対策として行われた金融緊急措置令を始とする新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策に対する総称である。(ウィキぺディアより)
概要
第二次世界大戦の敗戦にともない、物資不足にともなう物価高及び戦時中の金融統制の歯止めが外れた事から現金確保の為の預金引き出し集中の発生、又一方で政府も軍発注物資の代金精算を
強行して実施したことなどから、市中の金融流通量が膨れ上がり、ハイパーインフレーションが
発生した対策が背景としてある。
この時同時に事実上の現金保有を制限させる為、発表翌日の17日より預金封鎖し、従来の紙幣は
(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方で1946年3月3日付けで旧円の市場流通の差し止め、
一世帯月の引き出し額を500円以内に制限させる等の金融制限策を実施した。これらの措置には、
インフレーション抑制(通貨供給量の制限)と共に、財産税法制定、施行の為の、資産差し押さえ・資産把握の狙いもあった。この時従来の紙幣(旧円)の代わりに新しく発行されたのが新円である。
インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきる事は出来なかった。その為
市民が戦前に持っていた現金資産は、日本国債等債権同様にほぼ無価値になった。
(ウィキぺディアより)
ウィキぺディアより
わかったこと
・物価指数は1835(昭和10)年を1として、1940(昭和15)年は1.64倍、 1935(昭和20)
年は3.5倍、1950(昭和25)年には220倍に跳ね上がっている。
(明治~平成値段史参考)
・明治20年に遺産税法式がとられるようになり税率は家督相続の場合の最低税率は、1000分の12(0.012%)が課され、遺産相続の場合の最低税率は、1000分の15(0.015%)が課されて
いました。(相続税100年の軌跡 2005.4税務大学教授 菊池紀之39~40参照)
太井武夫氏が亡くなり遺産相続された昭和21年には高額財産所有者に対し税率の引き上げを
改正され相続者は相続額の25%の課税があった事が遺言書に文章がついています。
太井武夫氏は太井家の滅亡を避ける為遺言書を残したが、昭和21年2月16日第2次世
大戦敗戦後の日本政府の政策により市民が戦前にもっていた現金資産は預金封鎖になり
現金は、引き出せずほぼ無価値となった。株式を遺していたとはいえ財産税で4分の1を
没収された上、貨幣価値が全く変わった。
給料面を見ると国家公務員初任給は、戦前の昭和15年は月75円で戦後昭和25年には
月4223円で56倍になっている。物価の方は戦前昭和15年お米10キロが3.3円であっ
のが戦後昭和25年には990円となり物価高騰し300倍に跳ね上がっている。
太井武夫氏の遺言が遺されましたが財産を継承される事にはなりませんでした。
そういう厳しい中で養子になられていた太井(土師)義治様は、太井家の墓に入られて現在子孫の
方が守っておられます。
日本政府が第2次世界大戦に参戦し、敗戦したことにより国民の生命や財産、生活が簡単に
奪われた事を太井武夫氏の遺言書を通じて私達に教えてくれています。
おわりに
・ある新聞にシベリア抑留された方の想い出話に「ジャガイモが道に落ちているのを発見して仲間同士が殴り合いの喧嘩をして勝った人が喜び持ち帰り、ストーブで焼いて食べようとしたところ馬の
糞だったのであまりのショックで泣いていた」という記事があった。戦争を経験された方はもっと
もっと悲惨な日常だったと思うと胸が痛んだ。
・戦争で父を亡くし貧乏など辛酸を経験された、政治生活40年の古賀誠氏は、戦争を知らない国民が8割を超えた現在、言うべき責任があると現行憲法に流れる平和主義、主権主義、主権在民の精神はつないでゆく必要があるとして「憲法9条は世界遺産」を出版されている。
・俳優の鈴木瑞穂氏はガチガチの軍国少年で、75年前広島に原爆が投下された朝、広島湾に浮かぶ江田島(海軍兵学校で授業中)から広島市内の光景を見られたそうです。復員後京都大学経済学部に
進学してそこで新憲法に出会い条文を読んで強い衝撃を受けた。
「日本は戦力を放棄する。もう2度と戦争をしない、と書かれている。なぜこんなに優しい言葉で、一人一人の人間に愛情を注げる憲法が生まれたのか。感動したというより、未知のものを見た驚きがありました。兵学校の2,3期上は戦地に赴き、無残に死んでいった。この憲法は、戦争で死んだ人達の遺言に思えたのです。」と話されています。
毎日新聞夕刊2018.8.14[庄司哲也記者]
私はこの言葉をしっかりと受け止めなければと思った。
実際に戦争を経験して来られた方の言葉を新聞はしっかり記録して下さっています。
・2020.7.6毎日新聞余録に第2次世界大戦中の大量国債と戦後のハイパーインフレの状況だった事に関連して現在日本の国債発行がすさまじくその為国の借金がすでに敗戦時並みの水準に
なっていると警告している。
・私は、小学生の時学校の図書室で原爆写真集を見た時はショックを受けた。
しかし、学校教育の中で第二次世界大戦について何を学んだのか殆ど思い出せない。
大阪には、ピースおおさか(大阪国際平和センター)があり職員の方が、太平洋戦争
末期の大阪空襲の体験画を含む資料1万点をデータベース化し館内の端末から常時閲覧出来る
ようにする計画が進められているとのこと事。
私達は、昔の事としてではなく今後も平和を維持していく為、新聞や映画、本を読んで戦争の実態を知る必要がある。
選挙時だけでなく普段から、憲法を守る候補者なのか、経済対策の展望がしめされて
いるか等政策と人柄(何を取り組んで来た人なのか)をしっかり点検して投票する事が
大切だと思う。
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