13期 徳島 宮嶋八藏
平成28年8月 |
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紹介 宮嶋サロン代表 | 竹田美壽恵 | ||
HP 担当 | 勝 成忠 |
第15回京滋美保空会総会 昭和61年3月30日
於:京都センチュリーホテル
あのときから十五年も過ぎました。毎年の会誌にも、私と同じ歓びがあふれています。
喜びも悲しみも、パッションは同じ大きさで続くものでないのは分かっているのですが、人は皆、次の会にも同じ感動を期待するものです。会での出会いを切っ掛けに、同期の
私たちも美保徳空会(飛練同期会)をつくりました。その切っ掛けになった京滋美保
私にしていえば、十五期の世話人の皆様とお会いするのが出席の楽しみの一つになっております。飽かせることなく、毎回の催し、企画の運営の苦労は大変だと思います。
さて、私、このごろ戦記を読むことが多く、ラジカセで第十回総会の記念品、「山は大山」を聞きながら海軍を思い、予科練・飛練を振り返って反すうするとき、海軍は楽しい思い出ばかりではなかったと思うのです。
八十ノットの白菊を三六十ノットのグラマンの群れ群れる中に突っ込ませたのは、誰か!十分な飛行訓練も受けさせず、特攻に狩りだしたのは、だれか!
魂が誇りを持って生きることなのです。上層部は、誇りを踏みつけて犬死にさせたことになります。
夜の燃料疎開に軍服を後ろ前に着せ、支那服のつもりか、カカシのような格好をさせて、三里(約11、7km)の道をドラム罐を転がして運ぶ。腰が棒を差し込んだように硬直して、
ドラム罐の強度を計算ずみか、三里の道を転がせば、大半がぶっ壊れる。
海軍戦史記録には、パイロットはよく戦った、とは書いてあるが、白菊特攻や中練特攻についての責任と反省の記録は、ほとんどないに等しいのです。海軍の上、中、下級の
その彼らが、異状・無謀なインパール作戦の牟田口将軍という精神異常者の狂気に
人間の責任において、異常と無謀な作戦への抗命は、軍上層部の無責任を糾弾し、悲惨な飢えと死から幾多の傷兵を救ったのです。その遺徳は、郷土部隊戦記で明らかになっています。海軍戦争指導部のいいなりに、無謀をとおし、自己も、また人間性もなく、無知にして、いまだに、反省がない航空参謀たちを憎みます。
京滋美保空会の心の純粋性において、旧海軍関係者なら誰でもどうぞ、でしょうが、中・上級の戦争指導者は、選んで招待してほしいと思います。美保空仲間だから、しこりが後に残ることのない事を信じて… 。
ついでのことに言ってしまいましょう。何回か前の会でした。招待の元海軍中級士官の挨拶を聞いて、背筋に寒いものが走ったのを思い出します。この士官には、戦後の歴史が微塵もないのです。 挨拶の中身は、私たちが小学校、中学校で習ったのと全く変わらない皇国史観でした。
思想に軌跡のない人からは、お化けのような印象を受けます。初めて会に出席した同期生は、「俺は、美保空会に来てあんな化け物と会おうとは……、ねぇ……」と、その時の渋面を最後に、再び会では会っていません。
聞けば、その士官は現在、神主とのこと、なるほど!お経と祝辞は昔も今も変わらんわい、などと笑えるでしょうか。このごろの会は少しずつ変わって来た感じがします。
会の運営に変化を作り、惰性におちず、楽しい一日を、と考えて下さる世話人の皆様のご苦労には、心から感謝していますが、招待客の士官は、美保の高橋司令や副長のような人がいい。
私たちは、会の日には、心は美保空へ帰りたいのです。いささかの酒と、昔の練習生
昭和61年 向って左前 宮嶋八藏 美保徳空会(飛練同期会)の仲間と
もう一つお願いします。海軍はバッターや下卑た怒声だけが象徴ではないでしょう。特に美保では、バッターは将校練習生には禁止されていたはずです。それでもバッターは振られたけれど… 。他所では毎日のバッター、そして機上にまでバッターはありました。
飛練では、美保空出身練習生はバッターが少なかったから、「お姫さまかいな」といわれたけれど、それは逆に、私たちの大きな誇りでありました。酷暑の美保空で、十五分の昼寝を許されました。これも他空にはないことです。
猛烈な試合の最中、司令の合図で一時中断されました。見ると、彌永副長が私の方に寄って来られるのです。私は鼻血を出していたのです。
鼻栓をしていただいた後、仰向いて頸の背をたたいていただきました。耳元で、「今の頑張り精神、よ、ろ、し、い!」といわれたときには、胸が躍りました。鼻血なんかは擦り傷よりも軽いでしょうに……。普通ならば衛生兵の仕事なのに、航空隊の中で第二番目に偉い人が手当をしてくださったのです。
私たちが予科練を卒業して間もないころ、美保空出身者の様子を視察の為、各飛練を回られた高橋司令の温顔に接して、私たちはどれほど嬉しく、頼もしく思ったことでしょうか。
美保で両親が面会に来てくれた喜びにも勝る思いがしたことでした。
これは、仏法では慈悲、キリスト教では愛、というのだそうですが、宗教に殉じて死んでいった宗徒の気持ちが分かるような気がします。このような上官の愛のもとで死にたいと願ったものでした。加えて一言、他の予科練司令の飛行視察の話は聞きません。
京滋美保空会が、初期の形になってほしいと申しましたが、過去の思い出やらなんやかや、ヨタヨタとバンクしながらの陳情でして、分かりにくいところはお許し下さい。
第十五回総会への高橋司令のお便りは、久しぶりの訓話……、短い、短いけれど、海軍批判と反省のエッセイを受け取りました。お便りは、会場(海上)に吹く一陣の涼風のように、美保空の人間愛の魂を思い出させてくれました。
この号に掲載される司令の便りをお読みくだされば、敗戦の語り部としての京滋美保空会のあり方の精神が示されているように思えるのですが……。
戦記読みすぎの男の妄言、失礼、お許しください。
筆者
次に筆者が尊敬していた高橋司令のメッセ―ジを紹介致します。(竹田美壽恵)高橋俊策司令のメッセージ
ー 第15回京滋美保空会総会に寄せて ー
昭和61年9月20日「京滋美保第31号」に掲載された内容
年次第十五回総会と申す節目の開催おめでとうございます。
殊に、結成以来、日を重ねるにしたがって同士結合の輪が拡大しつつある実情は、予科練の展開全国に及んだ往時を回想して、感慨しきりであります。
私は、明治三十一年生まれの八十八歳、米寿という、これも節目が過ぎていきます。
七十七歳までは現役で、戦後の社会に追従してまいりましたが、不覚にも二年後、
老病に倒れ、すでに十年、高齢者特養老人ホーム対象になるばかりの存在ですが、幸いにも三世同堂、足腰はともかく、恍惚にも
老残の生きがいは、明治海軍七十年の栄光を太平洋に沈めた昭和海軍、そのいくさ語り部としての存在ですが、それも春秋尚低い、因縁の深かった予科練同舟を頼むの外ありません。
今年五月、太平洋の戦跡めぐりの遺族と老兵巡礼の旅が行われますが、海軍と海運、およそ船という船をひっさらえて戦争に投入した、その沈没地点を表示しますと、太平洋は
東西南北屑鉄の鉄底です。そこが永久に還らない海軍と海運戦没者の冷たいやしろです。
それを忘れたみたいに空ぼけて、再び敵国想定のシーレーンを説くは、なんとむなしからずやと思う私です。恐るべきは敵国ではなく、敵国を想定する頭に意識している戦争そのものだからです。
およそ戦争の場合、銃後はただ戦争に勝つために国に奉仕することのみが一念で、戦争指導部の方針に従って最善を尽くすの外なく、銃前の兵は黙々として死線に精魂を傾ける
のが任務であることは、古今東西のお仕着せです。勝敗は戦争指導者の頭脳が決定します。
私がここで兵と申すのは、艦長司令である所轄長以下三等兵に至る実兵で、戦争指導部の
顧みれば、明治建軍の初期、日清戦争当時の軍歌に、「忠勇無双の我が兵は」と申す形容詞句がありましたが、
顧みて、そんな戦でした。痛恨の老兵が叱咤したいのは、再び大国の戦あるべからずという端的な結論です。戦後40年、今も続いている小火はともかく、大国再び戦えば、核戦争です。世界の結末を聖書が予言するハルマゲドンです。
今や経済大国だという日本の使命は、大国再び戦わざる平和の
妄想します。短小な非戦論や軽薄な平和論ではありません。
世界の将来にハルマゲドンあらしむべからずと、大阪のど真ん中の公開演説で、
大声疾呼したのは、ハワイ急襲の空中指揮官、昭和の英雄 渕田美津雄海軍大佐でした。
すでに故人の昔語りになりましたが、彼は無腰の日本人は、戦用物資運搬の人足であえぐ
戦列のほかあるまいと喝破しましたが、目今の情報は飛躍して、明治海軍を失った昭和海軍の頭脳と
痴人の愚痴をこぼせば、ごうが沸いて血圧の上る戦でしたが、無言の英雄をおぶって
復員した兵も遺族も、大国再び戦わざる夢は同じではないでしょうか。
京の賢人松下幸之助先生のPHP繁栄の上の平和と幸福は、大国戦わざる世界にのみ
期待される軌跡が、戦後を歩んだ日本の現実でしょう。
日本海海戦を忘れなかった日本は、有史以来の屈辱と慟哭の敗戦を骨身に刻まなければなりません。その語り部は、今日に生きる戦争体験者を措いて誰でしょう。
おわり
この高橋俊策司令のメ―セージに続いて宮嶋八藏の寄稿が掲載されていました。
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