北斗の星・宅間英夫君
「溝口作品・私、内弟子助監督がした仕事」の口述筆記を担当しています。宮嶋先生の「団子串刺し式、私の履歴書」に感動しました。この「北斗の星・宅間英夫君」は京都府立2中の同窓生の人間模様、友情が映像のように頭に想い描きながら読めました。現在の中学生や大学生、社会でどのような人間関係が築かれているのでしょうか。
この「北斗の星・宅間英夫君」を私だけでなく多くの方に読んで貰いたいと思い紹介致します。 竹田 美壽恵
これは京都府立第2中学校の同窓生、宅間英夫君が亡くなってその追悼号に投稿したものです。これを見た同窓生、仏教大学教授だった上田千秋君が「このような追悼号を読んだ同級生は殆どいないのだからちょっと体裁を付けたして今度出す2中の同期同窓会誌に投稿せーよ。高橋恒雄君が編集構成するんだからなんとか助けてくれるよ。同窓生にはこんなのを読みたい者もいるんだよ。」と勧められ、部分修正追加して高橋恒雄君に提出したものです。 宮嶋 八蔵
1.同窓会誌の表紙
編集 44回生の記録 高橋恒雄
北斗の星・宅間英夫君
本当に自分に近しい両親等の顔を思い浮かべようとする時、その細かい特徴等は、なかなか記憶に甦ってこないものです。返って余り交際(つきあい)のない人ほど鮮明な映像のように姿が浮かぶのですが、宅間君の容姿が、判然と映像的に掴めないのは、その様な近しさからであろうと思っています。
遠い記憶の片隅から、少年の頃の思い出をたぐってみますと― 。 私にとって彼の少年の頃の容姿の思い出は、「小柄なくせにきっと正面を見すえ、両肩を(猫背ではなく)つき出して、膝の上で拳を握りしめている」と言う様な格好です。昔「柔道」と言う図書にのっていた加納治五郎の少年時代の写真とだぶってくるのは、彼との出会いが、京都ニ中の寒稽古―柔道場の片隅であった事とも関係があるのかも知れません。それとも、岡山の田舎から転校してきた彼の牧歌的な感じが、明治の種撮り写真の古風さとの妙な相似性からかとも思われるのです。
校庭のプラタナスに樹氷が咲いた、強烈に冷える中学校の柔道場でした。私達は自分の学年の順番を待って、道場の縁に立ったまま、高学年の乱取りが済むのを待つのです。
大森忠行君、山田貴一君、宅間君、そして私が一団ととなって凍えた手をさすっていました。 宅間「あんたァ、コンナもん(柔道)習うても、どうもならんかも知れんでぇ、俺、岡山一中の時ボクシングやってたんや、な、(とアウトボクシングのフットワークをやって見せて)一発先制、パンチ喰うたら、浮腰も、内股もあらへんで、襟も握れんのやさかい」 大森君は柔道部に籍があって初段。内股がその得意技でした。私は浮腰が何とか使えました。当時、ピストン堀口の名が新聞に出たのをかすかに記憶している程度でしたから、私達にはボクシングの強さなど全く判ろう筈はなく宅間君の話の煙に巻かれて静聴したのです。岡山から転校して、ナメられては……と思ったのでしょうか兎に角、私達に挑戦して、先制第一打成功する。その後宅間君とボクシングの話などはしたことがなかったので、ボクシングをやったなどとは嘘だったに違いないと思います。当時、私達は徒党も組まず、言わば普通の御茶目な中学生でありました。 その頃、中間試験の通学の道で、京都工業学校の不良にからまれたのが私です。 不良言葉では「ぶりかけられた」と言うのですがそんな言葉を知ったのは随分後からのことでした。「お前ぇッ!電車の中で面切ったなッ」と言う脅かしから始って、結局筆記用具から財布、時計一切喝上げされた上、試験開始の鐘音を校門前で聞く破目になりました。 私は頭の廻りが遅かったのでしょう。鐘音を聞いた途端に怒気が沸いて来たのです。教室に入らずに、地階のロッカーから木槌を持ち出して、相手校の校門に待ち伏せ、試験を終えて出てきた喝上げの不良と大立廻りをやったのです。喧嘩は大勝したのですが、その後何回も京工の不良連中から、呼出しがかけられました。その時の助っ人が、宅間君、大森君、山田君、中村君の4人でありました。これが5人組の始りでした。私はこの時以来「木槌」の八っちゃんと異名をとったのです。子供心に正義の仇討をやったと言う気持ちもあって私達は得意な心情ももっていました。時代劇風に申しますと「嵐山の決闘」「東寺塔下の決闘」「九条車庫前の決闘」等と随分京都工業の不良とは喧嘩をしました。相手も何人かを呼び集めて来るのですから、私も1人では太刀打ちできません。
その都度四人が応援してくれるのです。立ち回りの時は大体柔道で投げたのですが、
宅間君のボクシングは見た事がなかったので、やっぱり岡中でボクシングをやったというのは嘘であったと思われます。私も、木槌は持って歩いてはいたのですが使ったことはありません。
そのうち煙草も吸う様になり、授業のエスケイプ等もやるのですが、宅間君の授業のエスケイプは少なかった様に思えます。授業時間に机の下へもぐり込んで、ドカ弁を喰った様な思い出は幾つもありました。不良と言えば、他校の生徒と一緒になって悪事を働くと言う様な印象があるのですが、私達は他校の不良生徒とは一切交際はなく、夜店等をのし歩いた経験もありません。軟派なんぞもやった事はなかったのです。
私達は集まると幼稚乍ら小説や詩の話をしました。宅間君が徒然草の一部を暗誦して「俺ッここんとこが好きや」と言うていたのを覚えています。学業をサボっているのが判っているから私達は五人組のことを自虐的に「ガスタレ五人」と呼んでいました。それでも、ニ中の生徒が他校の生徒に難くせをつけられると早速駆けつけて助っ人をする― まあ安物の長兵衛を気取っていたのですから他愛のないものです。
不良と言えば、帽子の天井を丸めたり、ズボンをニッカーボッカー風に穿き着けたり、鞄の平紐を長くして尻の下まで落したりする不良典型のスタイルがあったのですが、そんな容姿は私達の美意識からは程遠いので、真似したことはありません。
西本願寺の横に「黄金屋」と言う志るこ屋があって、風采の上がらない中年夫婦が経営していました。そこの三、四歳の鼻ったらしの子供をからかい乍、サッカリンぜんざいを喰って第三天国へ向かうのが五人組の日課でした。第三天国とは、和風三階にあった、大森君の部屋のことです。大森君は小学校では、一番の秀才で大切にされていたものです。私達もその尻馬に乗っていましたから、授業をサボって集まったり、タバコを吸っていた事実は判っていなかったようでした。居心地が良かったので、後陶芸作家になった尾形力(周平)君や、高橋恒雄君もよく来ていました。この頃の宅間君のこと等は、大森君のお姉様の房枝さまがよく御存知だと思います。
山田君はラッパ部、大森君は柔道部、私は水泳部に籍を置いていたのですが、宅間君は八木からの汽車通学なので帰宅が遅くなるからと、運動部には入らなかったのです。そのくせ第三天国では、最終列車までねばっていて、「汽車賃10銭貸せい」と言うのが口癖になっていました。汽車通学の定期券代を使い込んでいたのです。「10銭貸せい」は人文学園で一緒になった頃迄チョクチョクありました。
後年、そのお返しだと言って、壬生川五条の工場へ立ち寄る度に昼食の御馳走になりました。
4年生になった頃、食料も少なく戦争も押しつまって、勤労動員として農家へ畑仕事の手伝いに行かされるようになります。戦局の急激な劣勢化の雰囲気が、ガスタレ仲間にも感じられるようになった或る日―― 。
私達5人は、東寺の五重の塔下に
大森「……今頃、みてみいよ、みな授業受けとるんやけど……四年生も、五年生も、その又先輩も同じ講義聞いとったんや、サボ(虎の巻)読んだら、判るやんけ、いま俺らが煙草吸うて、空を見上げている。この東寺の塔に舞う鳩は、今日と明日とは違うんや、な、そうやろう……」 山田「うん……」 宅間「そうやけど、おれ六高狙うとるんやし……高等学校は面白いらしいでぇ」 大森「六高行って、京大行って、どうなるんや、自由で、自然が一番 (この頃の中学生には、高等学校→帝大と言うエリートコースを歩く学校のコースの思索はあっても、それが出世すると言う現実の社会組織との関連としての考察等はなかったようでした) 宅間「そうでも、八っちゃんとこの兄貴、三高行って京大行きよったんやろう、 ニ中でも勉強しよったんやろう」 私 「阿呆!兄弟でも、みんな違うんじゃ、俺は予科練行って死ぬんじゃッ」 宅間「ほたら、お前、もう願書出したんか」 私 「ああ」 大森「お前んとこ五人兄弟やし、四人兵隊に行っとるんやろ、願書には親のハンコいるんやろう」 私 「俺……盗んで押したんや、物盗ったの始めてやけど……」 宅間「お前ぇ、本当に死ぬんか……本当に死ぬんやなッ!」 その日の夜、五人は私の家でベートーベンの第五シンフォ二―を聴いたと記憶しています。四年生には 私「お前、ケッタイなこと良う覚えとんなァ」 宅間「俺、記憶はええんじゃ、数学好きやもん」 大森「ガスタレはみんなええ格好しいやろう」 宅間「喧嘩ばっかりして、欲求不満やろう、川をあちこち船頭さんや……(ケッケッケッと笑う)」 私には何のことか判らなかったけれど、ストレスがたまってオナることとは後で判ったことでした。 同窓の高橋君や尾形君、佐々木君などは映画館や、アイススケート場へよく通ったようですが、私達にそんな経験はなく、時折第三天国近くの「チエロ」と言う喫茶店を覗くか、五条新地の「大江山」といううどん屋へ行くのが関の山でした。五条新地は遊郭ですが、私達には色気より喰い気が先にたっていたのです。祗園町近くの同級生の中には舞子と裏遊び(花代払わずに交際すること)をやっていたのが居る程でしたから、そっちの方では私たちはおとなしかったと言えるでしょう。 只一度、×曜の×時に「チエロ」の看板娘が第三天国裏の風呂屋へ来ると言う大森君の情報で五人が集まりました。湯気抜きの天窓から覗き見するのですが、私は運悪く瓦屋根の苔に足をとられて、風呂屋の庭へ転落しそうになりました。宅間君と中村君が私を支えてくれて助かったのですが、大森君の偽悪者的な喋りから、何時の間にか私1人が覗きをやった様に思われてしまいました。宅間君が釈明してくれなっかたのは、彼にも偽悪振ったいたずら心があったからだと思っています。 私の甲種予科練の一次試験が済んだ夏、五人で勤労奉仕をサボって津の海岸へキャンプに行く話がまとまりました。津には三重空の練習航空隊があって、海岸からその訓練の様子が見えると言う大森君の兄さんからの便りがあったから、私は何としてもその様子を見たく思ったし、宅間君たちも私への送別の意味もあって賛成してくれたのだと思います。 資金は図書を売ったり貯金をはたいて百円ばかり作りました。大学卒の初任給が四十五円の頃ですから、五人のキャンプ代には十分でしたが、宅間君も山田君も家の都合で来られなくなり、結局二人を除く三人が三重の海にテントを張りました。 戦時中に動員をサボる等と言う事が許される訳もなく、又バレない訳もないので、三人はこの事件で退学処分となりました。処分の一ヶ月後、私は美保海軍航空隊に入隊します。大森君はハルピン学園へ、中村君は中野無線へ、中学に残った二人の内、山田君も自主退学して、「俺は眼が悪くて、兵隊には向かんから、せめて消防学校に入って留守を守ってやる……学校なんかクソ喰らぇ」と言うハガキが美保空へきました。
宮嶋八蔵が予科練入隊の折頂いた京ニ中クラスメートの寄せ書き
独り残った宅間君は淋しかったろうけれど、やがて自然と他の学友達とも結ばれていったのでしょう。中学の私達の同窓はその点、包容力のある暖かい友情に恵まれたクラスであったと思います。私が九州の基地から復員する迄の宅間君の暮しは判りません。
敗戦前のギリギリに大森君は美保空へ、宅間君は横須賀の海軍通信学校へ行ったのです。美保空からの大森君の便りは残っているのですが宅間君からの便りはありません。後で聞いた処に依ると宅間君は海軍の諜報関係、暗号解読班に居たと言うことでした。
私が海軍に入隊すると同時に退学が解かれたと言う通知が来ました。復員して夜間部へ復学する時、又又退学にもどされていたと言うので、学校側の豹変に驚いたものです。
戦後、二年目に堀川丸太町の橋上で宅間君と再会しました。堀川には未だ古いチンチン電車が走っていました。土手の柳が昔と変わらぬ新緑の芽を吹き出した三月だったと思います。季節だけは変わらない。日射しも変わらない。雲は鳩羽色から、白い卷雲―シイラス、明日は雨か低気圧が来る。二年前死ぬと言う希望に燃えて、あの空の彼方を翔んでいた。今は……それでも、自然は変わらない雲の季節も変わらない……とそんな事を考えていたと思います。不意に宅間君に呼びかけられて、――懐かしい宅間君を見ました。 私 「おれどないしょうと思うとるんや、判れへん、いま何も判らへん……」 宅間「俺――いま、学校いっとるんや、お前も行けよ」 私 「復員して直ぐの時、同大も立大も無試験やったやろ、口頭試問と筆記試験は時事問題だけやったやろ、「デモクラシー」とは何かって問いや、判らんがな、新聞読む気もせん程の腑抜けになっとるしなァ」 宅間「俺とこへ来いや、人文学園言うんやけど、山口仏教会館言う御所の横にあるのや、ええ先生、ぎょうさんいるでぇ、目が洗われるでぇ」 新村園長「なんでこの学校へきましたか?」 私 「宅間君の紹介できました。なんでか判らんのです。良い事も悪い事も、も本当も判らんのです。何で勉強するかも判らんのです。」 新村猛先生が、まじまじと私の顔を見ました。そして入学が許され、宅間君の1年後の生徒になりました。
山口仏教会館は中央に大講堂があり、その周囲のニ階と階下には小さな小部屋が並んでいました。小人数の生徒は学年に別れ、夫々の小部屋で各科の授業が受けられます。英語等は先生不在の折には、2年生の吉田九州穂さん(卒業後平凡社勤務)の講義を聞きました。運動場は無かったのですが、道一つ渡ると広い御所の御苑がありましたので困る事はありません。休憩時間も、放課後も先生も生徒も上級生も、下級生もなく、自由に寝そべって駄弁っていました。講堂での講話は宅間君と一緒でしたけれど、クラスが違うので授業に机を並べたことはありません。
宅間君は文学や詩の話を寺谷崇君と話していたのを覚えています。同人誌の「崖」など二、三種出たようですが、宅間君の寄稿した誌面もあると思います。
中村憲一君は日満高校へ入学して、青年共産同盟に入り、私達をアジリに来ました。 宅間君もシンパで共産党に関係していた様ですが党員ではなかったので、私に入党をすすめたりはしませんでした。当時の青共は「先ず入党して行動せよ、行動の中から真実が判る」と言うのですが、行動をしてから判ったのでは戦争をやって来た時と同じではないか、論理として納得せねば行動に突っ走った後の失敗はお断り、共鳴する部分と行動とは別だと考えていましたのは、宅間くんも私も同様であったようです。 そのうち、私は三人の兄の戦死、甥の養育等のこともあって、週に二日間しか人文学園へ行けなくなりました。その間の授業は宅間君のノートと(妻)の春子のノートを借りたものでした。「三民主義について」北山茂夫先生のゼミがありました。私は兄の昔の図書の中から周佛海作の「三民主義解説」(岩波新書)を引き出してそれだけを頼りに出席しました。結果は無残です。戦中の出版物で解釈は出鱈目(当て字)。立往生の始末でありました。その事を聞いた宅間君は笑うのです。例の喉にかかった声でイヘッイヘッと笑うのですが、冷笑ではなく人を傷つけたことはありません。
宅間 「そらァ、不勉強や、戦時中のこの種のもんは、皆否定してかからなあかん、 おれら、その新しい見方の目を習うとるんやないか」 私 「そうや、やっぱりサボる癖は抜けんなァ、中学校だけで、他人の一生分サボってるしなァ、けど海軍のときだけは頑張った。それがパァや、 宅間 「おれも、えらそうなこと言えへん。」 寺町通錦小路の角に錦ビルと言うのがありました。そこの三階が作家の織田作之助主催の「文学地帯」と言う文芸雑誌社の事務所兼アジトでした。大森忠行君(後、美術評論家)は自作の詩をあちこちに投稿もし、自費出版ですがスポンサーも見つけて詩集も出していましたし、京大の聴講生にもなっていたのですが、宅間君と大森君は授業をサボっては、錦ビルに日参して使い走りをやっていたようです。その宅間君達の影響で、私も「詩と詩論」等も読み、啄木――朔太郎――ボードレール」等のコースを知ることができました。 府立医大にいた文学好きの伊藤義昭君と、宅間くんとの交際は古く、人文学園へも伊藤君は訪ねてきました。文学地帯には坂口安吾や武田麟太郎、太宰治等の流行作家も来ていたようですので、宅間君はその人達とも面識はあったのでしょう。この間の事は大森君が亡くなった現在は知る術がありません。この頃の何時か、京都新聞会館ホールで、織田作之助の講演会を聞きに行った時でした。講演の内容は片鱗も記憶にないのですが、結核でひどく落ち窪んだ眼窩と頬の織田作之助、その顔に青白い照明が当たって、言葉は途切れ乍ら喘ぎこむように話されるのです。「何と、作家と言う人は、芸術に身を捧げて、大変なことだ」と感心しながら光の源を辿ると、何とそこに宅間君がいるのです。この凄惨な雰囲気の演出者は宅間君と大森君であったのでした。 別に裏寺に「静」と言う赤提燈がありました。昔、三高の文学青年達がよく集まったと言う飲屋です。壁に織田作や武麟さんの落書きが残っていたと覚えています。 ここが文学地帯の別の巣でもあって、大森君、宅間君、時には私も御相伴して行きました。人文学園の人達も行く様になってコンパ等もやったと思います。後に松竹のシナリオライターになった安田重夫君、先夫人の新章文子さん、瀬戸内晴美さんに宅間君が出逢ったのも「静」でした。 修学院大黒神社に大森君が下宿していて瀬戸内晴美さんも一緒に居ました。宅間君もその下宿に遊びに行っていましたから、文学活動などやらなかった私と違って、何か挿話等もあるのでしょうが、その辺の事は判りません。 学園でも、「静」でも、中学生と違って一寸色っぽい事件等もあったのですが、宅間君は男女間のドロドロした色模様には関心を示した様子はなく超然としていました。それでも、その様な記憶は抜きん出ていて、後年に酒席で昔話が出るとふいとその記憶を披露して皆を愕かすのでした。 宅間君は、飄然と現れ、寡黙で、又飄然と消えるのですから強い印象を残す様なことは少なかったようですが、何時も引いた処からじっくり人間を観察していたのでしょう。 一足先に三年間の人文学園生活を終えて彼は卒業しました。卒業したと言っても、一般教養を身につけただけで、何の資格も、特技も持たないのですから、就職には困ったに違いありません。 一年後に卒業せねばならない私も生活を考えていました。義兄の陶器商も辞めていましたので、暮しの道を見つけるのが当面の急務でした。その時ツテがあって映画監督の溝口健二先生の家へロケ中の用心棒に書生代りをやらないかと言う話があり、私は人文学園と書生と京都美専の三足の草鞋をはくことになりました。映画は好きで、宅間君よりはよく観ましたけれど、特別に芸能界へ入る意思はなかったのです。学園卒業と同時に宅間君と同級であった牧野春子と結婚したのは、書生のまま就職も決まらない時ですが、酒のない喫茶とケーキだけの結婚式の段取りや式次第は「五人組のガスタレ」がやってくれました。宅間君が会計と式と旅行のスケジュールを組んでくれました。大森君が祝婚歌を読んでくれました。山田君が受付をやってくれましたが、中村君は欠席。なにか女性問題があって京都の街を出ていると聞きましたが、それ以来私達の前には現れたことがなく五人組は四人組になってしまったのです。 私が結婚して、書生生活を続けていた頃、宅間君は、八木村と妙心寺を往復して、禅をやっていました。文学や詩の話はしなくなって、「文学地帯」のアジトへも行かなくなっていました。たまに会うと「「如是我聞!」とやられて愕かされました。「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」と般若心経の一部を教えてくれました。色即是空を色のエロスと考えた私は「お前色気は空しいぞよ」と忠告を受けた気がしたのですが、色とは形あるものの意味で、形あるものは止まることなく流動して壊れていく、その空しさ一杯の情けで空しさを感じ、また、空しいままの充足を感じる。空即是色はその空しさを否定し、虚無の中から生きることを見つめよ、と言う様なことであろうと思われだしたのはつい最近のことでありますから、宅間君に遅れること三十数年、実に恥ずかしいことだと思っています。 人文学園卒業後、大映の助監督採用試験があるのですが、人文学園には文部省令による 大学の資格がありません。溝口監督の口利きで短大卒程度と認め、美大(美専が昇格していました)の聴講生であるから、試験は認めると言うことでやっと受験出来たのです。 幸いに合格して私が大映京都撮影所の演出部へ入った頃、宅間君は紙業屋(なんて呼ぶのか判りません)へ奉公に行ったのです。どのような仕事か判りませんが、「丁稚奉公だよ」と言っていましたから随分苦しい事もあったのだと思います。日曜日は公休で宅間君も八木に居ましたから、なかなか逢うことはなかったのですが、二、三カ月に一度は逢っていました。長男が三歳余りになった頃は、仕事の途中に立寄っては子供と遊んでくれました。子供と遊んだ後で茶をすすり乍ら言うのです。 私 「そんなもんかなァ、俺、仕事で忙しゅうて、常には子供にかもうてられへんさかい、判らんのやろか」 宅間「八ちゃん、商売やろ、観察せなあかんがな― 」 私 「そやけど、今、勉強せなあかんのや、風俗史やっといて、大卒の他の助監督追い越さんならんのや」 宅間 「八ちゃんの本棚見たけど、不勉強と違うか」 私 「何でや」 宅間 「風俗史言うけど、現実の風俗集めて、紙と鋏で整理しとるだけみたいな本やろ」 私 「違うのや、残った風俗の遺産から、映像に置き換えるのや ― ドラマに風俗を復活させて、それを調整するのや、風俗考証と一緒に調整をやるんや、その 中に発見もあるんやでぇ」 宅間 「そやけど魂の本がないやんか、思想の本ないやろ」 確かに雑誌の「世界」も「中央公論」すらないのです。 私 「言われてみれば… そうやねぇ… 溝口先生も言うてはった … 演出以前の 勉強が基になるんやって… 」この日の宅間君の忠告は、その後ドラマだけでなく記録映画の脚本以前の勉強として大きな影響を受けてきました。 この日、土産に頂いた赤い消防自動車のブリキのおもちゃを見る度に彼の言葉を想ったものです。やがて映画がテレビに押され、私はたまたまシナリオも書いたことから企画部へ転出、映画 中村錦之助プロの「祇園祭」参加の為の大映退社となるのですが、この頃の身の振り方を宅間君に相談すれば良かったと悔いています。 彼なら先が読めるのだから、きっと役立つアドバイスをしてくれたのに違いないのですから。 宅間君は独立して五条壬生川に紙工業の工場を持っていましたので、ちょくちょくそこへ訪ねて、とりとめもなく…彼の忙しい時間をつぶさせました。そこで初めて奥様にも紹介されたと憶えています。 宅間君は「部落解放」の問題に取り組んでいて、私も記録映画の脚本取材で部落問題をやりましたので、墓碑銘のことやら、地名総監のこと、部落の歴史と現実について語り合ったこともありました。映画「橋のない川」や「破戒」等についても話したのですが、二人の意見が完全に同意を見る迄話し合えなくなってしまった事が残念です。 劇映画も、記録映画も、コマーシャルまで、全ての映像媒体の仕事が東京へ流れるようになってきたのは10年も以前からでした。関係していた大阪のプロダクションも幾つか倒産して、フリーとしては喰って行けなくなった頃、丁度宅間君の事業は忙しく膨れてくる時でした。私は彼に相談することもなく、或る洋菓子製造販売店へ宣伝担当として入社しました。しかし小企業に宣伝担当の専任者が必要な筈はなく、謂わば、まァ偽された形で販売員をやらされ、今日(昭和58年現在)に至ってしまったわけですが、慣れない販売の仕事は哀しいものでした。宅間君が「丁稚奉公だよ」と言っていた紙屋奉公の頃を思い出して唇を噛んでいました。販売員として若い子供達と並んで売場に立たされた時には、創作を離れた悲しさの涙をおさえるのが精一杯でした。高島屋のテナントとして売場に立った時、そこには中学同窓の野口君や石野君が部長として居りましたけれど、努めて顔を合わさないように遠くで出逢っても気づかって除けてくれるのです。売場に立って一週間が過ぎる頃、釣銭勘定にも 慣れて、頬の強張りも解けかけた頃でしたか、やっと「いらっしゃいませ」が言える様になった時です。柱の影にジャンバー姿の宅間君の姿が見えたのです。癖の両肩を突き出す様にして、じっと私を見据えているのです。睨むようにきびしい真剣な目差しでした。私は彼の目を見た瞬間にこらえていた涙が一気に吹き出したのが忘れられません。鼻水をすすりかくしている私の傍へ宅間君が寄って来ました。努めて快活に、そして照れる様に言うのです。 宅間 「見付かってしもうたか、どうや……。けど……八ちゃん……辛いやろう。又、壬生川の工場の方へ来てくれよ、なァ、なァ」 私 「猫の手借りたい程忙しいのやろう、それによう来てくれはった。おお きに…」 あの日から6年あまり経って、宅間君の死が突然知らされました。病気の事は何一つ聞いていませんでした。通夜の夜中に駆けつけて久し振りの対面をしました。 奥様から、「やり残している部落問題の仕事を続けたいと言っていた」と聞きました。 宅間君は、目を閉じていましたけれど、心はきっと正面を見据えていたに違いありません。少年の頃の様に両肩をつき出して、見えない棺の中の膝の上で拳を握りしめていたのでしょう。 帰路、大堰川のほとりで声をあげて慟哭しました。その時、空に星があったかどうかは判りませんが、彼もいた海軍で使う航法の星、北斗七星のメラクやガペラは、私の世界から消えてしまったのです。 宅間君より一年先に山田君が亡くなりました。宅間君の後を追うように大森君が亡くなりました。私は現在海軍式に言う「雲量五(雲量最大)視界零」の状態ですが、私にとっての北斗の星である宅間君が再び胸に甦って導いてくれる事を心の底から信じているのです。
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