・ 画家・牧野克次の遺品が語る紐育高峰譲吉博士本邸
(高峰邸冊子・設計図・内装装飾図等より)
2019(令和1)年9月2日
宮嶋サロン・ 発見・撮影・著者 竹田美壽恵
宮嶋サロン・ ホームページ担当 勝 成忠
はじめに
平成30年7月中旬、「画家、牧野克次・純一の関連遺品」と竹田が作成した「寄贈目録、
遺品写真集、牧野克次の家族史」を宮嶋晃様(牧野克次の曾孫)と共に京都工芸繊維大学
美術工芸資料館へ寄贈しました。
その後、故宮嶋八藏先生(映画監督 溝口健二氏の内弟子助監督・宮嶋晃様の父)が
遺された映画芸術、キネマ旬報やシナリオ等のシリーズが山積みになっているのを整理
していましたら、又又包装紙に大量に包まれた牧野克次遺品を発見しました。
下記の写真はその牧野遺品の中にあった内装装飾図の12枚目に、1914(大正3)年4月
アメリカのARTS AND DECORATIONに紐育高峰譲吉博士本邸を4頁に亘って紹介
された記事が挟まれていました。これはその一部で、画家・牧野克次も紹介されています。
ARTS AND DECORATION
NEW YORK,
APRIL, 1914 (216頁~219頁)
JAPANESE
IDEALISM IN
INTERIOR DECORATION 宮嶋晃所蔵

左側:紐育高峰譲吉博士本邸の二階食堂
右側:紐育高峰譲吉博士本邸の二階の客室(手前)、中の間(真中)、食堂(奥の間)
今回発見した遺品の中から紐育高峰譲吉博士本邸関係の資料に焦点を当て牧野克次が
残した著書「高峰邸」に沿いながら再現を試み、その中で発見したことや気付いた事を書いておきたいと思います。
目次
1.高峰譲吉博士と画家・牧野克次紹介
2.牧野克次著:「高峰邸」
3.設計と工事
4.紐育高峰譲吉博士本邸の(前面から)窓外の眺望
5.紐育高峰譲吉博士本邸の外観写真
6.邸内の玄関内部の写真・設計図・内装装飾図
7.玄関次の間の写真・内装装飾図
8.階段及び二階中の間の写真・装飾図
9.2階客室の写真・平面図(4壁展開)・装飾図
10.2階食堂の写真・食堂展開図・装飾図・家具デザイン・食器デザイン等
11.高峰譲吉博士家紋装飾デザイン画・鳳凰のデザイン画
12.その他の階の設計
13.牧野克次の調査研究材料の一部
14.「紐育高峰譲吉博士本邸焼失」の新聞記事
15.おわりに わかったこと
1.高峰譲吉博士と画家・牧野克次
高峰譲吉博士 画家・牧野克次
出典:『ウィキペディア』 牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵
1)高峰譲吉博士 化学者 三共初代社長
嘉永7年(1854)11月3日~大正11年(1922)7月22日 67歳没
[国]米国 [生]富山県高岡市 [学]工部大学校応用化学科※(明治12年卒)
[資]帝国学士院会員(大正2年) [歴]加賀藩典医・高峰精一の長男。越中国高岡
(現・富山県高岡市)で生まれ、翌年父のいた加賀国金沢(現・石川県金沢市)に移る。
文久2年(1862年)より藩校・明倫館に学び、慶応元年(1865年)選ばれて長崎へ留学。
英語などを修め、4年には京都で安達幸之助の兵学塾、大坂で緒方塾に入門。明治2年
大阪医学校に移り、大阪舎密学校では分析化学を学んだ。5年大阪舎密学校廃校により
上京、工部省工学寮に入る。12年第1期生として工部大学校を首席で卒業した。13年
英国に留学、グラスゴ―大学やアンデルソニアン大学に学び、16年帰国。農商務省
御用係として和紙、製藍、清酒醸造の研究に従事。19年には、特許局長官代理となり
特許事業の確立に貢献した。同年渋沢栄一、益田孝、大倉喜八郎、初代浅野総一郎らと東京人造肥料会社を設立。20年米国に渡り、17年の出張時に婚約していた
カロライン・ヒッチと結婚。23年改めて渡米、25年シカゴに高峰ファーマメント社を
設立。27年強力消化剤「タカヂアスターゼ」の特許を取得、29年「タカヂアスターゼ」は商品化され、世界的な名声を博した。33年には副腎の有効成分・アドレナリンの純粋結晶単離に成功※①した。これらの業績により、大正元年帝国学士院賞を受賞。
この間、明治38年ニューヨークに日本俱楽部(現・日本クラブ)、40年ジャパン・ソサエティー(現・日本協会)を設立。大正2年帰国し、理化学研究所の前身となる
国民科学研究所設立に尽力。また、三共商店設立に際して初代社長に就任。同年帝国学士院会員。[勲]勲四等旭日小綬章(大正4年) 、勲三等瑞宝章(大正11年)[賞]帝国学士院賞(第2回)(大正1年) (明治大正人物事典Ⅱ360頁2011.7.25発行大阪市立淀川図書館蔵)
*「工部大学校」は明治19年(1886年)に「帝国大学・工科大学」となり。現在の東京大学工学部の前身である。
・ワシントンのポトマック川にある桜並木は1912年に東京市が寄贈したが、高峰譲吉は寄贈の計画、発案を当初から参画し尾崎東京市長らと共に実現に大きな役割を果たした。 (ウィキペディアより)
2)牧野克次 元治元年(1864)4月21日~ 昭和17年(1942)10月22日 78歳没
・大阪の豪商天王寺屋の一族・日本画家・西洋画家・篆刻家・建築室内装飾家
・大阪府高等小学校教員・静岡県師範学校教員・大阪高等工業学校助教授
・京都高等工芸学校創立年4月に助教授として着任・関西美術会設立に参加・京都で画塾を開き、井上悌蔵、新井謹也、榊原一廣らが学んだ。・田村宗立、桜井忠剛と共に洋画家の懇親会的会合「二十日会」を創立・関西美術院設立の発起人・関西美術会、大阪第5回内国勧業博覧会其の他各種展覧会の審査員に従事 ※⑤
・ニューヨーク美術学校教授・松楓殿別荘、紐育高峰譲吉博士本邸、紐育日本倶楽部工事設計、室内装飾・久邇宮家側近・皇太子裕仁親王(後昭和天皇)妃に内定時、
久邇宮邸内に設けられた学問所で昭和の母になられた良子女王様の皇太子妃教育に尽くされ、物心両面で久邇宮家を支えた方。 ・趣味 謡曲 ・雅號 天平
(自筆略歴書・絵画作品等はホームページ「画家・牧野克次の家族と人生」を参照下さい)

真如堂法輪院にある天王寺屋牧野家の墓に眠る 平成28年2月3日撮影 竹田美壽恵
2. 紐育高峰譲吉博士本邸「高峰邸」の冊子 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
著者・設計者:牧野克次 ・冊子サイズ:縦22.2 ㎝×横15.3 ㎝
3.設計と工事
1909年(明治42年初め)紐育高峰譲吉博士本邸の工事設計の委託を受ける
計測に着手し大体の方針決定(修築)
1909年11月3日 参考として欧州各地の研究的巡覧の為紐育出発
1910年 (明治43年) 欧州より帰朝して特殊の工作物器具の注文をし、
装飾に要する材料を蒐集
1910年7月 日本から紐育に帰る
1910年9月 請負者との契約成立し直ちに工事に着手
1911年(明治44年12月) 工事大体落成
1912年12月(明治45年) 装飾一切竣成す
設計に着手してより完成に至るまで4カ年を要した。
此工事に従事したる職工は総て外国人なれども、特殊の工作物(折上天井、勾欄の
一部、床脇の違棚、障子、欄間等)は日本で製作した。この天井、勾欄、床脇等の
木工は、三共株式会社技師奥田象三氏監督の下に山岸慶吉氏の製作に係る。
4. 紐育高峰譲吉博士本邸の窓外の眺望
紐育高峰譲吉博士本邸住所: 紐育リバーサイド・ドライブ334番地
高峰邸の前面はハドソン河に対し、水を隔ててニュージャージー州の断崖を望み、
雄大の気、豪岩の景窓前に迫る(牧野克次著「高峰邸」より)
縦28㎝×横35.5㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

5.①紐育高峰譲吉博士本邸の写真 縦35.2㎝×横24.6㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

②高峰譲吉博士の最初の希望と建築方針(牧野克次著「高峰邸」より)
家屋の外構 ルネサンス式 五層の石造なるも、上部後方に一層と地下に一層あり総て七階なり
高峰博士の最初の希望は、全部を日本式とし、第1階は奈良朝の雄大なるもの、第2階は藤原式の優麗(ゆうれい)なるもの、第3階は鎌倉式に室町式を加えて閑雅(かんが)なるもの、第4階は桃山式の燦爛(さんらん)たるもの、第5階は徳川中世以後の式を取り、別に茶席を設け、室内装飾を歴史的に作りたい。博士は日本趣味を外国人に紹介する場にしたい※②意向であった。(高峰譲吉博士は、別荘の松楓殿や高峰本邸を日米親善と国民外交の社交場として活用したかった。)
実際の生活の場としたら、種種の不便支障が生じる為、1階、2階を日本式其の他を
洋式とすることとなった。
純日本の住宅式にては、貧弱寂寥到底他の室との調和を保つこと能はざるが故に、主と
て藤原時代の優麗なる装飾を用い、一部に室町式と徳川式とを加味して日本趣味の鼓吹
啓発に資せんとしたり。
牧野克次が宇治平等院鳳凰堂に注目した理由
日本建築史上藤原時代と云えるのは、醍醐帝の頃より藤原全盛を通して平氏の末期迄を云う。その多くは藤原氏の摂関時代なるを以て斯(か)く云ひなせり。盖(けだ)し
前期奈良朝以来の支那模倣を優美艶麗に醇化したる時代なるを以て豊麗なる装飾には、
この時代のものを採酌するを最も適当と認めた。惜しい事に模範建築物の現存するもの極めて少なく、僅かに宇治平等院鳳凰堂を除きては概ね小規模の一部分に過ぎざるなり。
京都高等工藝学校に協力を乞う
鳳凰堂の研究に関しては余の前任校なる京都高等工藝学校長中澤博士に工事の事情を
告げ多大の援助と便宜を与えられたり。殊に教授武田五一氏は鳳凰堂大修繕の監督技師
たりしを以て遺憾なく材料を供給せられたる好意をここに感謝す。
➂ 紐育高峰譲吉博士本邸玄関前設計図 紐育リバーサイド・ドライブ334番地
サイズ:縦70.3㎝×横57㎝ ・ (牧野克次遺品 ・ 宮嶋晃所蔵)
狛犬が設計図には書かれていたが実際は設置されなかったようだ

6. 牧野克次設計の紐育高峰譲吉博士本邸 玄関
① 玄関内部写真 縦28㎝×横35,5㎝ ・ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
② 牧野克次の紐育高峰博士本邸 玄関設計図 ・ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
サイン:牧野克次 K . Makino ・サイズ:縦69㎝×横78㎝・製図番号:D.NO. 34

図面左側が高峰邸表玄関で西側・ 図面上が北壁側 ・図面下が南壁側・ 図面右が東側
➂1階玄関の説明 (牧野克次著「高峰邸」より)
邸の外構は洋風の石造なるも、表口より一歩内に入れば、総チークの日本造なり、
表口内部の扉に嵌めたる青銅製網形の羽目板は東京美術学校の津田、沼田両教授の製作
にして奈良東大寺大仏殿前陳和卿の燈籠火屋の扉を模し、其の他五鉆形ハンドル、釘隠し
等も又同作に係る。
玄関の装飾は藤原時代とすべく平等院鳳凰堂を参考として立案した
天井、柱、長押等に施したる模様は宝相華蔓で、線條、形態、色彩共に親しく鳳凰堂に行って得たる粉本材料によりて構図を為した。仰望、横臥悉に筆写した。これらの作成に當り暑を冒し、寒に堪え、余の駑鈍を助けて多くの労を惜まざりしは
澤部清五郎、吉田宗太郎の両氏なり。
澤部氏は京都川島織物会社専属の書家にして住吉派を修め兼ねて洋画をも研究し常に海外留学の希望を抱けり、故に余は同航してこの工事の助力を乞い、後、欧州各地を巡遊し長く仏国に留まり斬道の研鑽に余念なかりしが、大正2(1913)年8月帰朝したり。※➂
吉田氏は専門に建築学攻究の目的を以て渡米したるか、室内装飾にも多大な趣味を持ち
幸いに余の工務に助力を与えられたり。氏は紐育にてマツキン、メード、エンド、ホワイト氏の事務所に勤務して斯道の研究を重ねつつあり。
・澤部氏の渡仏の時期は近代日本美術辞典(講談社 出版1989年)では、1911年明治44年になっている。
浅井忠と関西美術展の美術誌でも1911年明治44年にフランスに渡るとなっている。
日経アート(日経BP出版1999年2月号12巻の第2号)に星野桂三氏は澤部は1912年5月パリに居住したと記されている。高峰譲吉博士邸内装工事の関わりは1910年7月から1911年迄なのか1912年迄
なのかはっきりしない。大阪市立中央図書館で調べたが解らなかった。(竹田記)
・牧野克次と澤部清五郎は1904年(明治37年)宇治平等院修繕工事に携わっている。(竹田記)
④. 建具装飾デザイン画 宝相華蔓の模様
・サイズ:縦32㎝×横58.5㎝ ・ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

⑤ 玄関 大理石モザイク・陶器モザイク デザイン画
玄関等と記載あり・サイズ:縦16㎝×横40.5㎝ ・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

⑥ 柱の製図 牧野克次のサインあり
縦93.5㎝×横76.5㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

⑦紐育高峰譲吉博士本邸1階の壁面
四面の壁画は鳳凰堂の内部に傚ひ宅磨派の筆意を失はざらんことを務めたり、
画様は凡て経典、古画、故実によりて新たに組み立てり、
⑦―1.北壁中央の絵は阿弥陀如来、二十五菩薩来迎の図にして阿弥陀如来を中心とし、
諸菩薩是に随い、雲に駑し、楽を奏し、上品上生の信者を来迎する所なり。
北壁中央の絵 縦16.2㎝×横27.6㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

⑦―2
北壁の右方獅子に騎れるは、文殊菩薩にて、左方象に騎れるは普賢菩薩なり。
文殊は普賢と一対の菩薩にて阿弥陀如来の左脇士として知恵を司る。
普賢は三曼陀とも云い、彼牫の国土に往来して仏陀の教化を扶け衆生を済度す。
北壁の右方の文殊菩薩 ・縦16㎝×横9.3㎝ ・ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

北壁の左方に描かれた普賢菩薩・ 縦15.8㎝×横12.9㎝・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

⑦―3.南壁は、天人の飛行にして虚空に華降り、音楽聞江、霊香四方に薫ずる
極樂世界をあらわしたるものなり。
南壁に描かれた天人 ・縦15.5㎝×横18.5㎝・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

厳しい気象条件に耐えられるよう絵画に用いた画布、絵具の工夫
是等の絵画に用いたる画布、絵具等には少なからず苦心を費やしたり…
日本在来の方法によれる紙、絹、木地などは紐育の如き乾燥の土地殊に厳冬尚7~80度
の温熱を与うる室内にては、其保存不可能なるを以て、種種の試験と工夫を凝らし、遂に油画に用うる強き
キャンバスを枠張となし、これに金箔を押し、古色を帯びさせ、然る後
油絵具を以て揮毫(きごう)することとなしたり。これ全く日本在来の方法を用いて何回も失敗を重ねたる苦き経験によりて新たに試みたる方法なれば、其得失は今後の経過によりて徴するを得べし。他の各室の壁画、天井画等皆此方法に依る。
⑧紐育高峰譲吉博士本邸内 玄関 1階 天井装飾画
サイズ:57.5㎝(2㎝綴じ代あり)×51. 8㎝ ・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

表窓に用いたる観音開無双型の戸は最上の漆塗となし、金具は悉(ことごと)く
彫鏤(ちょうる)の技巧を示し本金焼付となす。
皆山中商会大阪工場にて松井貞治郎氏監督の下に製作せり、同工場の製品は松井氏と共に波多野秀太郎氏が
献身的尽力の結果なれり。
左右の鏡戸及び欄干等は京都野村商会より供給す。工匠は和田源兵衛氏なり、金属製
釣燈籠もまた同商会の供給なり。
丸柱の中を総て空洞にして、七枚重ねの剥ぎもので、電灯線、電話線、ガス管を通すようにした。
礎石は花崗岩にして宮殿式のものを用ふ。
正面両脇の丸柱に懸けたる六角形燈籠及び椅子、卓類は山中工場の製作なり。
敷物は総て古代の支那ラグを用ふ。この高峰邸内に用いたる一切の支那ラグは高峰博士が
多年の間に漸次購入されたもの。
当時10尺乃至20尺の大形のものは安くても数千ドル高きは萬を超える。
⑨ 紐育リバーサイド高峰博士邸 玄関用椅子 牧野克次案
⑨―1・製図番号 140号・製図用紙のサイズ 縦37.3㎝×横66.8㎝ ・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

⑨―2 牧野克次の指示内容拡大写真

⑩ 紐育リバーサイド高峰本邸所用 六角形 柱懸燈籠 原寸図1枚 青写真
明治44年(1911年)3月上旬 ・製図番号118号 D. NO 118 牧野克次サイン
FOR DR. J . TAKAMINE ・334 RIVERSIDE
DRIVE
K. MAKINO ・550 WEST 173 D STREET NEWYORK
. CITY
・縦98㎝×横73.5㎝ 1枚 ・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

指示内容が記載されている(カタカナ文字はひらがなに変えた
・木材 桑又はチークの木地 本磨き上等仕上げ
・彫刻 古色を帯びたる金泥入り極彩色に仕上げ大丈夫に釘止又は
○○なし乾燥の結果取れざる様注意のこと
・金物 充分厚きを持たしたる真鍮又は銅に箔押滅金(古代色)極上等仕上げ
・燈籠木彫の所に次の注意書きがしてある
極彩色透し刻り木彫(鳳凰入り唐○?図案見計らいのこと)時代藤原
7.紐育高峰譲吉博士本邸玄関 次の間
① 玄関 次の間の写真 ・縦28㎝×横35,5㎝・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

② 牧野克次著「高峰邸」より
玄関次の間は一段高くなりて、此所より階段によりて漸次上層に昇るべく
又階下の闥(タツ:とびら)を排せば自動昇降機(エレベーター)ありて随意各層に昇降することを
得、地下室の電動機によりて自動的に最も安全に昇降動止 意の儘(まま)に使用出来る。
正面の壁画は中央は薬師如来で、右は日天、左は月天なり。
➂―1建具装飾デザイン画(東側)・サイズ:縦32.5㎝×横43.5㎝・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)


➂の1を拡大した写真
南壁の画は、十二神将にして、薬師如来に配する守護神なり。
④高峰譲吉博士本邸玄関の間 壁、建具装飾デザイン画 (南壁側)
・サイズ:縦28.8㎝×横67㎝ ・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

戸に附けたる七宝製引手(ナーブ)は、鳳凰に因みて桐の図案を製し、山中本店主の多年
養成したる、香炉の名匠鳥山彦三氏をして特に作らしめたり。
東正面の戸を開けば婦人化粧室にして、内部は、白色の洋風なり。南の戸を開けば男子用の整装室で、
内部は同じく洋風なり。清浄と便宜を専らとしたるが故なり。
⑤固定器具の装飾デザイン 装飾デザイン 1枚 装図
七宝製引手桐の図案縦50㎝×横32.2㎝ 七宝製引手桐の図案 縦50.5㎝×横23.6㎝
(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)


⑥ . 鳳凰デザイン画 ・ 縦84㎝×横89㎝ ・ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

⑦天井 建具装飾デザイン画
・縦55.2㎝×横56㎝ ・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

8.階段及び二階中の間
①紐育高峰譲吉博士本邸内階段の一部の写真 設計・牧野克次
写真サイズ:縦28㎝×横35.5㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

②牧野克次著「高峰邸」より
階段の中第一階より第二階迄の分は日本で製作した。
第二階より第三階迄の分は米国にて製作した。
この欄干は、全部日本式に実質あるチーク材を以て作った。日本流として完全に
似たけれど、時日を経るに従い諸所に罅裂(かれつ=ひび)を生じ外観を損する恐れあり。故に将来この種のものを作るには、寄せ木、重ね剥ぎ、張附け等の手段を用ふるを良しとす。
勾欄の七宝製金具及び擬寶珠は特に野村商会に製作せしめたり。
階段より二階中の間に亘れる壁画並びに天井画は、徳川中世の式を取り、
光琳の意匠 を参酌したり、銀地に古色を付けたるは(牧野が)博士の実験場にて
種種研究したる結果なり。
➂階段建具装飾デザイン画 ・牧野克次 遺品・ 縦30.5×横51㎝・宮嶋晃所蔵
④階段、壁、建具装飾デザイン画 ・縦32.5×横68.5㎝ 菖蒲が描かれている
(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

⑤天井 建具デザイン画 ・縦51×横41㎝ 牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵

⑥欄干丸擬宝珠 設計図 サイズ:縦46㎝×横81㎝ ・牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

⑦紐育高峰譲吉博士本邸内 二階中の間の写真 南壁と戸棚
写真サイズ:縦28㎝×横35.5㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

⑧牧野克次著「高峰邸」より
南壁にある戸棚は、外見陳列棚に見えるけれど内部にスチームヒートを設置している。
吹貫障子より其熱を放散せしむるなり。…
各室皆此主意によりて、周囲の戸棚或いは聯子(れんこ)下、腰掛などに仕込みて
一つも外面に現さず。
此室より西に向へば客室にして東に進めば食堂なり。
⑨二階中の間内装装飾デザイン画(南壁側)・牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵 縦30.5×横51㎝

⑩二階中の間 壁、建具装飾デザイン画(牧野克次 遺品・宮嶋晃所蔵)縦30.5×横51㎝
尾形光琳の意匠を参考に描かれた (かきつばたのデッサンが多数遺されている)

⑪ 戦前の東京牧野克次邸で飾られていた立体かきつばたのミニチュア
宮嶋春談(牧野克次の内孫)
その後、京都の宮嶋邸玄関に飾られていた 縦巾10.5㎝×横巾15.5㎝×高さ12.5㎝
宮嶋晃所蔵

2019.7.30 撮影 竹田美壽恵
9.紐育高峰譲吉博士本邸内 客室
① 客室の写真 1 設計:牧野克次 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
写真サイズ:縦28㎝×横35.5㎝

②客室の説明(牧野克次著「高峰邸」より)
・客室は足利時代を追想して書院造の折衷とした。
・床の間及床脇は荘厳と堅牢とを旨とし、繊巧(せんこう)奇危の技工をさけたり。
是れ日本と異り、乾燥無比寒熱の差著しき紐育にては繊細巧緻の技工は破損の恐れ
あるを以てなり。
・且(かつ=同時に)日本在来の木割法に従わず、室の廣狭、天井の高低、土地の習慣、
家族の起居等を斟酌し総 て各部に新案を加えたり。
・床間の右方一部分に壁の前方に出たるは常に観者(かんじゃ)の疑問となる、これは
後方最下層より上層に通じたる煉瓦壁内の煙道なり、… 略
・壁画並びに襖画は藤原時代遊楽の図なり。この壁画は土佐派の画風に倣い、
油絵具を以て揮毫(きごう)し殿堂 門廊には悉(ことごと)く正式の遠近法を適用せり。
これ等の執筆に多大な助力を興へ光彩を添えたるは澤部清五郎氏なり。
・家具類は悉く山中工場に於いて優秀なる職工を撰び之に図案を興へて特別に製作
せしめたり。
・此処に用いたる敷物のみは日本に於いて特製せしめたり……故に京都の河瀬勘兵衛氏
数多の試験研究の結 果暫く是を供給したり。(発注した敷物のデザイン画が遺されている)
➂牧野克次設計の紐育高峰譲吉博士本邸内 客室の床の間 装飾図
・縦34.5㎝×横59(2㎝綴じ代含む)㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

④牧野克次設計の紐育高峰譲吉博士本邸内 天井装飾図案 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
⑤-1 牧野克次設計の紐育高峰譲吉博士本邸内の客室写真 2
写真サイズ:縦28㎝×横35.5㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
⑤-2 紐育高峰譲吉博士本邸内二階客室内装装飾図 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
縦35㎝×横60.5㎝

⑤-3 牧野克次設計の紐育高峰譲吉博士本邸 二階客室平面図 4壁展開図
サイン:牧野克次室内装飾所要・縦73.5㎝×横78㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

図面左側:南壁 図面下:東側 図面右側:北壁
⑤-4紐育リバーサイド高峰博士本邸所用 柱懸燈籠 製図1枚 牧野克次案
製図番号:110号 用紙サイズ:縦69㎝×横92.7㎝(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

10―① 紐育高峰譲吉博士本邸内の2階食堂写真
写真サイズ:縦28㎝×横35.5㎝ (牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)
左壁が北側 向こう正面が東側 右壁が南側
10-②牧野克次著「高峰邸」より
・食堂は総て藤原時代の装飾にして殊(こと)に主力を天井に用い、古雅の色調を失わずして
莊重優麗の品位を保たしめんとの目的を以て起案し、鳳凰堂 浄瑠璃寺等の天井を参照して図案を組織したり、此天井は前記山岸慶吉氏に図案を興へ、日本番
匠の手際をあらわさしめたり。(「天井の図案は山岸慶吉の手によった」と記されている文献があるが、牧野克次著「高峰邸」の読み間違いのようで、牧野克次の図案である)
・……只1個の茶棚風のものを置き給仕上の便宜を計り、器具一切は南壁にある押入
戸棚に整頓することとなしたり。
・椅子は紐育のペレー家食堂用椅子を参考とし、これに藤原式模様の金唐革を作らしめ、彫刻も藤原式としたり、山中工場の製作に係る。
・食卓は紐育のリンブランド会社の工場にて作らしめ、桝組を反対に用いたる柱脚一基にて支持し多人数の食事には其中央より左右に分かれ伸縮自在ならしむる装置とした。
博士は和食を常食にされていたので、食堂用卓の高さ等を調整した。
・此室及び他の各室の柱に験温器の附着せるは室内の温度を調節する為にして、表面の指針を希望の温度表に向け置くと所要の温度を保つことと為る。
(紐育高峰譲吉博士本邸はセントラル・ヒーティング・システムが採られていた)
・掃除のためには最下層にバキュームミシンを据付け各階に其鉄管を通し、更に護膜管に接続し強力なる電気によりて如何なる場所をも遺憾なく清潔に塵埃を吸収せしむる装置と為したり。
(バキューム・クリーナーの最新式ビルトイン方式を採られた)
10-➂ 紐育高峰譲吉博士本邸 2階食堂展開図
サイン:室内装飾所要牧野克次・サイズ:縦73.5㎝×横74㎝(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
左が北壁側 上が東壁側 下が西壁側 右が南壁側
10-④-1 2階食堂西壁側の建具、装飾図 ドアを開けると二階中の間(牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)

10-④-2 2階食堂南壁側建具、装飾図 (牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)

10-④-3 2階食堂東壁側の建具、装飾図 (牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)

10-④-4 2階食堂北壁側の建具、装飾図 (牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)

10-⑤ 紐育高峰譲吉博士本邸 2階食堂天井装飾デザイン画.
縦31.5㎝×横54(2㎝綴じ代含む)㎝+折り返し27㎝(絵柄なし) (牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)
10-⑥ 紐育高峰本邸食堂用椅子 4分の1縮図 青写真一部(牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)
右下端に製図番号 126号 牧野克次 D. NO. 126と記載・第2回山中行
二つ折 サイズ縦55.6㎝×横94㎝

下記の指示内容が記載されている(カタカナを平仮名に変換した)
・足を除くの外 総革包みに仕上げのこと(革は古代色 金唐革)模様
の外は金無地なり
・鋲の数は尺 壹フート 拾九本の割にて打つこと(総包み鋲)
・足の彫刻は金のすりはがしに仕上げのこと。
・革包みの内部は堅牢にして狂わざる木材ならば何にてもよし
・木地の見える所は、チークの地色を本磨きに仕上げ他の色付をなすべからず
FOR DR. J . TAKAMINE ・ 334 RIVERSIDE DRIVE・K. MAKINO
10-⑦.家具装飾図案 ・図案サイズ:縦16.7㎝×横21.9㎝(牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)
10-⑧ NO103 紐育高峰本邸用 卓類図案 製図番号D.NO T.141号
サイズ:縦49.5㎝×横70.5㎝ (牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)
木材:総チーク 木地仕上げ
FOR DR. JOKICHI TAKAMINE ・334 RIVERSIDE DRIVE
NEW YORK
KATSUJI. MAKINO ・ 3129 BROADWAY NEW YORK
A .来客用 ・B. 食堂用・C. 床の間用・D. 来客用・E. 食堂用
F. 来客用 ・G. 食堂用 ・H. 食堂棚用 ・I. 床の間用
J. 床の間用 ・K. 食堂用
指示:
Aには 脚頭より脚底に至る迄漸次曲線となすこと。或る所まで直線にて或る所より
急に曲線とならざる様注意のこと。
此他脚の曲げたるものは、総て此方針に願ひたし
Dには 脚の保存弱きか又は他日程ひの生する恐れあるときは此所に
棚又は横木を入れて脚がためとなすこと随意なり
(ひらがなの所カタカナで記載されている)


紐育高峰本邸用 卓類図案 牧野克次サイン
10-⑨ 紐育高峰邸用 鑄物製 釘隠し 第2回奥田行き(赤字)
製図番号 125号 牧野克次 D NO 125
FOR DR J. TAKAMINE ・334
RIVERSIDE DRIVE
(牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵) 製図用紙のサイズ 縦35.5㎝×横33㎝

10-⑩ 牧野克次設計の紐育高峰本邸用西洋皿のデザイン画
(牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)
① 縦24.5㎝×横15.5㎝ ②縦31㎝×横24.3㎝(デザイン画サイズ)
花柄と鳳凰
➂縦31.5㎝×横24.1㎝
鳳凰がデザインされている ④縦31.5㎝×横24.2㎝・ 鳳凰のデザイン
⑤⑥ 高峰家の家紋八ツ矢車を入れたデザイン(縦31.5㎝×横24.2㎝)


11-① 高峰譲吉博士家紋装飾デザイン画1枚 (牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)
用紙のサイズ 縦13.6㎝×横15㎝

②.鳳凰のデザイン画 3枚1セット (牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)
食堂の東側に描かれている ・サイズ:縦12.5㎝×横32.4㎝

➂ 鳳凰のデザイン画 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
サイズ:縦59.5㎝×横49.5㎝
12.其の他の階の設計について
「高峰邸」で牧野克次は以下のように書いている。
第1階、第2階は余の設計に係り、第3階の図書室はジョン、ヴイ、ヴワンベルト氏
の設計に成り、其の他は合議設計とも云うべきものなり。
ジョン、ヴイ、ヴワンベルト氏はコーネル大学の教授にして仏国風の建築学者なり。※4
3階
図書室 ルイ16世(西暦1774年~1792年に至る)式
周囲全部をオーナッツの彫刻仕上げ。総てリンブランド会社の製作。金物一切はエール、
エンド、タウン会社のフランス国工場の製作。ピアノも部屋に調和するように特注。
博士夫妻の大肖像は佛國画家トーマス氏の筆にして1911年の肖像なり。
東側に隠し戸あり。暖炉設備。化粧室。
博士夫妻の寝室 ルイ16世式
室外の廊下に故ホイスラー氏の10数帖のエッチング額が掲げられた。
4階
西側:子息の専用室: 色調は令息(ジョー2世とエーベン)の好みを取り入れ装飾せり
東側:宿泊客用:男女共通の装飾とする
5階
西側:玉突室
東側の第一室:高峰博士の閑談室…日本式(1904年セントルイス万博博覧会に出品した
京都館の一部を記念物として修復保存した。)
東側の第二室:宿泊客用予備室
6階:総て男女使用人用で各人1室(勤務外は自室で自由に過ごせるようになっている)
屋上:観望台 :ハドソン河に沿える土地柄で四時の眺望絶景なり、
1909年ハドソン・フルトン航海・探検家の記念祝祭に明治天皇の御名代として
久邇宮邦彦王御夫妻(香淳皇后の両親)が出席された。その折に
高峰博士本邸とメリーワルドの松楓殿に訪問され、松楓殿に宿泊もされている。
高峰本邸観望台から展望され大変喜ばれた。
13.牧野克次の調査研究材料の一部 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
①金閣寺三層閣上の鳳形胴鋳 ②平等院鳳凰堂上の鳳形胴鋳
サイズ:縦26㎝×横18.8㎝ サイズ:縦19㎝×横25.7㎝

➂鳳凰殿 扉画の事
牧野克次が高峰博士邸内装時宇治平等院を参考にした事を記載した文書
サイズ:縦38.5㎝×横26.5㎝・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

④東照宮 御拝殿内部の写真 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

14.
①紐育高峰博士本邸 焼失の新聞記事
牧野克次の遺品の中に「(紐育)故高峰博士の邸宅 鳥有に帰す 由緒ある建築物」と紹介した
新聞の切り抜きが挟まれていた。「1927年(昭和2年)3月3日土曜日に焼失」
烏有(ウユウ)に帰(キ)す …… 火災で総てなくなる。
新聞記事の全文 (牧野克次遺品 ・宮嶋晃所蔵)

上記の新聞記事分割拡大 1 
新聞記事分割拡大 2 
新聞記事分割拡大 3

1922(大正11)年7月22日に高峰譲吉博士は亡くなっている
② 寺島実郎氏の本2002年11月15日新潮社発行「歴史を深く吸い込み未来を想う」に
「リバーサイド旧高峰邸は他人の手に渡り八世帯の表札が並ぶ集合住宅になっている」と紹介されている。1927年火災で焼失したとの事だったが、同じ場所に同じ外観で建てなおされたと思われる。又2012年5月北国新聞社・富山新聞社発行「日米桜寄贈100周年記念報道写真集に「高峰譲吉博士が住んでいた家」として修復された住宅の写真が掲載されている。尚スマホでニューヨーク、リバーサイド334番地で入力するとグーグルストリートビユーで見る事が出来る。
15.おわりに わかったこと
1)紐育高峰譲吉博士本邸の階段や2階中間は、日光東照宮御拝殿を模範としていたと考えられます。牧野克次は 、紐育高峰本邸の階段や2階中の間は
徳川中世の式を取ったと記し、一部紹介(13-④)しました調査資料が遺されています。
2)ニューヨーク州メリーウオルドパーク所在の別荘松楓殿の室内装飾に牧野克次と共に京都高等工芸学校1期生の村山順氏(1910年に牧野克次の長女直と結婚しアメリカに居住)と、霜鳥正三郎(之彦)氏(後、京都高等工芸大学教授・京都学芸大学教授)も携わっていた事が下記文献で解りました。
・高峰博士伝記叢書 塩原又策(「三共」創始者) 発行大正15年 大阪府立図書館蔵
3)画家・牧野克次がアメリカへ伴い、松楓殿(高峰博士別荘)の内装装飾に係った
画家・村山順氏や画家・霜鳥正三郎(之彦)氏、高峰博士本邸の内装装飾に係った
画家・澤部清五郎氏等は、高峰博士の支援を受けアメリカ留学やフランス留学に道を
開いた若き芸術家ではないかと下記文献で思いました。
・高峰譲吉伝~松楓殿の回想~ アグネス・デ・ミル・プルード著 訳者・発行者
山下愛子 アドレナリン発見100年記念出版 1991年初版発行 富山県立図書館蔵
・高峰博士の面影 昭和36年12月1日発行 平成2年12月1日複刊
高峰譲吉博士顕彰会 石川県立図書館蔵
4)高峰博士本邸の3階以上はジョン・ヴイ、ヴヮンベルト氏が設計をした」と書かれた本が出版されていますが、牧野克次著の「高峰邸」には「第1階、第2階は余の設計に係り第3階の図書室はジョン、ヴイ、ヴヮンベルト氏の設計に成り、其の他は合議設計とも云うべきものなり。」と記されています。
竹田は、大正15年に発行された塩原又策氏(「三共」創始者)の「高峰博士の伝記叢書」を編集する段階で参考文献とした牧野克次著の「高峰邸」の読み間違いが起こり、
昭和36年12月1日発行、高峰博士顕彰会の「高峰博士の面影」をまとめられた時もそれを踏襲されたのではないかと考えます。
5)画家・牧野克次は高峰譲吉博士の一貫した崇高な志と行動を同じ日本人として
理解し、支持、共鳴していました。京都高等工芸学校を退職しアメリカに腰を据え
紐育州メリーウオルドパーク所在高峰譲吉博士の別荘「松楓殿」、紐育市の高峰譲吉博士の本邸、紐育日本俱楽部、外人邸の日本式室内装飾などの建築設計と監督の仕事に関わり、ワシントンのポトマック湖畔やニューヨークのハドソン河にある桜樹寄贈で高峰博士が尽力されている時、牧野克次は紐育桜パーク記念銀牌・桜樹寄贈記念杯を制作して日米親善を積極的に下支えしています。それは、
1911年1月、紐育日本俱楽部建設委員会から建設設計考案依頼に対して牧野克次の
返書 に「…小生の主義方針は偶然にも従来の使用者たる高峰(博士)委員(紐育日本倶楽部会長)のあるあり高峰邸の購入品にして小生の関係したるものに対しては請負側の牛窪委員(紐育日本倶楽部正幹事)のあるありて、小生の平素を占定せらるるの光栄を得んこと切望に堪えず。…」という文言からも解りました。
高峰譲吉博士の一貫した崇高な志はどのように育まれ、行動されたのか?
下記の参考文献で納得しました。
「高峰譲吉の生涯 アドレナリン発見の真実」著者 飯沼和正・菅野富夫 31~32頁に
高峰博士は工学寮(東京帝国大学1期生)で6年制の学校で学んだ。最初の2年間は
「予科」。専門課程へ進むに必要な英語力がきたえられた。物理や化学などの基礎科目が教えられた。次の2年間は専門科目の学習である。この学校では「校中修学と実施修業」の両方に等分のウエートが置かれた。そして最後の2年間は、専門分野での「実地学」が主体である。学理の習得と実地研修とを等分に重視する教育方針は、ダイアー自身によって導入された。ダイアーは、教育の方法論に限らず、工学教育全般についても高い理念を持っていて高峰博士ら1期生に向けての卒業講演で、「エンジニアは真の革命家でなければならない」「諸君は自分自身の為だけに存在するのではなく、
社会の為に存在していることを忘れてはならない」「その為には、ただ専門分野の学問、知識に精通するだけでは不十分であって、早くから人文科学や芸術にも関心をもたねばならない。」「諸君が文学や哲学、芸術、其の他、専門職には直接役立たない諸学問に対して、まったく門外漢であったならば、多くの専門的職業人につきまとう偏狭さ、
偏見、激情から逃れることは不可能… 」と高峰博士が受けた教育が記されている。
そして「高峰博士伝記叢書 塩原又策(「三共」創始者)」27頁に「その後3年のイギリス留学を終え帰朝し、工部大の応用科学の先輩から印刷局か大阪の曹達製造所に
就職しては如何かと勧められたが私は、辞退した。……技術者としては、その習得したる学術を最も多く意義ある事に応用したい、願わくば、固有の工業にこれを応用したい。もし幸いにしてそれで先人未到の地を拓く事を得れば我が望み即ち足るのである。」と高峰博士は当時の感想を述べられたと云う。
「日本科学の先駆者 高峰譲吉 山嶋哲盛著」120頁に高峰博士が郷土金沢で、明治39(1906)年10月30日第4高等学校医学部の済々(せいせい)堂と大正2(1913)年
に金沢医学専門学校の講堂で「余がこれまでに成ったのは、藩や大学に負うところが多い。余はこの国恩に報いたる義務の大なるを感じる。故に得たものをもって国恩に報いなばならぬ」と講演をされた。
高峰博士が口癖としていたのは、「余の社交の目的は、私利私欲を謀(はか)るに非ずして、日米の国交を親かつ密ならしめんとするにあり、これ余の使命である」という
言葉であった。と記されている。
6)画家・牧野克次は誠実で几帳面な人柄だった事を知りました。
「高峰譲吉とその妻」 飯沼信子氏著 大阪市立中央図書館蔵147頁に
「牧野克次は、研究熱心な誠実な人柄だった」と記し牧野自身の回想として「建築期間中の二年半の間、高峰夫妻は一度も催促したり、疑問を持った言動がなく、牧野は
終始、自由な仕事が出来たという。アメリカ人の大工たちも、各自が研究し、牧野が
指示する通りに仕事をするその内に彼ら自身が考え出した方法に、牧野も賛成して
日米親善が思わぬところから生まれた。」と紹介してありました。
紐育高峰譲吉博士本邸内2階 客室の床の間で 装飾に携わった人々との写真
前列左から2人目牧野克次・後列中央 澤部清五郎
・浅井忠と関西美術院展に掲載 発行:府中市美術館、京都美術館、京都新聞社 2006年
企画・編集:志賀秀孝氏 府中市美術館主任学芸員・清水佐保子 京都市美術館学芸員

7) 紐育高峰博士本邸について「……高峰博士の邸宅は…現在の感覚ではちょっと異様としか思えない内装である。それは、ニューヨークでの異国受けを狙った「日本」イメージを全面に押し出したもので、当時のマンハッタンでは評判を取ったに違いない。」という意見が書かれているのがありました。
なぜ?高峰譲吉博士は日本式を取り入れた建物をアメリカで建設したのか?
当時のアメリカの状況を理解する参考文献が下記にありました。
①歴史を深く吸い込み未来を想う 寺島実郎 2002.11.15新潮社発行 大阪市立中央図書館蔵で
寺島実郎氏は、「ぺリー来航以来150年近くになろうとするが、日米関係史において、米国に在住した日本人で、高峰譲吉ほど日米の相互理解に貢献した人はない。高峰が、69歳で、
ニューヨークに客死する前年の1921年、高峰は体調がすぐれず、なんとか帰国して静養したいという希望を強く抱いていたが、渋沢栄一の手紙に「高峰、米国を去らば、日米親善の方途絶る。」とあるのを見て、帰国を残念、米国の土になることを決意したという。
なんとも大袈裟な話に思えるが、高峰を調べていくと、化学者としての業績を超えて、
いかにこの人物が日露戦争を挟む日米関係において大きな貢献をしたのかが浮かび上ってくる。……紐育高峰邸はロックフェラーやモルガンなどの米国の大財閥の人々との親交の場になった。」と書かれています。
②高峰譲吉伝~松楓殿の回想~ アグネス・デ・ミル・プルード著
訳者・発行者 山下愛子 アドレナリン発見100年記念出版 1991年初版発行 富山県立図書館蔵
(高峰夫人の親戚だったアグネス・デ・ミル・プルードが幼い時近くに住んでいた時の回想記録)のエピソード
メリワルドの松楓殿に高峰一家が住んでいる頃、高峰夫人(キャロライン)が、ワシントンの日本大使館に連絡する為電話をしに旅館に行った時のエピソードが記されています。
旅館のベランダでは、ユダヤ人の侵入と引き比べて、いわゆる黄禍の危険性を喧伝する者がいました。私(アグネス)はその種の話をしばしば耳にしましたが、高峰おばさまは、私の知るかぎりでは一度だけだったようです。
おませでお澄ましやのローラ・グレイブのところに遊びに来ていたマリアンが、籐椅子にそっくり返り、間延びした笑い声をあげながら、どこまでも聞こえそうな大声でしゃべっていました。「どちらでもいいけど、ジャップ(日系人をさす略称、蔑称)もチャンコロも私達とは違うのよ。一緒に遊ぶ気なんてないんだから。今度はきっと黒人を連れて来る気だわ。あんなのが平気で住んでいられるところはここしかないわよ」高峰おばさまはきれいな声の持ち主で、しかもその声を張り上げて怒鳴ることは決してありませんでした。
マリアンの声を耳にするとおばさまは一瞬足をとめて唇をきっと結びマリアンの方へ
真っすぐ進んでいくと、マリアンは、椅子にかけたまま目を丸くして彼女の方を見ました。その顔は、女の子らしくまず真っ青になり、それからイチゴみたいに赤くなりました。「あなた」おばさまが口を開きました。「あなたの学校には歴史の時間がないようね。
あなたの祖先が草葺の掘っ立て小屋でオオカミの毛皮を着て暮らしていた頃、日本人は
もう世界でも指折りの立派な文化を持っていました。それだけではありません。日本人は昔から礼節をとても重んじる国民でした。ひとつ例をあげますと、日本の女の子は、目上の婦人に話し掛けられると必ず立ち上がってお返事をします。それにはっきりした証拠もなしに人を悪く云うこともないと思います」「まあ、大変申し訳ありません」とひとことマリアンが言いましたが、他の御婦人がたには言う言葉がありません。……
と云うように、当時の米国社会は日本人蔑視の思想が吹き荒れていた時代で、高峰博士は自宅や別荘にアメリカ人を招き日本の歴史や文化を知ってもらい、在邦人との交流出来る場を作った。
➂ 高峰博士伝記叢書 塩原又策(「三共」創始者) 発行大正15年 大阪府立図書館蔵
日本科学の先駆者 高峰譲吉 アドレナリン発見物語 山嶋哲盛著 2001年6月20日
岩波書店 発行 大阪市立生野図書館蔵 に
高峰博士とキャロライン夫人の活動が書かれています。
高峰博士が住宅を建設する頃、日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)が
没発。アメリカでは、独立戦争と南北戦争の2度に渡りロシアの援助を受けて
ロシアびいきが殆どで日本がどこにあるのかさえ知らないという状況だった。
日露講和の調停に尽力するかたわら日本の国情をアメリカ人に知ってもらい外債で
戦費調達の退任の為に巡遊しょうとしていた貴族院議員金子堅太郎氏を迎えて、在紐育日本人の有力者をアメリカ人に紹介する為高峰博士は1905年ニューヨークリバーサイドの自宅を開放し大規模なパーティを行った。当日高峰夫人は黒紋付の楚々たる姿で来客をもてなした。邸宅2階の日本間をレセプションルームにあて、後部を立会食とし幾多の日本美術を陳列それに生花、造花が飾られた。知名のアメリカ人100余名、在米日本人30余名が招待された。
後年、金子堅太郎は述べている。
「高峰君は戦争終結までの20カ月間、自ら無冠の大使として働いてくれた。各地で公債を募る時には各地で演説会を開き、人々に説明する必要があった。そのような際、
高峰君のかねてからの信用があればこそ、人々が集まってくれた。高峰君の信用と
勢力のみならず、……高峰夫人の内助の功がなかったとしたら、私はあれだけの成功を得る事はなかった。」キャロライン夫人は、単身で渡米していた金子の夫人代理として数々の公式の場に出席し、その有能振りを十二分に発揮した。
以上のように高峰譲吉博士と妻キャロラインのアメリカでの立派な業績をもっと多くの
日本人に知ってもらいたいと思います。
8)画家、牧野克次は戦前の1942年(昭和17年)東京で亡くなり、昭和19~20年の
第2次世界大戦に東京大空襲を受け、牧野の自宅や疎開用の荷物(絵画も)は殆んど焼失
しました。
牧野克次について美術誌などでは、「…1906(明治39)年~1918(大正7)年迄アメリカに留学しニューヨークの美術学校で水彩画を教える。1918(大正7)年帰国し以後
東京に住んで制作から遠ざかる。」とされ、アメリカでの活躍や大正7年後の活動はあまり知られていませんでした。
今回の遺品の発見で、牧野克次自筆の略歴書もありアメリカでの活動内容や帰国後の
活躍なども解って来ました。画家牧野克次の業績を改めて評価される機会になって欲
しいと願っています。
最後に宮嶋春様、晃様、泰子様、大阪市立淀川図書館様、大阪市中央図書館様の方に
多大な、ご協力を戴き感謝申し上げます。又石川県立図書館様、富山県立図書館様、
貴重な図書の貸し出しをありがとうございました。
* 宮嶋サロン:宮嶋八藏(映画監督溝口健二氏の内弟子助監督・平成27年没)のサロン
妻の春様は、画家牧野克次の孫になり、長男晃様は曾孫になる。
ホームページ「 宮嶋八蔵日本映画四方山話 」
参考文献
※①高峰譲吉の生涯 アドレナリン発見の真実 著者 飯沼和正・菅野富夫
朝日新聞社 2000年12月25日発行 330~331頁 大阪市立中央図書館蔵
・われわれは、アドレナリン発見に関して米国の学会に根強いアドレナリン盗作の疑惑を追及する過程で山下愛子氏(科学史家)が上中啓三の遺族との協力によって,上中啓三(アドレナリン発見の実験助手)自筆の「アドレナリン実験ノート」を解読、公表された資料によって否定出来る証拠になり、上中啓三自身にとってもアドレナリン発見に関する貢献の大きさを示す、最高の証拠になっていると記されている。
※②高峰博士の面影の5頁 昭和36年12月1日発行 平成2年12月1日複刊
高峰譲吉博士顕彰会 石川県立図書館蔵
高峰譲吉博士は、別荘の松楓殿や高峰本邸を日米親善と国民外交の社交場として
活用した。
※➂高峰譲吉伝~松楓殿の回想~ アグネス・デ・ミル・プルード著
訳者・発行者 山下愛子 アドレナリン発見100年記念出版 1991年初版発行 富山県立図書館蔵
293頁
※④高峰博士の面影の90頁 昭和36年12月1日発行 平成2年12月1日複刊
高峰譲吉博士顕彰会 石川県立図書館蔵
ジョン・ヴレデンバーグ・バン・ペルト二世:高峰譲吉博士の妻キャロラインの母方の従兄弟
※⑤浅井忠と関西美術院展 発行:府中市美術館、京都美術館、京都新聞社 2006年
企画・編集:志賀秀孝氏 府中市美術館主任学芸員・清水佐保子 京都市美術館学芸員
*高峰譲吉とその妻 著者 飯沼信子 新人物往来社 1993年10月15日発行 大阪市立中央図書館蔵
*高峰博士伝記叢書 塩原又策(「三共」創始者) 発行大正15年 大阪府立図書館蔵
*ニューヨークにおける高峰譲吉自邸の建設経緯と室内意匠
大阪大学学術情報庫 2008.7.19 論文 京都工芸繊維大学 玉田浩之
*歴史を深く吸い込み未来を想う 寺島実郎 2002.11.15新潮社発行 大阪市立中央図書館蔵
*日本科学の先駆者 高峰譲吉 アドレナリン発見物語 山嶋哲盛著 2001年6月20日
岩波書店 発行 大阪市立生野図書館蔵
*実業の日本 百難に克ちたる在米二十年の奮闘 高峰譲吉 国立国会図書館関西館蔵
*サムライ化学者 高峰博士 2011.2.1北国新聞社発売 大阪市立浪花図書館蔵
*大日本人造肥料株式会社50年史 大阪市立中央図書館蔵
*日本の起業家群像 宇田川勝 大阪市立中央図書館蔵
*日本文化ニューヨークを往く 佐々木健二郎 大阪市立中央図書館蔵
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