Miyazima

 

 終戦前後の様子を述べる前に、私の海軍における仕事の説明から始めます。舞鶴志飛 (舞鶴鎮守府官下) 3987(サクハナ)・・・見事に戦死する番号でした。舞鶴港でのパイロットの3987人目ということです。
 
普通予科練と言いましても、旧制中学4、5年以上から行く甲飛、高等小学校又は旧制中学校2年生から行く乙飛、学歴はそのままで年齢の高い乙飛を特乙飛と呼びます。別に看護兵、甲板兵、機関兵、通信兵、衛生兵など各兵課の中で、特に飛行適性があり、成績の良い者には丙飛。別に逓信省からの委託予科練があります。予科練では、一般兵課の陸戦を含めた水兵の仕事が主です。それが済むと操縦と偵察を分ける適性検査があります。操縦に選ばれた者はグライダー訓練が増えます。偵察に選ばれた者は手先信号、手旗信号、モールス無線、旗流信号、拳銃射撃訓練を徹底的にやらされます。
 昭和18年7月1日に美保海軍航空隊に入り、昭和19725日甲飛予科練習生教程を卒業。同年726日徳島海軍航空隊に入隊 (飛行術練習生として)

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 予科練の歌にある ~七つボタンにサクラと錨~ の正装をした宮嶋八蔵君

 今、偵察員須知を開いて見ますと、第1頁に軍人勅諭が書かれていますが、歴戦のパイロットである教員、教官は 「こんなバカなものを覚えても戦争は出来ぬ。覚える暇があれば実務の戦務を忘れるな!」と言いました。目次を見ますと、偵察・推測航法・通信・写真・信号・気象・爆撃・射撃・飛行要務・整備・艦型識別・飛行機識別参考・・・。
 操縦員と違ってすぐ飛行機に乗せてもらえません。座学、座学の6ヶ月であります。シュミレーターを使ったり、階段教室の床に出現する艦隊模型を見て、偵察内容を無線で打つ訓練です。その間に口径7,7ミリ、9ミリ、20ミリ、30ミリの機銃の分解、結合、これを順に細かく述べますと、終戦日への距離が伸びますので、次に飛びます。
 飛行作業では、鳥飼の上空からB29の爆撃で燃える大阪の町を下に見て涙しました。この間の飛行から終戦までの事は歌詞にして作ってあります。曲もつけてあります。

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  【宮嶋君から、「偵察員須知」というB6判くらいの大きさの教科書風の冊子を預かった。しかし何しろ60年以上前の印刷物で、図版が写真ではなく謄写版のようなもので、時代を感じさせるもの。中からスキャナーでまあまあという図版を取り入れてみた。 ブログ管理者】

       美保徳空会 「想い出の歌」

                                                                                   
     演奏

                            作詞 宮嶋八蔵
                           
作曲 宮嶋博司・宮嶋八蔵

              あれから数えて半世紀
      七ッ釦もプロペラも
        むなしくねむる海の底。

       雪の営庭、血に染めて
           競う若さの棒倒し
              一万米の駈足も
                  飛ぶ日思って堪えたのだ。
       卒業記念の陸戦は
           初夏の大山 山の中
              戦争ごっこの楽しさも
                  遠い昔の想い出よ    
             

              註:3番までは「予科練」、4番以後は「飛行術練習生」


       後輩練習生に送られて
           行くは徳空鬼の宿
              川風荒い吉野川
                  待つは地獄か極楽か。

       並ぶバッターに迎えられ
           課業整列 初の朝
              殴られ蹴られて帽子なく
                  将校練習生も なさけない。

                    註:5番の歌詞の註。課業整列では、一番最初に整列
                     終りの報告をした分隊が勢いがあるとされた。分隊
                     が交差した瞬間に分隊同志の殴り合いとなり、帽
                     子も取られることがある。帽子を取られた者は相手
                     分隊へ行って、詫びて返してもらうことになる。

       焼ける機銃に水をかけ
           吊敵狙って20門
              姿消すまで射ち続け
                  当たった弾痕ただ二発。

       編流測定 ヨーソーロ
           実速測定 宣候
              進路修正 チョイ左
                  コンパス持っての幼さよ。

       敵艦隊を発見す
           イロー、イロー、ホヘ!セス
              暗号ひく手のもどかしさ
                  通信教員の目が光る。

                    註:上記「イロー、イロー、ホヘ!セス」の意味は、
                          イロー(イロイチ) は 相手符号
                          ホヘ        は こちらは
                          セス       は 自分の符号
                                                 中に点がはいる

       爆撃、雷撃、航法と
           ボイコにらむも台の上
              座学座学の六ヶ月
                  飛行作業は何時の日ぞ。

                     註:ボイコ は爆撃照準器

       起床ラッパに飛び起きて
           無線調整 朝の飯
              服を着替えて指揮所前
                  整列報告 15分。

       私が始めて乗った機は
           その名もやさし白菊よ
              上昇気流と旋回 (水平旋回)
                  同乗飛行で ヘドを吐く

               註:旋回 (水平旋回) 真横になって旋回すること

       風防開いて見下ろせば
           潮が渦巻く 鳴門海
              瞬時に氷る鼻水を
                  千切る風圧の物凄さ。

       機上にバッターは無いものと
           思う心の あわれさよ
              肩打つ棍棒に振返りや
                  徳空ヒロポンと書いてある。

       あふれる涙に航法の
           図板もかすむ鳥飼よ
              焼ける大阪前に見て
                  仇は討つぞと胸の中

       飛行場での罰直は
           場内三周の早駈けよ
              モンキーバンドでつながれて
                 潮()がふき出る飛行靴

          註:「モンキーバンド」 は落下傘ベルトのこと

       飛行作業のそのあとは
           各分隊での杵の音
              夜毎夜毎の餅つきに
                 バッタの折れるは数知れず

           註:バッターで殴られる制裁の音のことを 餅つきの杵の音という。

       戦備作業に狩り出され
           偵察用具を疎開する
              又は陸地の偵察に
                 その名は隠密偵察員

                      註:戦備作業とは、戦争準備のこと

       再び空で逢うのだと
           泣いて別れた撫養の町
              遠く眉山を後にして
                 征くは九州国の果て

       負けてなるかと胸を張り
           こみやられるなと肩を抱く
              美保空仲間の心意気
                 堪えた徳空が懐かしい

                      註:「こみやられるな」とは「おしやられるな」と言うこと。

       戦い済んだ故郷は
           右も左も焼け野原
              人の心もすでになく
                  頼むは予科練魂のみ
     〔1番に戻る〕

       沖縄が占領されて飛行作業もままならず航空用具、偵察用具、兵舎もばらして撫養市に疎開しました。

 昭和20年5月5日第五航空艦隊に編入。同年7月8日第35突撃隊を命ぜられ、7月10日宮崎県角川基地に入隊しました。この隊は、最初の整列報告の際、他の隊員の駆け足の様子が違う。服は絹の特攻服、ジャケットもつけています。違うのは皮の半長靴ではなく、ゴムの半長靴でした。それで初めて分かったのですが、ここは水上、水中特攻の回天と人間魚雷、特攻潜水艦の基地でありました。
 沖縄はすでになく、次の米軍上陸の地は九州周辺その近くの本州かと思われていましたので、そのような特殊特攻舟艇が配置されていたのです。
 私たち徳島航空隊から来た者は、偵察員でありますので敵の上陸して来た艦艇識別も航空機識別などの見張りが無線で本隊へ受送信できるのです。海岸の丘のあたりに拠点を持ちました。本州攻撃にB29が私達の頭上を通過します。その時海岸のあたりでモールス風の発光信号が見えたのです。これはスパイからB29への信号に違いないというので、ある日の夜、拳銃と手榴弾をぶら下げて浜辺に穴を掘りスパイの出現を待ったのです。そのうち私はウトウトと眠ってしまいました。左右にいるはずの戦友は誰もいません。もうじき夜が白むと帰隊を急いだのです。
 行く手に小さい池がありました。そばに大きな松の木が数本生えています。本道に戻ろうとするのですが、池の周りをグルグルと何回も回って同じ所に出てくるのです。一本の松の木の下に腰掛になるような小さな岩があります。そこへ来ると毛が逆立つのです。気を落ち着かせようと岩に腰を据えてタバコを吸いました。
 落ち着いたつもりになって歩くのですが、又同じ所に出てくるのです。その内、空が明るくなり始めました。その空の下に小さい農家が一軒かすかにポツンと見えました。「よしあの家に行って道を聞こうと・・・」 戸を叩くと腰の曲がった怪談本に出てきそうなお婆さんが顔を出しました。そのお婆さんにその理由を話し道を尋ねました。
 「その岩の木の下に腰掛け岩があったかい?」
 「行こうとしても、何回もその岩のある松の木あたりに戻るのです」
 「ああ おまえ、あの娘につかれているのじゃろう。二日前にその松の枝で首を吊った娘があってなぁ・・・ あの岩に登ると丁度紐がかかるような枝がはっていただろう?」
 辺りが明るくなったので、ばあさんに道を聞くこともなく走っていました。やっと本隊へ戻れたのですが、私の幼稚園の頃にもこれに似た経験がありました。

 終戦まで短い間ですがその間、いろいろな事がありました。B29を守っていたグラマンF6Fが海上に落ちるのが見えました。それから間なしにアメリカの飛行艇が来てそのパイロット救助の舟艇を落下傘投下したのです。沖縄への脱出を考えたのでしょう。ところが落下傘の紐が2個ついているスクリュウにからまって動けなくなったのです。あくる日の朝、舟艇は海岸に打ち上げられている所を私達が見つけました。パイロットの姿はすでになく、後で製粉所の小屋に隠れている所を憲兵に見つかったようです。
 その舟艇は長さ5メートルばかり、小ボンベ一本を開けば防水用のキャンバスが船の上部を覆うようになっていました。中には寒い所へ流されてもいいように、白い毛糸のセーターが1516着、ライフボートエアーボーンと書いた航空救助食が50箱ありました、酸っぱい香りのする水枕のようなものが4050個ありました。あとで分かったのですが、これは私が初めて出合ったビニール。大便は水に浮くので近くに漂流者がいることが判ります。
 かれらが大便を詰めて海の底に沈めたのでしょう。小さいライターのガスボンベのようなものがあって、紐がついています。紐を引くと赤い色と青い色をした火の玉が空に飛び出して舞いました。遭難位置を知らせる発光信号です。無線機は積んでなかったのですが、弁当箱のような黒い箱に取っ手がついています。取っ手を見ますと SOS、部内信号も MOM というような横振り電鍵の無線が発信されるのです。アメリカのパイロットの教育も速成であったのでしょう。手旗やモールスの勉強は不要となります。ライフボートエアーボーンの中はコーヒー、ハンバーグなどアルコール以外の食物がつまっていました。これと同じ物が戦後進駐軍から配給となりました。

 日本の飛行機も中に救助用のゴムボートを積んでいるのですが、一間 (畳一畳位) の長方形のゴムの浮き輪です。底は網ですので半分水に浸かっています。日本の航空救助食は一斗缶の1/2位の大きさのものが2個です。飲料水は少しあります。別の航空食としては肝油の上にビタミンの粉末を巻いて外側に抹茶の粉がついた糖衣錠が2錠が1袋になり20~30ありました。アメリカの舟艇の食品は憲兵が来るまでに私たちが頂きました。
 この頃この辺りの漁師は網の重しに使う鉛不足で困っていました。時々アメリカの機雷が漂着するのですが、機雷の本隊についているたくさんの角はガラスの上に鉛が撒かれています。船が機雷に突き当たると鉛とガラス棒が折れて海水が浸入します。その海水が電気の通路となって爆発するのです。そういうことを知らない漁師が鉛を取ろうとして吹っ飛ばされることがありました。逆に漁師に助けられた事があります。暇な時に海に飛び込んで泳いでいますと、漁船が猛烈な勢いで飛び込んできて、「そこはサメが出るんじゃ! 危ない! 上がれ!」と命を拾われました。

 8月の終戦三日ほど前よりいくら本部へ無線を打っても返答なし、本部からも何も打って来ない。その内、重大ニュースがあると言うので集まると、天皇の終戦の詔勅の放送があったのです。雑音ばかりで何を言われているのかさっぱり解りませんでした。その日の夕刻たくさんのトラックが国道をはさんで、ずらっと並んで動いておりました。その間を衣嚢 (衣服袋) を担いで飛行服を着たパイロットが駅の方へ帰っていくのです。これは復員という言葉をまだ知りませんでした。紫電改6がビラを撒いて飛び去りました。拾ったビラには 「戦争は続ける。帰宅する者は攻撃する」 トラックも復員兵も一斉にその場に止まりました。
 あくる日、自分の飛行機で飛び立とうとパイロットが起きた時には、プロペラが外してあった、と聞きました。

 私達の部隊にも参謀肩章をつけた、参謀本部の大佐がやってきて 「天皇の命令で終戦になった」 と告げました。やけくそ気味でありました。手榴弾も航空機機銃の7ミリ7も海に放り投げました。手榴弾が爆発すると物凄い量の魚が水面に腹を見せます。それを漁師が大変な勢いで船上へすくい上げていました。

 8月25日 解員 (航空隊勤務解かれる) される。
 その日、沢山の食料と衣嚢を背負って故郷京都へ向かいました。広島駅を通る頃は夜になっていて、駅の周囲は明かりの気配も無く、建物も無く、ずーっと向うに、かすかな明かりが2点だけあったのを覚えています。文字どうりの焼け野が原、焼け残りの瓦礫の影も無い焼け野が原・・・新型爆弾とはこの事か。その時放射能の事など全然知りません。

 大阪駅が近くなった頃、私のかじる乾パンを見ていた乗客の目が私の口元に集まるのです。ひもじいのかなあと思って大きい1斗缶に一杯詰めた乾パンを 「どうぞ」 と差し出しました。
 トロトロと眠ったようです。京都駅に着いたので目を覚まし1斗缶を見ると一杯詰まっていた乾パンが2枚しかありません。今から思うと2枚残っていたのは、その頃の日本人の良心であったのでしょう。今なら缶ごと盗まれた上、ポケットの中まで探られていたでしょう。
 京都駅を出ますとチンチン電車が停まっていました。電車を見て初めて 「ああ帰ってきたなあ。京都だ」 と実感が湧きました。電車には、女車掌が乗っていました。確か6銭だったと思います。電車代を出そうとすると、女車掌は 「結構です。要りません。ご苦労様でした。」 と言ってくれました。
 自宅へ向かうと私の家に他人が住んでいます。私の家は西近江へ疎開しており、その夜は近くにある兄嫁の里へ泊まりました。戦後暫くしてその兄も、その上の兄も、その下の兄も男五人兄弟の内三人が戦病死と分かりました。「桐の小箱に錦着て」 と言う靖国神社の歌は嘘です。荒削りの木の小箱の上に粗末なスフ (ステープルファイバー) の布が掛かっているだけ、中には骨もありません。空っぽです。

 以上、復員以後の事は、京都府立京都第二中学校第44期同窓会の同窓会誌 『鳥羽原頭に草萌えて』 第1巻 に書いた 「北斗の星・宅間英夫」に詳しく述べています。

  【宮嶋八蔵 網膜黄斑変性症にて視力障害あり ・・・口述筆記 竹田美寿恵

 ******** 3987番目の志願航空兵』 おわり***********

 
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