私の中の予科練

201412月に特定秘密保護法が施行され、20159月安全保障関連法案が成立

 という中で賛成する立場で掲載した訳ではありません。

宮嶋八藏様が、何故予科練を志願されたのか?予科練志願以前の生活、予科練の生活

 予科練体験後の生活が書かれ、溝口健二監督とのエピソードも多く語られているので

「私の中の予科練・目標と愛のある生活を」を紹介する事により、宮嶋八藏様の人生

ジグソーパズルのピースを一つ埋められたらと願ってこれを紹介させて頂きます。
                    平成28年4月20日      竹田美壽恵 


私の中の予科練 

目標と愛のある生活を

京滋美保空会の会報に投稿(京都、滋賀から美保海軍航空隊に所属した方の会)

                   昭和55年2月1日 記

13期前期 宮嶋八藏(55才)
 

     

 甲飛予科練習生の宮嶋八藏 18歳  予科練陸戦訓練 鳥取美保空大山にて

                   真ん中が宮嶋八藏  18

     同期の板垣龍君より電話をもらう。「君にとって予科練とは」という題名で原稿を書けという。締め切りは11月末だから、時間は充分にあるからと、ついホイホイと引き受けたのだが、さて、考えるほどにむずかしいテーマだ。予科練の魂について考えれば、現在(いま)に至る心境の過程を順序立てて整理せねばならず、いまや「日本人に生まれて損か得か」(加瀬英明・B,クリッシャー共著)というような図書が出ている時代と、滅私奉公の少年時代との様々な行き交いの断層を埋めて説明するためには、相当の時間的余裕と準備が必要になってくる。


 卜部君の編集した美保空13分隊の写真集を開いて、ぼんやりと見ているうちに、最近チョクチョク会っている白髪の同期生の諸兄が、それぞれ一癖あり気な様相の少年時代に逆もどりし始めてきた。予科練に入隊するまで、人様々な環境の中で別々の生活をしていたものが、同じ釜の飯を食い、同じ環境に入って、等しく滅私奉公の規律の中で死ぬため勉強をしてきた。そして、戦後はまた、それぞれに異なる職場と環境にもどって、個々人の中に予科練がどんな形で残っているかは、非常に個人的なものとならざるを得ない。テーマとは別の方向へ突っ走るかも分からないのは承知の上で、思いつくまま直進宜候(ようそろ)でお許し願うこととして、柴又の寅さんではないが、「手前中学発します所は、京都でござんす……」と恥ずかしながら、昔話から始めましょう。

 私、京都府立京都第二中学出身、いや4学年在学、人呼んで木槌の八ちゃんといわれていました。学校では他校の生徒と始終けんかをやらかすので、一応不良と呼ばれていた様子。しかし、中学2年までは模範的生徒でありました。ある日の試験の朝、

ある乙種中学の生徒にからまれ、「面を切った」と電車から引き降ろされ、それこそ

不良用語などさっぱり分からず、「面くらっている」うちに、筆記用具一切を喝あげ

されて学校に着いたときには、試験開始の鐘が鳴っていたという次第。普通人より巡りが遅いのかどうか、その鐘音を聞いた途端に、怒気が体中を駆けめぐり出した。

地階のロッカーから工作用具の木槌を取り出すと、試験も何もかも掘り出して、その

乙種中学校の正門前に居座った。試験を終えて出て来るブリかけの不良を、完膚なき

までに殴り倒したことはいうまでもないが、相手校の教師に襟首をつかまれて、

引き離されるまで殴り続けたのは、海軍へ入隊するまでに体験した攻撃精神第一歩のけんか始めでありました。当時の硬派不良は、メリケンとかいって竹刀のツバを削って

ギザをつけたのやら、自転車のチエンやらを振り回すのがいたけれど、私はもっぱら木槌を使ったので、それが「木槌の八ッちゃん」と悪名を流すもとになったのです。

 この頃、同期の黒田、板垣の両氏らは、予科練の頃の私を評して、帽子を斜めにかぶって粋がってやがったというのだが、当時の写真を見ても断じて左様なことはなく、

まして服装にやかましい海軍で、あみだ帽などできようはずがない。木槌にしても

相手方より手先が長く、しかも金槌の危険性には遠い。先制攻撃には最良と、もっぱら自分では文化的けんか人の積りでいたし、不良たちのダラシない服装の流行は私自身の美意識に反するもので、むしろ軽蔑していたのでありますから。ただ、原因は私の体型がレディメイドスタイルの平均的日本人であって、衣服に体を合わせる式の軍隊において、帽子ピッタリ、七つ釦ピッタリ、靴ピッタリであったことによるのです。

両飛曹の印象は実はヒガ目に過ぎないのです。特に、中学3年在学中に入隊した諸君には、恐らくあの軍服は、最初ダブダブあとピッタリ、末は窮屈でキッチキチという

奴であったろうと思います。今考えると、これも海軍の合理主義のしからしむるものであったといえるのではないでしょうか。

 さて、私達京都ニ中の生徒が予科練入試の動機やその周辺の学校関係については、

詩人の木島始が「春の犠牲」という小説に書いているのですが、彼は大学の教授(法政大学)になっているような秀才ですから、多少の印象の違いはあるのです。この小説の主人公は、今、武蔵野美大で教鞭をとっている美保の15期生の大森忠行君です。

 私は甲飛の第二次試験が終了すると、三重海軍航空隊のある津の海岸へ大森君と

一緒にキャンプへ出掛けました。もちろん、当時の生徒に課せられた勤労動員をサボッテであります。遠眼鏡で三重空の営庭を望むと、軍艦旗の下に蟻のような…、そして真白な事業服の練習生がうごめいている。ああ、俺もあの蟻のような集団の1人となるのだなぁ… 。しかし規律の中に動く集団は美しく、そして、遠くからの眺めは

優雅でありました。私は一瞬、不思議な感動の中に埋没したのを覚えています。

 急に「八ッちゃん!死ぬんやでぇ」と、横にいた大森君が声を上げて私の肩を抱きました。集団の動きの美しさに見ほれていた私の側で、彼はその先の人生を思って

いてくれたのでしょうか。やがて、自分も同じ美保空の後期生として、死するために

海軍へ入隊するような予測すらないままに… 。

 当然の結果として、学校では退学が待っていた。しかし、正式に予科練入隊が決まると、退学は取り消されることになる。復員して、夜間部へ復学しょうと登校した時、

籍はまた退学にもどされていた。学校側の何という変身自在さ。私が退学になっていなければ、進駐軍のとがめがあるとでもいうのだろうか。同情的な先生の1人の口ききと、私の強引な飛練以来の押しで、一応は復学したけれど。

 三重空見学事件のあと、昭和18101日に、私は美保海軍航空隊に入隊します。

セメントの香り、新しい兵舎の木のにおい、釣床・事業服の木綿のかぐわしい田舎を

思わせる風合い。開隊間もない美保空は、新しい希望と喜びに満ちていたー。

 入隊一週間後の夜。釣床訓練のあとであった。専任教員が何やらが鳴りだすと、

通路に一本の太い根棒が、音を立てて転げてきた。ご存知バッターであった。「お前達には、幾ら言っても分からないッ!分からないなら分かるようにしてやるからッ!」

バッターの時の訓示は伝承的なものだろうか。それとも、ボキャブラリーの貧困か。

この言葉だけは、飛練で出会った乙飛の教員達も変わらなかった。私は本当にあんな太い根棒で殴られれば、死んでしまうと思っていた。「脅かしだよ。あんなもので殴るもんか。俺達、子供みたいだから、ナメられているんだよ」と、私は隣の友人にささやいた。しかしバッターは本当に振られた。痛さが尻から目へ突き抜けて頭に残った。

罰直が済んで釣床へもどったとき、始めて涙が出た。親が見たら… 。

この恥ずかしさを何と思うだろうか。罰直を受ける姿に美しさはない。カッタ―訓練で尻がスリムケ、血がにじんでも、棒倒しで営庭中の雪が血に染まり、戦友が次々と病室に運ばれたときも、これほどみじめな感情にはならない。尻を突き出して、両手を上げ、腹一杯に力を入れて、痛烈な打撃に堪える準備をせねばならない。こんな姿の中に七ッ釦の誇りも、海軍のスマートさも、何もなかった。私には、ただ屈辱だけが残った。そう信じていた。

 飛練=六か月の座学と実習。長い間飛行機には乗せてもらえない。飛行作業が始まると同時に、毎夜のバッター。昼の罰直駆足。その間に、隣の分隊から甲板練習生の声が響いてくるのです。ああ、それは、懐かしい広田兼男の声だ。あいつがバッターを振っている。私も広田にバッターを振ってもらいたく思っている。バッターに対する印象は徐々に変わってきていたのでしょうか。ある日予備学生出身の中尉が、ベラに頭をはねられて即死したといううわさを聞いた。飛行場では早駆けだというのに、

テレンコと歩いていたに違いないと思う。バッターがなくては、私達も怪我をしていたに違いなかったろう。私の手の甲に残る凍傷の跡は、飛行作業の罰直で、白菊の下で前に支えをやらされた時、エンジンから落ちる潤滑油を手の甲に受けて、その滴りを涙ながらに数えていた… その名残だ。

 戦争が終わって、純粋な予科練にとって、世は一変する。デモクラシー!万歳。

でも、何も分からないデモクラシーに、なぜ万歳といわねばならなかったろう。

復員した故郷の家には、家族は疎開していなかった。親戚の家で一晩泊まる。夜、

義兄が酒を飲みながら語った。「天皇のために死ぬなんてのは、馬鹿馬鹿しいよなぁ。庶民のためというなら、筋は通るんだよ」と… 。私はその夜、義兄の家を飛び出して、東山の山麓に野宿することになってしまう。天皇陛下万歳といって送り出したのは、つい二年前の義兄だ。親戚代表として、見送りの人達に勇ましいあいさつをして、私に恥ずかしいくらいの思いをさせたのは義兄だ。

 世の中は敗戦を境にして一変してしまったのだ。走馬燈のように回る回る。周囲の思想と風潮と、そして、人間の生き方。俺達はこんなやつどものために、命を賭けて勉強してきたのか。天皇!そんなものはどうでもよい。しかし、日本のみんなのために戦うことの意義は、私達の死に甲斐であった。

 その次の年、同志社大学を受験した。学科試験なし。筆記試験は常識問題のみ。

問(1)「デモクラシーとは」私には分かる訳がない。私達のようにして、海軍生活を送った者達の中で、復員直後にデモクラシーとは何ぞやと聞かれて、正確に答え得る人が何人いたのであろうかと、今でも不思議の一つであります。入試失敗。

 その次の年、京都人文学園に入学。簡単な英語と口頭試門、質問(1)「なぜ この学園を受験しましたか」私には何も分かりません。分からないことが分からんのです。

なぜ昨日まで信じていたものが悪く、新しい勝者の意見のみが正しいのでしょうか。 正しいものは、真に何かを知りたいために、この学園に来ました。(入学許される)

学園在学中に、映画監督・溝口健二の弟子となり、京都美術専門学校で風俗史の聴講を受ける。同園卒業と共に、大映映画株式会社助監督部へ入社する。

 十八年十月に、美保空入りする直前から、二十六年に職が決まるまでの期間について、早駆けでザット申し上げました。もっとも、海軍時代の二年間の強烈な生きざまが、五十才を過ぎる現在の心に残す軌跡を語るには、与えられた字数では語り切れる訳がありません。心情や思考の移り変わりを、丁寧に語る紙数がありませんので、

飛行場での罰直早駆そのままに、汗顔りんり、すっとびながら超超早駆にて申し上げることにします。

 溝口健二監督に弟子入りした頃から、デモクラシー、自由、プラグマティズム、


人、思想等々、人並みの学生らしく、論争もするようになりましたが、成長したのか退化したのか、自分にも分からないまま、助監督とはなりました。「お遊様」「雨月物語」「近松物語」「祗園囃子」「山椒大夫」「新平家物語」「噂の女」と師匠が亡くなるまで、四番目の下っ端助監督と風俗関係担当として相つとめましたが、初めて入った撮影所は恐いところでした。大衆係という入墨モンモンの組関係のもの、監督が仕事を始めると、溝口組と表札が上って、ヤクザの世界のような気がするものです。特別注文の靴をあつらえ、そのスキー靴のような爪先で、いざけんかのときには、蹴り倒してやろうと考えて、昔美保空で習った柔道の投げの後の、「蹴りと当て」をひそかに練習したりもしたものでありました。他の職業は知らず、助監督をしていると、随分予科練の教育が役に立つものです。

 新平家物語では、一千人余りの僧兵の神輿振り行列に号令をかけ、衣服その他の

準備一切、海軍式にやって成功しています。同じく新平家物語第二部では、嵐山の先・

落合の谷間を進む源氏の夜行軍の大遠景。三千人の大大衆にいっせいに松明の灯を点じさせて、行軍させる撮影も海軍式にやりました。十人ごとにマッチを配り、行列中に助監督十名を待機させ、私はキャメラの横から、川筋の街道には十三期後期操縦の

加藤美術助手が、こちらの手旗と無線の信号を受けてくれたのです。三千人のエキストラ代は大変なものです。しかも、夕景ねらいで、チャンスは一瞬しかないのです。

見事に火が点じられて、川岸に光の行列が出現しました。京都の大文字の何倍かの火の流れが出現したと想像して下さい。これにはオマケの話がつきます。余りの見事さに、ぼう然と見ほれたキャメラ助手がスイッチをいれるタイミングを遅らせてしまったのです。手旗と無線の効用は、特に大衆撮影の場合に大きいものであったことが忘れられません。

 兵隊やくざの撮影の時、自衛隊の戦車二十台を借用して、行動打ち合わせを一晩がかりでやったあと、いざ撮影になると、思ったコースにどうしても入ってきません。私が急いで手旗でコース変更を送るのですが、受けてがないようです。二十台の戦車兵の中で、手旗を読めたのは隊長1人だったと、後で聞いて驚きました。昔、海軍では、全員が手旗を解読できたことなどを思い出したものです。

 釣り床納め○○秒、駈足、血の棒倒し、起床から飛行場整列まで○○分。昔はやった。今やれぬはずはないとよく言いますが、私にはそれはうそのように思われるのです。目的に対する誇りを持ち、相互の人間同士の信頼が、昔と同じであればやれるでしょう。戦後を振り返って、私がよりよく懸命に生きたのは、海軍のときと溝口監督に師事していたときであったような気がします。溝口監督は、明治気質の厳しい立派な師匠でありました。この人のためならば、死んでもよいと思わせる先生であります。シナリオライターの書いた溝口論は色々と出ていますけれど、語られているほど奇人でも変人でもなく、スマートで目先が利いて几帳面な、いつもズボンにも魂にも折り目のついている先生でありました。

 溝口邸にはバッターは無いけれど、心を打つ鞭がありました。仕事のない時、先生に連れられて街へ買い物に出ます。行きつけの洋品店へ寄って声をかけたが返事がなくて、奥からマージャンの音が響いてきました。私が戸惑っていると腕をつかんで言うのです。「昼間から賭け事をしている商人と付き合ってはいけない。こちらまで腐ってしまうんだ」と…  。その帰途、私達は嵐電に乗りました。私は所在なさに、読みかけの映画論を取り出したのですが、下車した途端に、「前に座っていた女性を見たかい。派手すぎる洋服に下駄ばきで、片べりしてたねぇ。何の商売だと思う。夜は何をやってんだろう。男がいるかねぇ。どんな男か、お袋や兄弟はどんな商いだと思う。

唇がやけに赤くって、ありゃ襟足にアカがたまっていそうだねぇ」と言うのです。

「ぼく、ちょっと本を読んでいたものですから、つい… 」。「ホー。立派だねぇ、感心するねぇ。そんなに本を読んで勉強するのかね。家じゃ本を読めないんだな。電車の中でも観察している暇はないんだねぇ。それじゃー演出家は無理だと思わないかねぇ」といった調子です。私が書生生活から大映の社員になったその日、来客があって、例によって応接室へ茶菓を運んだ。すると来客と話をしていた先生が、急に怖い顔をして立ち上がって、大声で奥様を呼んだ。「宮嶋君は今日から会社の人ですよ。(私に)貴方、お茶なんど運ぶことはありません!監督の勉強があるのです」。

 二日酔いで倒れたとき、自分の部屋に床をとって、新聞紙を引いた洗面器を自分で運んでくれた先生。愛情をもって人に接し、鞭撻するところに、皮肉も苛虐もあり得ないのでしょう。そこに、信頼が生まれ育っていくと思えるのです。それは、死を賭けてまで尽くす、人間の尊厳へ迫る端緒といえるでしょう。五十年の人生の中で、私は幸いにして二度目の海軍を味わったと思っています。私はあの屈辱的なバッターの中にも、強烈な愛情を感じ得たればこそ、海軍の集いがあり得るのだと思っています。かわいそうに、今の若者達は目指す大きな目的と愛の中の暮しを忘れています。

溝口監督亡き私にとって、今一度飛翔するための手掛かりは、大きな愛のある人物との出会いだと思っています。三度目の航空隊への入隊こそ、私の中に生き続ける

予科練魂の最後の絶叫として、世を去りたいと願っているのです。