団子串刺し式ですが

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                                          1995(平成7)年6月3日刊行
               京都府立京都市第2中学校44回生記録に寄稿


   著者  宮嶋 八蔵
   紹介   竹田 美壽恵
   HP   勝  成忠

目次
(当時HP担当だった高橋恒雄様が読みやすく文章中に見出しを付け加えました)
1.昭和20年に復員して
2.溝口健二監督邸での書生生活
3.私がついた監督たち
4.映画製作の現場風景
5.映画製作現場の女性たち
6.映画監督の印象
7.溝口監督の死去とその後の映画界
8.助監督の終り
9.映画「祗園祭」に誘われる                                                             

Part. 1  昭和二十年に復員して

 脚本では、構成なしに順序を追って語るのを、団子串刺し式のシナリオというのですが、その串刺し式スタイルで・・・復員から、みなさんの余りご存じない書生生活、映画界に入ってからの生活を書いてみたいと思います。

 私の生きてきた軌跡をざっと履歴風に紹介しますと、昭和二十年九月、九州ー宮崎の特殊潜航艇の基地に所属する偵察飛行部より復員しました。そして、先に京都第二中学校を退学して消防署に勤務していた友人の山田喜一君に誘われて、懐かしく・・・恨みも残る府立京都第二中学校に復学します。
 京都第二中学校の表庭園に住んでいた龍華校長を威かし、デマ(歴史)先生の口利きもあり夜間部に復学したのです。当時は「予科練崩れ」とマスコミも煽り、昨日に代わる世間の対応・・・。正直、我々も荒んだ心境ではありました。
 学校へは、飛行服の上着を着けて、半長靴を穿いて通うのです。帽子は同級の福永祐三君に貰いました。
 教科書を持っていないで、手にはノート1冊だけ。隣の生徒の教科書を覗き見するのです。昼間部の先生と違うので、知り合いはいません。漢文の教師等は怖がって私と目を合わすのを避けて、そっぽを向いて講義をしていました。歴史の時間はなかったと思います。こんな状況では勉強出来る訳もなく、退学届けも出さずに一ヶ月で辞めてしまいました。幸い甲種予科飛練卒業生には旧制中学(新制高校)卒業資格はあったのです。

 さて、甲斐庄楠音先生 (日本画家、映画風俗考証家) の紹介により溝口健二映画監督邸での書生生活は、昼は学校、夜は名の通りの用心棒です。終戦当時のドサクサには、物もなく、心も荒び、押し込みや強盗が横行していた時代。
 たまには、先生宅の子供の家庭教師も勤めました。姉は中学一年生、妹は小学校の下級生でしたから、私にも教えられたのでしょう。

 そんな或る日の晩、算術が算数と呼びかえられた頃のことです。
 「この答えは間違いです。(式を見せて説明して) これ・・・代数で解いても答えは合わないですよ」・・・・・・
奥さん 「そうでも・・・この頃は違うでしょう!学校での教え方が変わったんじゃない・・・」

 その時、階段を踏み下りる大きな足音がすると、雷のような大声が降ってきたのです。・・・それは二階で読書中の溝口健二先生でした。

先生 「(奥さんに) きみィ・・・宮嶋くんは・・・先生ですよ。この人は今は書生じゃありません!算術を解いて二つの答えが出る訳か゜ありません!・・・先生にものを教わるのに・・・無礼じゃありませんかッ」
   (私は恐縮して、声が出ない)

先生 「お詫びして勉強するか、勉強を止めるかです・・・」

 こんな事があったけれど、このお嬢ちゃんが、今では京都大学教授夫人として、立派なお子さんの親になっておられるのです。
 これに似た逆の私の失敗は、「新平家物語」 清盛編で風俗考証資料の冊子を作ったときに当たります。(助監督として大映入社のあとですが) 林屋辰三郎先生のご自宅へ時代考証を教わりに伺った時のことでした。

 「この際、何でも聞いておきなさいよ、分からない事は全部お尋ねして、教わって下さいよ」 という溝口監督の言葉を真に受けて、

 「当時の唐からの貿易品は何があったのでしょうか?貿易商の赤鼻の伴木邸でのセットの飾りに要るのです」
 その時、ノートを取る私の手を監督が叩くのです。質問を続けようとすると、今度は腕を引張ります。
 「(書くなという事か? 質問を続けるなという事か?)
 その質問を外して、何とか訪問の目的を果して林屋邸を出た時、ほっとし乍ら監督を見ると監督の右肩が上っているのです。右肩が上るのは、気難しい時の溝口先生の癖なのです。
監督 「・・・君は失礼ですよ!先生にものを教わる礼儀を知らないのですか・・・。どの本をどれだけ調べましたか?調べた上で教えを請うのが・・・教わる者の礼儀です!」
 正にその通りです。私は教わり方を教わったのです。

 その前・・・書生の頃に戻ります。昭和二十二、三年は、まだまだ物資も欠乏していて、闇屋が繁盛している時代です。寺町にサニーという洋品屋があって、進駐軍の品物の横流しの商品等を扱っていて (そんな
所でないと真っ当なものは買えません
)、私もよく使いにやらされたものでした。この時は、先生と一緒でした。店先で・・・
 「サニーさん・・・サニーさん!」と呼び続けるのですが一向に返事もなく奥からは、麻雀のパイを掻き混ぜる音がするだけです。
先生 「帰ろう!」
 先生に腕を抱えられて、引き出されました。帰宅して直ぐにサニーさんを電話に呼び出して・・・

先生 「商売人が昼間っから麻雀していて良いのですかッ。貴方は腐っています。腐った人間と付きあうと、こちらも腐ります。家へは今後出入りしないで下さいッ!」

 仕事に懸命でない人間と付きあうな、こちらが腐る・・・これは事実です。

Part. 2  溝口健二監督邸での書生生活

 溝口監督は真面目で仕事熱心なスタッフを怒鳴ったことはありません。俳優も一生懸命に取り組む人には親切に指導しました。スターも仕出し (その他大勢=大部屋) も分け隔てせずスターと同様に何回も演技テストをされました。つまらぬ監督はスターにおべんちゃらを使うのです。溝口監督が大部屋の俳優さんの尊敬を集めていた所以です。
 私も助監督として随分失敗もしたのですが、必死に仕事には食い下がっていたので溝口監督に叱られた思い出はありません。
 溝口先生が仕事の合間・・・在宅の時には書生の私は通いになります。夜、私が御室の溝口邸から帰宅する時・・・

先生 「今日は、きみ・・・どちらから帰る?」
 「嵐電(京福電鉄)で北野回りで帰ります」
先生 「北野には、五番町(遊郭)があったねぇ」
・・・と財布から札を出してくださる。
 「・・・・・・・・?」
先生 「ちょっと安っぽいけれど、別嬪も居るだろう・・・・・・」
 「・・・・・・(五番町遊郭で遊んでこいという事か?)
先生 「これ・・・・・・持って帰りなさい」

と紙にくるんだ物も下さる。
 帰りがけに開いてみると (今は生まない今度産むコンドーム) が入っていたのです。性病の予防具まで何と親切な・・・海軍の頃、外出札と性病予防のゼリーとサックを掌にのせて外出点検を受けたのをふと思い出してしまいました。
 あくる日、先生と顔を合わせました。こんな時は何となく面映ゆいものです。

先生 「・・・どうでしたか? 楽しかったかね・・・観察しましたか」
   (娼婦を観察して勉強になったかと言うのです)
 「ありゃ!しくじった・・・観察を忘れてた」

 婦人科の監督は全ての女性の心の奥底に潜む娼婦性の表現を掴むべしと教わったのでした。
 思い出して下さい。この頃は又酷い食糧難の時代で、街中の空地はどこも芋や野菜が栽培されて、御所の御苑にまで畑があった時代です。溝口邸の裏庭も畑にしていました。
 私もやったことのない百姓仕事で臭い堆肥も撒かねばなりません。鼻をつまみ乍らぐぢぐぢしている所へ先生が来ました。作業ズボンの裾をたくし上げて、生ゴミ溜の壷に足を突っ込んで肥料を撒き始めたのです。これでは私もじっとしては居られません。手本を見せられたのですから、気合を入れ直して堆肥撒きに精出しました。溝口先生の微笑を背中に感じながら、「言うて聞かせて、して見せて、褒めてやらねば人は動かぬ」 という山本五十六の格言を思い出していました。
 溝口先生には褒め言葉はなく、先生自身の行動の表現に優しい愛情も労わりもあったのです。

 溝口邸では、スターの訪問があっても玄関払いになっていました。仕事の打ち合わせは撮影所か別の旅館に限っていました。応接間にも通しません。それは監督と俳優の仕事の役割 (けじめ) を考えて、私的な交際を避けておられたのだと後で判りました。ずっとコンビで仕事をして来た田中絹代さんが訪問の時も先生は在宅でしたが、私が玄関で帰って戴いたのを記憶しています。

 洗濯機、冷蔵庫、テレビはまだでしたが、このような電気製品が三種の神器と言われていた頃でした。電気会社のコマーシャルに出ていたスター女優 (サンヨー夫人) からの贈り物が届きましたが、直ちに返送させられたのも覚えています。
 そんな或る日、出入りの小間物屋の小僧さんが御用聞きに来ました。先生は応接間へ上げてお茶とお菓子もね・・・と言います。
 モジモジと恐縮の体の小僧さんの前へ先生が来て、

先生 「お菓子を食べて下さいよ・・・遠慮しなくてよいのですよ・・・」
小僧さん 「・・・・・・・・・・」
先生 「どうですか、この頃・・・忙しいですか? 故郷は何処です。・・・若狭ねえ」
小僧さん 「・・・・・・私・・・・・帰りませんと・・・・・・」
先生 「お店の方は私から電話してことわっておきます・・・10分位はよいでしょう・・・京都には親戚はありますか」
小僧さん 「中京区の方に姉が嫁に来ています」
先生 「お姉さんのお家へはチョクチョク行くのでしょう・・・」
小僧さん 「姉も忙しく、何か迷惑のようなのでゆっくり話もしてくれませんし・・・」

 小僧さんが帰った後・・・先生の大学ノートのメモ書きに大きな字体で (女は嫁に行くと他人になるなり!) と書いてありました。
 先生の暇な時には、北野市場へ買い物のお供をしたり一緒に古道具屋や古本屋を覗いたりします。
 そんな日の食事は先生の手料理を戴きます。食事は書生も女中も家族と隔てなく、直か箸で取ります。私たちの家庭では食事をする場所も食事の内容も、使用人とは違うのが普通でしたし、家族の間といえどもすき焼き以外には直か箸など使った覚えはありません。これはフランクというのか、だらしないというのかと迷ったのですが、使用人も家族もみな平等にという先生の思いがあったのでしょう。
 こんな街行きの後、嵐電で御室の溝口邸への帰りでした。私と先生の座っている前に若い女の人が居たのですが、私は気付かずにずっと本を読んでいました。電車を降りて直ぐの時・・・

先生 「・・・前に不思議な女が座っていましたねぇ」
 「・・・・・・?」
先生 「スーツが野暮ったいねぇ・・・田舎出かねぇ・・・下駄が片減りしていたよ」
 「・・・(判らない、女がいたのも・・・・?)」
先生 「襟足に垢が溜まっていそうじゃないか・・・・公衆便所の臭いがするような五番町あたりの赤提灯の娘っこだろう・・・・・・」
 「わたくし・・・本を読んでいましたのでつい・・・見ていませんでした・・・」
先生 「ほう・・・立派だねぇ・・・電車の中でまで勉強して・・・家で本読む時間もないのかな・・・それでは監督に向かないねぇ」
 「・・・・・いえ・・・・・あの・・・・・・」
先生 「あの娘っこは、きっと片http://tsune.air-nifty.com/miyajima/親だよ・・・売られたのじゃないようだけど・・・悲しい生活の歴史を背負ってきてるんだろう・・・」
 「・・・・・(観察だ!)・・・・・」
先生 「町中で本を読むのは勿体ないよね・・・・・」

 その後、先生に観察せよと注意された話は女優の弟子筋に当たる浦辺粂子さんからも、兄弟子の成沢昌成さん、女性監督第一号の坂根田鶴子さんからも、色々と聞かせて戴きました。
 大映撮影所に入社してからのことでした。
 「山椒太夫」の準備の時でしたか、溝口組のスタッフルームは二階の監督室を借りていました。何時ものように溝口組のこの部屋は風俗資料で図書館のようなたたずまいです。その本の間から外を眺めていた溝口先生が急に・・・・・

先生 「八っちゃん・・・あの八百屋の荷車・・・よけてください。目障りです。」

 私が覗きこむと、それは女優の若尾文子さんの自動車でした。大根役者が乗っているので八百屋の荷車と皮肉ったのです。若尾文子さんは、決して大根役者ではありません。デビューの頃の「祇園ばやし」(溝口組)では立派な芝居を見せていましたし、監督も十分にその演技力は知っていられたのです。

先生 「ついでにあの娘を呼んでらっしゃい・・・・」

 若尾文子さん来ました。

若尾 「先生・・・何でございましょう・・・」
先生 「・・・君・・・立派になったねぇ・・・スターは車に乗らないと格が下がるのですかねぇ・・・・」
若尾 「・・・・・?・・・・・」
先生 「勉強は卒業しましたか・・・・・」
若尾 「・・・・・・・・」
先生 「自家用車で走っていて、外が見えますか、人間が観察出来ますか、出会う人がないのに人生を教えて戴けますか!立派ですねぇ、これからの私の仕事には勿体ない・・・私もスタッフも人間観察の卒業はないと思っているのですけれどねぇ・・・・・」

 若尾文子さんの顔が真っ赤になって、涙が落ちました。
 その後、「赤線地帯」の撮影の際には若尾さんはコッテリ絞られたと増村保造さんから聞きました。注意は皮肉一杯に言うのですが、本当は若尾文子さんを愛していられるのです。完全に駄目な人間には、はっきりと 「きみはオカラです・・・活動屋を止めなさい! 」と言われるのです。後は口も利いてもらえません。

Part.  私がついた監督たち

 さて、昭和26年に大映に正式に助監督として採用されますと、私ももう溝口監督の作品ばっかりについている訳にはいきません。色々な監督につきました。チーフ助手としても夫々に変わった監督にもつきました。
 大映退社まで。昭和26年~43年まで大体99本の作品の助監督をこなしています。

溝口健二監督
  「西鶴一代女」・・・・・〔お春の一生〕
  「お遊さま」
  「雨月物語」
  「祇園ばやし」
  「山椒太夫」
  「噂の女」
  「近松物語」
  「新平家物語 第一部 清盛編」
  「大阪物語」(準備)・・・溝口先生死去により組を降りる。
新藤兼人監督
  「第一作品 愛妻物語」
久松静児監督
  「妖精は花の匂いがする」
吉村公三郎監督
  「西陣の姉妹」
  「千羽鶴」
市川  昆監督
  「ぼんち」
  「破戒」
衣笠貞之助監督 
  「大仏開眼」
  「鳴門秘帳」
  「鉄火奉行」
  「新平家物語」 第二部 義伴編」
島  耕二監督
  「残菊物語」
  「新平家物語 第三部 義経編」
森  一生監督
  「朱雀門」
  「忠直卿行状記」
  「鉄砲物語」
木村恵吾監督
  「千姫」
  「歌麿をめぐる五人の女」
   ・・・・・その外・・・「狸もの歌劇」
増村保造監督
  「好色一代男」
  「刺青」
  「華岡青州の妻」 
安田公義監督
  「千代田城炎上」 ・・・この監督にはチーフとしてプログラム映画、「座頭市」・「悪名」など、沢山ついている
田中徳三監督
  「疵千両」

 その他にぱ、加戸敏監督、田中重雄監督、安達伸生監督につく。・・・・

伊藤大輔監督
  「祇園祭」
 劇映画最後の「祇園祭」は、京都府の制作で色々な問題を含んだものですから後に詳述しましょう。
 ざっと助監督生活の職歴抄のようなものを紹介しましたが、これがまぁ私の従事した大作です。
 撮影段取りを主体とするチーフの仕事と、風俗考証とその調節をするセカンド助監督、サード助監督の担当も兼任するハメになったのは溝口監督の弟子という印象からでしたのでしょうか・・・普通のチーフの倍は仕事をしていました。「新平家物語」では、考証の小冊子を制作の一員として吉川英治先生に誉めて戴いた思い出や、チーフ兼任の「千代田城炎上」で従来の歌舞伎や時代劇映画の慣習をはなれて、実証的な大奥の風俗再現をやった時の誇らしい感情、「朱雀門」、「残菊物語」、「忠直卿行状記」、「華岡青州の妻」、「破戒」など・・・・。映画は平安朝から江戸時代の三期、明治の三期、大正~昭和の変動期と全て芝居に合わせて溝口組の流儀を曲げずに考証をやって来ました。現場のスタッフは、大体に喜んでくれるのですが、制作部は安く上げるだけが使命だと思っているのです。余程作品主義の強い巨匠でなければ、儲けだけを考える会社との駆引きはできません。会社やスターにおべっかを使う監督についた助監督は浮いてしまうのです。監督の性格・・・思想によって溝口監督流は通用しなくなってしまいます。
 溝口式は、人間探索のテーマ追及を理詰めに追い求めるリアリズムにあります。その為には考証は欠かせませんし、又スター等は不必要になります。俳優はテーマ追及を表現する人間素材に過ぎないのですからスターも大部屋の俳優も同じなのです。
 私も大映入社の際には、「女優には手を出さないこと・・・役者は監督という絵描きにとっては絵の具です!!絵の具をなめるような事があれば直ぐに会社を辞めてもらいます」と溝口監督に約束させられました。後に市川雷蔵に依頼された脚本も書き、雷蔵プロダクション設立の企画無料で草案も書いたのですが、個人的な交際はありませんでした。(役者はスターになると、その取巻き連中の俳優や裏方・・・監督までも含めたグループをつくるものです)

Part. 4  映画製作の現場風景

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「新平家物語」のロケーション。溝口健二の横でマイクを持って監督の意志を伝えている宮嶋八蔵助監督。 正面黒いシャツの人は土居茂助監督。

 一概に監督と言いますが、色々と驚くような人がいるのです。自前の資料を一冊も持たずにスタッフルーム入りする大監督もあれば、たまたま薦めた「若親分出獄」という映画に必要な図書「病理集団の構造」〔三千五百円〕の資料を「高い本を買わせやがって・・・」、と言い捲って企画部員の笑い者になる監督もいるのです。島原遊郭のシナリオにある「禿」をカムロと読めず「ハゲ」と読んだ監督、「鬱金の布」〔ウコンの布〕を「ウッキンとは何や!」と怒鳴った監督、ひどいのになると自分の撮影した編集試写を見て 「ああ、こう繋がるのか・・・」と言った監督もいるのです。こうなると監督というより掛け声だけの「ヨーイ・ハイ」屋さんです。カット繋ぎの技巧だけのカット督は沢山いました。詩人で法政大学教授だった同窓生の木島始君が「大学なんて当てに出来んよ」と言うてくれていたのが判ります。
 「雨月物語」、「祇園ばやし」は四番目の助監督としてつきました。

 昭和二十九年・・・・・・「山椒太夫」の本読みの時、私は、安田監督のチーフ助監督についていたのですから、溝口組本読み立会いとの掛け持ちです。「売れっ子のスター並みだねぇ台本二本持ちか」と冷やかされながら初めての本読みに立ち会いました。脚本は何時もの依田さんのものでなく、監督がカンヌの映画祭に出向中に書かれていた八尋不二さんのものです。
 大作の本読みは社長、所長、企画者、監督、チーフ助監督、脚本家が立ち会います。(制作本読みには主役、主な脇役、監督、助監督、キャメラマン、その他裏方責任者の立会いとなっています)
 この日は社長、脚本家立会いの本読みでしたこの段階では未定稿の準備本読みですので、助監督は内弟子である私一人が参加していました。企画者が脚本を読んでいる間、溝口監督は腕組みの姿勢で目をつぶって聞いていました。
 私は撮影準備の為に脚本の内容に従っての参考資料図書のメモ、風俗専門家の選択、大学の専門教授に教わる事などを整理しながらノートするのです。目を閉じたままの溝口先生の手が私のノートする手の甲をパシッと叩きます。見上げると監督はじっと目を閉じたままでしたので、ノートを続けると今度は私の腕をグイッと引張るのです。これは「メモするな!」ということだろうか?
 本読みが済んで企画者から監督に渡された脚本は溝口監督の手で向きを変えられてシナリオ作家の前に送り返されました。

溝口監督 「(脚本家に) 御労さまでした。大変だったでしょう・・・人間を描くのは難しいですねぇ・・・・・・この脚本には生きた人間は一人も出てきませんねぇ・・・・・・」

 そう言うと途端に監督の姿は消えていたのです。
 この脚本家は鳴滝組という作家集団の大物だったので随分我慢して最後まで聞いておられたのでしょう。あくる日にはコンビの脚本家・・・依田義賢さんが呼び出されていました。

 「山椒太夫」は私の助監督三年目についた作品です。この作品で初めて特報 (制作の準備関係を報道する宣伝予告編) の監督をしました。会議室にセッティングをして、溝口監督、美術の伊藤喜朔、田中絹代、香川京子、花柳喜章さんに動きを指定して監督のヨーイ・ハイをかけるのです。テストは五回やりました。溝口監督の動きと絹代さんの動きのダメを出して注文したのです。移動撮影でしたが本番の六回目はキャメラのNGで、七回目・・・季節は真冬の二月だというのに緊張して汗が額を滴り落ちました。そして七回目にやっとOKを出しました。普通は助監督は監督を撮影する場合にはぶっつけ本番・・・良くても悪くてもOKにするのに 「何とお前は心臓の強い阿呆かいな!」と笑われました。
 汗を拭いながら部屋外の廊下を行く時に後ろから、かっ、こっと不揃いな足音がすると、急に両肩を抱きすくめられたのです。不揃いな足音は子供の頃に小児マヒを患った溝口先生の特異な歩き方だったのです。振り仰いだ所に近く溝口先生の顔がありました。

 先生 「・・・・今の事を忘れてはいけませんよ・・・・自分の気の済むまで・・・・納得できるまでテストはするのです!」

 汗はすっとんで、もう止まらない涙が滂沱と滴り落ちていたのでした。

 溝口組につくと強烈に緊張します。その余り、完成試写の時にはゲッソリと頬がこけて痩せ細るのですが、次の他の監督の仕事では目方も元に戻ります。こうした溝口流が身についてしまっているのですから、映画「累ケ淵」の予告編では先代雁治郎の指先から血の滴るアップ・カットの別撮りで四十回のテストを繰り返して雁治郎さんから、「なんと・・・・やっぱり溝口先生の弟子やねぇ、ねばりが立派や・・・・」と誉められたのか呆れられたのか、異様な感心をしてもらったことを覚えています。

 「雨月物語」では、復員直後、陶器会社の義兄の工場で轆轤や絵付けの職人をやっていたのが役に立ちました。森雅之の轆轤さばきの作品は私が先に作ったものです。登り窯の焼きの指導も役の労働する時の風俗小道具の考証も私がやりました。落武者がこの窯の陶器を見て「何だ!瀬戸物か!」と叫んで陶器を打ち壊す件りの台詞は 「陶物(すえもの) か!」が時代的には正しいのですが、脚本のまま瀬戸物と喋らせたのは失敗でした。脚本上のミスも助監督が発見するのが溝口組スタッフの責任でしたから・・・・・・。

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  「雨月物語」宮嶋八蔵が陶器に絵付けをしている写真〔1947年4月極東画報所載〕、

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  雨月物語 森雅之が轆轤で挽いている器は宮嶋八蔵が吹替えのため先に作っておいたもの。

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 「雨月物語」 撮影現場の状況

【「雨月物語」 スティール写真】

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【「雨月物語」 スティール写真】

 「若狭」の顔のメイクは金剛流の能面を見本にしています。詳しくは今後、溝口監督作品を一つ一つ振り返る予定ですので、その時に解説します。

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【「雨月物語」 スティール写真。 右=水戸光子 左=小澤 栄】

 企業としては当然かも判りませんが、メロドラマやプログラム作りの凡庸早撮り監督が大きな顔で威張っています。所長がまた御機嫌とリにスタッフルームへ来るのです。溝口監督は創作関係者以外はスタッフルームへは入れません。「用件があれば所長室へ呼び出して下さい。所長は一番偉いのでしょう」と断ります。それでも所用でスタッフの仕事部屋へ来た時は急に私達の呼び方が変わるのです。私は何時も「八っちゃん」と呼ばれていました。小道具の親父さんは「竹やん」です。チーフ助監督は「徳さん」ですが、実に丁寧に「宮嶋さん」、「中島さん」、「田中さん」と急変します。創作グループ以外の金勘定野郎にスタッフをなめられてなるものかと構えてしまわれたのでしょう。映画創作はグループの信頼と結束から作られるのです。

 溝口先生が昭和二十八年ヴェニス国際映画祭で銀獅子賞をとって帰国された際には、スタッフへの大きな土産物包みを抱えて戻られました。この賞は創作関係者全部のものだというのでスタッフの個性を考えて、一人ひとりに夫々違った贈り物を購入してこられたのです。「地獄門」でグランプリをとったK監督の土産は東京のアメ横で一括購入されたボールペンでありました。

 撮影が夜間になりますと、スタッフはバス送り、監督は会社の普通車送りになりますのでキャメラマンや照明技師、助監督の私もそれに便乗して帰るのですが、溝口先生は降りた後も玄関口に佇んでいます。その車が消えるまで頭を下げて見送って下さっていた姿を忘れる事が出来ないのです。

 昭和二十九年 「噂の女」は島原遊郭の話です。私はサード助監督を務めました。役者は遊郭の中に宿をとり、主要なスタッフは朝早くから郭内のハンチングに通います。美術部は角屋や輪違屋の建築・室内装飾などを、助監督は朝から真夜中までの仕出し(通行人、物売り等)の写真をとります。太夫・天神・鹿恋・白人・禿の生態の調査(持道具・衣装・髪型・生活プロセスーー食べ物・等々)、私物の手箱まで開けて見せてもらいます。朝帰りの衣装があり、夜に持参する小箱の中には桜紙と一緒にルーデサックがありました。(売春禁止法成立は昭和三十一年)
 太夫道中に穿く下駄は、大変な重さで支那の纏足と同じく性器を鍛錬する為に考案されたのだという様なことも判るのです。
 綿密な調査も終り、結髪・美粧・小道具・衣装・美術部とも連絡を終了してセットインとなります。
 階下は、まるごと輪違屋風なものを一杯のセットに組んでありました。玄関から順に撮影していって、二週間後には奥の娘の離れが残ったのですが、そこは手付かずですので塵が五ミリばかりも積もっています。掃除をセット係の大道具さんに任せて外へ出たのですが溝口監督の姿が見当たりません。キャメラマンも捜しているので、仕方なく、もう一度セットへ戻りますと濛々の埃の中で咳きこむ声が聞こえるのです。声の主は、監督椅子に腕組みしたまま粛然と動かぬ溝口監督でした。

 「先生・・・・埃が!出てください」
監督 「スタッフの一人がこの中で仕事しているのに・・・・監督が出られますかッ!」

 私は感動して監督の横に佇んでいました。
 私の出てくるのが遅いので宮川カメラマンもやって来ました。その事を話すとキャメラマンの目に涙が光りました。
  そして宮川さんも監督椅子の横に腰を据えたのです。

 同じく昭和二十九年の 「祇園ばやし」。本格的に若尾文子がスターになった映画で、祇園スケッチという様な溝口組としては実に軽い作品でした。この作品からセットに監督専用の尿瓶を持ちこむようになりました。尿意の度にセットを離れて気分を殺がれるのが嫌だったのでしょう。私の下に溝口系の外弟子鍋井君という助監督がついていたのですが、彼には尿瓶を持たせた事はありません。内弟子でもないのに尿瓶を運ぶのは嫌だろうと思ったのと、私は女中にも奥さんにもさせない先生の身の回りの一切に慣れていたからです。
 木暮美千代さんが置屋のおかみで、そこの舞妓が若尾文子さんです。その日はちょうど木暮さんの出番で、私がセットで尿瓶を運んでいた時、木暮さんの付人の大部屋女優がこちらを指差して嘲笑したのです。ついカッとして・・・気がついた時には私はその付人女優をぶん殴っていました。
 「女優の商売道具である顔を殴った」というので、俳優部屋で問題になって俳優幹事から呼び出されたのです。「人間心情を探求する監督候補生の感情を逆撫でしたのは・・・どうするか!」とやり返しているうちに木暮さんから、「私の男の弟子は生理の物まで買いに行ってくれます。笑ったのはこの娘が悪い」と、詫びが入って一件は落着しました。

 新藤兼人さんのドキュメント「溝口健二」は実に細かく関係者を訪ねたものですが、真実を知らない乙羽信子 (乙羽さんは「お遊さま」のみの出演でその時は未だ尿瓶は使っていない)に尿瓶の件を語らせて残ってもいない尿瓶の映像を挿入しているのは、先生の言葉で言えば「鼻ったれ小僧くさいねぇ」になりましょう。人生無常を言いたいのでしょうか・・・まだその家族も弟子も生きて居ますのに、先生の墓標に枯れ花を供えて写しているのです。溝口健二の弟子だと自称している人が出来ることでしょうか。真の弟子なら出来ない筈です。
 最後の助監督安東元久君の言葉が「ある映画監督」(岩波新書)の終りに出てきますが、「安東元久君は一本の溝口作品の鞄持ちすらやったことはありません。最後の弟子は小林政雄君です。彼は会社の助監督籍はなかったのですが、三本は確実に先生の作品についていますし、病室で先生最後の口述遺書の筆記をしているのです。安藤君は半官半民の映画の配給会社に就職していたので、近代映画協会の新藤兼人さんも安東からの仕事の注文が欲しいのか、商売気を出したのでしょう。 本当の弟子が出てくると困るのです。 新藤兼人さんの「ある映画監督の生涯」は意識的に誘導質問をして答えを引き出したと思われる箇所がたくさんみられます。 例えば新藤さんが質問した言葉に答えている俳優さんの場面では、自分の誘導質問は編集で消してしまっています。 奇人、変人、偏人、ゴテ健・・・というような印象を訴えようとして、売らんかなという卑しい根性が見られます。批評家の津村秀夫さんもそうです。他の研究者も新藤さんの作品に引きずられています。一番正しいのはシナリオ作家の依田義賢さんのものだけです。
 かって新藤兼人さんが「愛妻物語」で世話になられたことのある大映の企画者が、脳病で亡くなられたのを素材にして、新藤兼人さんの近代映画協会では御遺族の意思にお構いなく茶化したドラマをつくりました。新藤兼人さんには真のヒューマニズムは無いと思われます。筆も立ち、映像創作の感覚も立派でしょうが芸術家の魂としては如何なものでしょうか!
 人間は嫌いだけど新藤兼人さんの「シナリオ作法」には随分勉強させて戴きました。

 同じく昭和二十九年の 「近松物語」は下座音楽やツケ音なども使って歌舞伎風で近松門左衛門の作品らしいのですが、それは題名とスタイルだけの事でして、中身の心は西鶴です。
 
Mizoguchi

 溝口監督と長谷川一夫との初対面  勝負前の静けさか!
 主役の長谷川一夫さんは天下の二枚目と自他共に認めているのを溝口流に料理されるのですから大変でした。宣伝の普通写真もぷいと両方がそっぼを向いたのが残っています。
 準備は元禄時代・・・経済史の研究から始まりました。俳優本読みの監督の第一声は・・・・
 「長谷川君・・・この作品には長谷川一夫は要らんのですッ・・・。茂兵衛です。茂兵衛が要るのです。茂兵衛になって下さい・・・」
 たしかに溝口組には綺麗なスターは要らんのです。スターでなく茂兵衛という人間の創造が必要なのです。
 扮装テストの数日前でした。長谷川さんに届けろと監督から預かったのは浮世絵五枚。それを見て長谷川さんが大きな目を剥きました。

長谷川 「八っちゃん・・・・これなんェ! 写楽やないの・・・・」
 「そうです。写楽の役者絵ですけど・・・・」

 両手を開いて踏張って、どんぐりまなこのヒンガラ目をした大首絵です。

長谷川 「・・・これ役者の悪いとこばっかり誇張して書いた人やろう・・・」
 「先生が参考に渡してこいって・・・」
長谷川 「・・・八っちゃん・・・先生、わてにどうせい言わはんにゃろ・・・・・」 と頭を抱える。

 シナリオの構成にも似て、先ず最初に驚かして叩いて入る。溝口先生の演出術だと私には判っていました。
 茂兵衛は経師職人ですから仕事着の袖なども糊の汚しをせねばなりません。髪型も元禄は何時もの時代劇とは違います。屏風絵や絵巻物から、又関取の写真なども見せて徹底的なリアリズムなので、汚しの衣裳や自分向きの髷以外は着けた事の無い長谷川さんは参ったに違いありません。何とかそれを屈服させられたのは監督の風格と頑として譲らない芸術家の信念の所為だと思います。
 この作品には深い思い出があります。茂兵衛がおさんと小舟の中で心中しようと決意するところ、初めて茂兵衛が恋心をおさんに打ち明けて抱き合うのですが、セットの水面には波もなく抱き合っても船は揺れないのです、アングルの外から私が船を揺らそうとすると監督が静止します。

監督 「(俳優に) 君ッ・・・茂兵衛ですよッ。形芝居しちゃあ駄目です!反射していますか! 気持ちが・・・・爆発するんだよ! 胸が突き当たるんだ!」

NG・本番・・・・そして二人は狂気のようにぶつかり抱き合ったまま舟底に転げる。OKとなる。当然船は抱き合いと転倒の衝撃で強烈に揺れていました。

  「朱雀門」 森組の時、予告編の最終撮影でこの日に撮らなければ間に合いません。市川雷蔵と山本富士子のラブシーンを本編の直前に撮って現像所送りに出さないといけません。この時溝口先生の先の演出方法をそのまま使いました。森監督が演出する直前に、こちらの方が芝居に注文をつけて撮影するのです。慣れた役者は、感情をのせたように見せ掛けて慣習的に身についた形芝居で誤魔化すのです。心から役に没入しないのです。私も溝口先生の弟子ですから演技に容赦はいたしません。予告編のワンカットといえど懸命です。役者と本編監督と両者相手の勝負です。何回ものテストの後にやっと本番・・・OKを出しました。
 すると本編キャメラの横から声がかかりました・・・森監督です。
森監督 「本編予告編のまんま・・・・・ヨーイ・・・・スタート!」
 まんまというのはそのままという撮影所用語なのです。驚いたのは私だけでなく俳優もスタッフも皆です。監督も自負心がありますから、助監督の演出をそのままに戴くようなことは絶対にありません。そのまま、ぶっつけ本番で直ぐにOKになりました。
 キャメラの宮川さんが微笑みながら私の肩をポンと叩いてくれました。けれど、監督に後で嫌味の一つも言われるゾと覚悟はしていたのですが、何もありません。その日の夜、森監督からの呼び出しがありました。

森監督 「さすが・・・溝口さんの弟子だねぇ・・・男女の絡みは・・・うまいもんだ。俺には、ああはいかん」

と誉められて一杯ご馳走になりました。森監督は溝口先生を尊敬しておられたので許してくれたのかも判りません。

 昭和三十年の 「楊貴妃」 は東京作品でつけませんでした。この「楊貴妃」は元々上海のランランショウから三度も溝口先生へ撮影依頼があったのですが、その度に「日本人が日本の事も充分に勉強できてないのに、外国のドラマが撮れますか。」と断って来られていたのです。 永田社長が外遊の折に勝手に引き受けてしまったのです。 溝口先生はしかたなく引き受ける破目になったのです。 「新平家物語」は、溝口・・・清盛編 衣笠・・・義仲編 島・・・義経編と三本ぶっつけに助監督を務めましたむ。これは風俗考証担当を溝口組で務めた関係であったろうと思います。
 回を重ねるほど作品の質が落ちて義仲編になるとテーマもメロメロの大駄作で、衣裳風俗等も監督好みの派手派手になってひどいものでした。「ああ驚いた驚いた。なぜこの大作に客が来ない」という永田ラッパ社長流の新聞広告が出ました。大道具も小道具も衣裳も俳優も監督を見て手を抜きます。衣笠監督はカット割の職人で考証なんか糞くらえ、私を見ると逃げるのです。欲しいのはタイトルに載る考証家のネームバリューだけの人でした。島監督は現代劇の演出です。風俗、思想も環境も王朝時代と違うのですから、ぎくしゃくーーちぐはぐは当たり前でしょう。勿論脚本も酷いものです。二作、三作は「山椒大夫」の本読みで溝口監督に台本をつき返されたライターでしたから・・・。大テーマを掴んで人間に迫ること・・・それが溝口式ですが、先ず面白く、絵と音のテクニックでというのでは、感動は生まれません。人間不在ドラマのつまらなさを大衆が見破ったのでしょう。
 本物の芸術家でない人ほど一見、当たりがよくて優しいのは不思議です。衣笠さんも島さんにも好感は持っていました。だから、島監督の「残菊物語」にもつき、溝口監督の資料もお借りして考証できたのです。映画会社での私は融通の利かない堅物でした。後ろに怖い溝口監督の影がついているのだから女優さんも寄ってはくれません。

Part. 5  映画製作現場のおんなたち

 それでも親しい女友達は沢山できました。
 チョイ役を配役するのは助監督でしたから女優さんの方から寄ってきます。撮影所の男女関係は気楽な所でして、今日出た噂は三日後には消えて又新しい噂が始まるという具合です。娯楽番組の組のセットの隅で出番待ちの俳優さんの話はエロ話ばっかり、その中には落ちの利いた傑作も相当にあるのですが、それを下手に紹介しますと、今テレビで男性スターが視聴者の劣情くすぐって銭にしている下品なネタに似てくる恐れもありますので真実の体験をお話ししましょう。

 木村恵吾監督の「歌麿をめぐる五人の女」の一場面。シーンは御殿の池、お女中鯉掴みの場。内容は歌麿モデルを発見する。出役は母屋に殿を囲んで御台様、御年寄り、御客会釈、御中﨟、お小姓、御次など、池にはお仲居、三の間、お末など腰巻裸五十名夫々に手網を持つ・・・・・母屋廊下に歌麿が控えている・・・という舞台装置と思ってください。大勢の裸の女に囲まれて、もまれ乍らその位置づけに走り回っていますと、「ええなぁ助監督は・・・・・」と美術助手は羨みますが、水泳パンツの中心がむっくりというような余裕はありません。大勢の背景の女性は乳房の露出も大丈夫なのですが、役どころのフルサイズやバストサイズで乳首が見えると五月蝿い映倫のカットにあいます。映倫といいますと、かって山本冨士子の入浴シーンで吹替えのヌードが歩いて浴槽へ行くところ・・・後姿の尻が三振りしているのが駄目だ三フィート切れと言います。ハイ、カットしましたとそのまま見せたら良くなった。ワイセツ性が消えたよと頷きました。こんな馬鹿者に映画産業は小遣銭を払っていたのです。

 ここでは、海女の絵のモデルになる女性N・Yさんのバスト撮影では、乳首を垂れ髪で隠さねばなりません。他の助監督よりもこんな仕事は私に回ってきました。皆には照れがあるのですが、役者は監督の素材であると徹底的に教えこまれている私には、それがありません。そんな雰囲気が女優さんにも自然に通ずるのでしょうか、彼女達も安心して私には任せるのです。この時はサード助監督でしたが、チーフ助監督になって制作進行の段取りに忙しい時も、あるヌード女優が彼女の衣裳は私以外の男には預けないとごてられて困ったことがありました。
 髪の毛を揃えながら乳首を隠すとなると、どうしても私の指先も乳首に触れざるを得ません。それがきゅっと堅く大きく立ち上がるのが判るのですが、気持ちに高揚を感じたりはしないのです。皆さんは「お前が・・・そんな・・・」とお思いでしょうが、これは本当です。

場面変わって遊郭の或る部屋、二人のお女郎が寝ていて急にとび起きる場面でした。芝居の内容は忘れましたが、監督は何回もテストを繰り返します。その度にサード助監督の私は掛布団を被せ直すのでが、露な胸のふくらみを見ても、ふくらはぎに触れても平気です。先の鯉掴みのような経験もあり視覚も触覚も麻痺していたのでしょうか・・・何回目かのテストの時、女優さんの香水に混じって生臭い香りが鼻をつきました。「ありゃーっ、これは生理のにおいじゃないか!」とそう思った瞬間に私の顔に血がのぼって、ほてってきたのです。真っ赤な顔をしていたに違いありません。
 次のテストの時にはもうキャメラの前へ出ることも出来ませんでした。嗅覚だけが生きていたのです。この女優さんは今もテレビで活躍中ですが、お名前は伏せておきましょう。

Part. 6  映画監督たちの印象

(閑話休題)
 昭和三十年は溝口先生が「雨月物語」でデイヴィッド・O・セルズニック最高賞をとられた嬉しい年ですが、初の色彩映画「新平家物語」で苦労した年でもあります。「新平家物語」は溝口監督としては苦労した割合には不満な作品でした。
 私が師事してからの溝口先生の作品は一に「西鶴一代女」、二に「雨月物語」、三に「近松物語」、四に「山椒太夫」、五にスケッチ風に軽い「祇園ばやし」、六が駄作といわれたのですが「お遊さま(芦刈)」は大谷崎の原作です。これほど大文豪の匂いを残した映画はないと思っています。しかし今見ると編集などは滅茶苦茶です。この映画の後、編集者が交代しました。
 「新平家物語」は初号試写の最中に監督自身が「荒っぽいねぇ・・・清盛が入道になるまで描かなくっちゃねぇ・・・人間は出てこられないよ」と自虐的につぶやいておられるのを聞きました。会社の注文は清盛の青春編で武士台頭の絶叫編なのですから、青春の絶叫の中にねばねばした人間の本質は表現出来よう筈は無いのですが、それが監督には嫌だったのでしょう。「荒っぽいねぇ・・・恥ずかしいねぇ・・・・」は試写中に三~四回も聞きました。こんな映画ですが撮影中に、投げやった様子は少しもありませんでした。どんな作品でも始めた物は捨て身で取組むというのが溝口スタイルです。市川昆監督は、この作品を傑作だと言われるのですが、リアリズムを心で描く監督とデフォルメして構図と撮影・編集テクニックで描く監督との違いなのでしょう。私は傑作だとは思いません。溝口先生の作品としては駄作だったと思っています。

 市川昆監督の作品「ぼんち」では考証担当セカンド助監督をやりました。特報も予告編も私が作りました。出来るだけ市川監督に合わせようとして観察して驚きました。芝居もセットも全部デフォルメしてしまうのです。美術者に聞くと「実際にこのセットの青写真で建築したら、その家はひっくり返ってしまうよ」と言っていました。画面に交番があって、交番の赤い斜光の中で犬が電柱に後ろ足を上げて小便をしている。そこへ俳優を登場させてデフォルメされ抽出して誇張された芝居をさせます。その被写体以外は確実に薄墨で消してしまう・・・というような、風刺漫画風・・・・。これがスマートでモダンに見えるものですから、大抵の者はいかれてしまいます。
 大体のやり方が判りました。溝口組の者でもこれ位は出来るぞと気負って勝負する気構えでしたので、特報は本編のNGなどを使用せず強引に全部別撮りして音楽も風変わりなトランペットソロ一本を選曲しました。幸いに評判が良くて、予告編手当の外に本社の関係者より金一封を貰いました。金一封は五回貰っています。他の助監督は貰ったということを聞いていませんので、これは助監督の勲章だと威張っていました。
 その内に所長も制作部長も代わって、新しい所長は予算課上がりに、制作部長は「ネギリ松」とあだ名のつく銭勘定だけの作品第二主義者に代わりましたので、後輩助監督には気の毒でした。この撮影所幹部交替の頃から大映京都撮影所も左前になっていったのです。

 溝口監督と他の監督とは仕事に対する考え方も監督手法も全然違いますが、強いて探せば黒澤監督が似ていると聞いています。
 増村保造さんは溝口監督にもついていたのですが、市川監督のモダニズムの方に傾倒していて、その理由は、溝口監督は下町育ちで上流階級には劣等感を感じるほど不通であり(映画「武蔵野夫人」の失敗)権威に弱く、利己主義であるけれども、それに照れないで頑固な所が巨匠であるように言っていますが、それは大きな間違いです。
 溝口先生が若い時には華族(旧信州上田藩城主松平子爵)邸から撮影所通いをされていたのです。殿様ーー華族、戦前の殿様の生活など増村さんは知る由もないでしょう。大学教授や学歴に劣等感を抱いていたという推察も間違いです。その道のスペシャリストを尊敬しておられたのです。困った時は何時も専門家に聞いて下さいというのが常でした。大学教授が専門家なら植木職人も専門家、墓守も、掃除夫も、散髪屋も、商家の御用聞きも各々その道の専門家です。専門家を尊敬し、信用しておられたのです。自分も監督と言う専門家ですから、専門家としては決して大学教授という専門家に引けをとるような劣等感は持っておられなかったと確信しています。親友の川口松太郎さんがおっしゃるように明治人間ですから勲章のようなものには憧れも持っておられたと思います。

 昭和三十一年、東京の撮影所で 「赤線地帯」 のクランクイン中から次回京都撮影所での 「大阪物語」 の準備に入りました。シナリオは依田義賢さんの第一稿です。クランクインまでに五稿から六稿位の訂正は当然、決定原稿でクランクインしても毎日訂正稿が出来てくるのには慣れています。訂正注文の監督からの手紙を脚本家に届けるのが私の仕事でした。
 裸か、糊付けなしの封筒に入っているのですから中身が読めます。読めという事だったのでしょう。抽象的な表現で書かれた注文の手紙の尻には大抵「妄言多謝」と結ばれていました。依田義賢さんの 「溝口健二の人と芸術」に手紙の内容は載っています。「大阪物語」は西鶴の町人ものの一つ「永代蔵」です。

 溝口先生は 「僕は喜劇はうまいんだよ、昔、乃木大将と熊さんというものも撮ったしね、今度はチャップリン喜劇にするんだ」と仰言っていました。「山椒大夫」を日本奴隷史から調べ、「新平家物語」を玉葉や経済史からやられたように今度は何からやろうかと考えていました。元禄風俗は 「近松物語」で卒業していましたから心配はないのですが、話は大阪の蔵場ですから、やっぱり経済史事典からです。大阪方言事典は? 便利なのは牧村史揚先生の物でした。資料を揃えても全部を読み切る時間はないのですから、斜め読みして要点を抜くのですが、こんな時に京都二中時代に通学の時大宮七条電停で下車して学校まで、・・・高橋(たかばし)からの歩行通学の道中で、級友の今井欣一君に教わった試験の網かけの術が役立ちました。今も有難いと思っています。

 「赤線地帯」が終わって監督がスタッフルーム入りしての第一声は、「三井の家訓を調べてください」でした。「大阪物語」・・・このドラマは大阪商人のケチケチ物語で、金に執着して人間を傷つけ、自分も人間性を失っていく・・・がテーマです。貧乏農家の一族が年貢取立の為に大阪に逃げて蔵場の米を拾うところから金を貯め、死者の床にまで金を運び、誰に託すのも惜しんで、人を信ぜず死の国まで小判を持ちこんでやろうと懐中に入れようとしても入りきらず、果ては小判を食いこもうとする壮絶なシリアスドラマをコメディに描こうというものです。
 シナリオに大店の主人に出世した主人公が、以前蔵場の船着き場で米を拾った掃木、塵取を祀って奉公人にも拍手打たせ「掃木さま、塵取さま」と拝ませるとあるところの「掃木さま、塵取さま」を三井財閥の家訓に代えようというのです。確かに封建時代の家訓は現代人から見ればコミックです。ここの訂正は判りましたけれど、この作品の脚本訂正打ち合わせは重役室で行われていましたので、手紙の盗み読みはできませんでした。

Part. 7 溝口監督の死去とその後の映画界

 監督は撮影準備中に病気で入院され、作品は一旦停止。病名は単核細胞白血病でした。見舞いに参りますと 「ここには、小林君も居るから大丈夫だよ。準備の調べものはいいから休みなさい。会社は体の面倒はみてくれませんよ。自分で気をつけてね、用心して・・・ねぇ」と仕事の鬼の先生が優しいのです。私の遠縁で病理学教授の角田先生に白血病と監督の容態の推移を聞いて愕然としました。泣きながら死を待つ以外はないのです。
 棺を担ぐ日がやって来てしまいました。棺は内弟子の助監督と俳優の弟子が担ぎました。
 東京の青山斎場へは一番に黒澤監督が来られました。助監督の私と内弟子二人が呼ばれて初めてこの大監督の声を聞きました。 「君たちは幸せですよ、溝口さんが生きておられた時に私も助監督につきたかった。女も描きたかったのです。習ったことを復習して、勉強して下さい」 短いけれど愛のある励ましに聞こえました。
 自称弟子と仰しゃる新藤兼人さんはこの斎場には来ておられませんし、後々の命日にもお目にかかった事はありません。  「近松物語 (大経師昔暦)」のような男女の悲恋の物語の中にも当時の世間の仕組みと封建の世の枷を組み合わせて大きな心棒を通した監督です。 「山椒太夫」は 「これは母ものですよ、三益愛子を使っているような安物じゃあありません。(お涙頂戴の安ッぽいシリーズものを母ものと呼んでいました)母ものをまともに見詰めればいいのです。母のない子はないからね。貴方が一本立ちの時は母ものだよ・・・やりやすいからね・・・」と言われました。その母ものを監督できなかったのが残念です。

 溝口監督を失った事は、会社にとっても大きな損失でした。「大阪物語」は吉村公三郎監督で再開されましたが、溝口先生の資料に囲まれたスタッフルーム入りの初日に考証の方法について溝口監督の悪口を並べました。
 彼は自前の資料を一冊も持参せず、そんな組で仕事をする気になれません。早速に資料も引き上げて、私は組を降りました。「大阪物語」の完全に訂正された脚本は先生の病室の枕元にありました。「脚本が出来た。早くスタッフの皆さんと仕事がしたい」というのが遺言でした。訂正本では、トップシーンの通夜の場で銭の亡者の仁兵衛が銭への執念から棺桶を突破って出てくるという凄まじいものになっていました。この完成脚本は吉村監督には渡していませんでしたので、演出に使用されたのは依田さんの第一稿のままだったと思います。
 吉村さんの注文もないままに依田さんも放っておいたのでしょう。監督の注文もないのにライターが勝手に修正する必要もなく、訂正脚本は溝口監督と依田さんのものなのですから・・・。
 完成した映画は酷い駄作でした。セットは、さすが溝口組の美術・水谷浩さんですから立派なものなのですが、主人公の(先々代の)雁治郎も持ち味を引き出せず、演出は安易、脚本は溝口監督なら絶対にクランクインしない未完成稿、役者もスタッフも溝口グループですが何時もの冴えがなく大根に見えます。映画は監督によって左右される、その安物の見本を見たのでした。

 溝口監督が亡くなってからは、大映にこれといった芸術作品はありません。「大阪物語」だけは溝口監督に撮って貰いたかったという依田義賢さんと同じ意見です。溝口演出ならば、新しい映画史の一ページを作ったに違いないのに残念でありました。

 映画がテレビに押されて斜陽になる時、先に述べましたやくざのような所長とネギリ松制作部長に代わりました。
 溝口先生から 「シナリオは書くな、書かせてライターの専門知識を頂くのだ」と言われていたのにシナリオを書いてしまったのは大失敗ですが、溝口先生の通夜の時に兄弟子の成沢昌茂さんから 「シナリオはね、能ですよ。起は二シークエンスの裏表、承は二シークエンスの裏表、転は一つで結は放っていても出来ます」
 「先生の脚本はね、三幕六場になっているのです」と聞いてから先生の脚本の分析を始めたのがきっかけでした。
 市川雷蔵さんが監督したいので脚本を書いてくれと依頼されたのでオリジナルの「刺客」を書きました。幕末もので勤皇方のテロリストの悲劇です。 「刺客」は俳優の市川雷蔵の初演出という事を考えてレーゼシナリオ風に読めて、ト書きも多く、カット割りも指定してあります。 溝口先生のシナリオはト書きゼロ、セリフの羅列だけであります。このシナリオは雷蔵さんからの報酬はゼロ。喫茶店でのお茶を御馳走になっただけ。
 松竹の助監督はシナリオの書ける人も多いのですが、大映京都には書ける助監督はいなかったのです。雷蔵君が社長に本を持ち込んだのですが、「本はしっかりしているけれど、役者には監督はさせん、いくら俳優のセンスがあっても監督とは仕事の内容が違うのだから・・・長谷川一夫も監督をやりたいと相談を受けたけれども断った・・・」 という返事で雷蔵監督の件はおシャカになってしまいました。その直後、私は安田公義監督のチーフ助監督でセットに居ますと宣伝部から呼び出しがかかりました。「宣伝部に用事とは、何じゃいな」と出かけると四人ばかりの新聞記者が待っていました。その記者の中に旧制京都第二中学の同窓の卯木信也君がいます。

卯木 「・・・・・八ちゃん。おめでとう・・・・・」
 「なんや・・・急に・・・なんですねん」
記者 「新人監督の抱負を聞く・・・ですがな」
 「雷ちゃん、監督復活か!脚本の事聞きたいのかいな・・・あの人の生活のことやったらあかんでぇ・・・俺、個人的な付合いあらへんしなあ・・・」
卯木 「本社から電話があってなぁ・・・東撮の企画部長が脚本読んで、社長に推薦したそうや、そしたら脚本書いた奴に撮らしたれいうて・・・いま社長から電話があったそうや・・・」
 「ほんまかいな・・・・・」

 足ががくがくとふるえました。そこで何を話したかは覚えていません。早速スタッフルームに宮嶋組の表札が掛かりました。脚本執筆には溝口勝美君という助監督を手伝わせましたので、「やっぱり溝口という名前は縁起が良い、先生のお守りや」と思いました。
 脚本は俳優が監督する本としての考慮をしてありましたからカット割り、構図、殺陣にいたるまで読めるように懇切丁寧に書いてあります。風俗考証も十分に頭に入っていますから何時でもクランクイン出来るのです。溝口先生ならどんな演出をなさるんだろう。下級武士の氾濫だからインテリに描いてはいかん。脚本も構成は溝口スタイルにしたから芝居は毎日ごとの手直しでやろう等と頭を巡らせていました。
 あくる日、ストップが掛かります。何故!

 今、封切の森一生監督・壺井栄原作の幕末ものがこけた (客足が悪い)というのです。鎧ものと幕末ものは客の入りが悪く儲からんという映画界のジンクスがあったところへの追い討ちでした。監督昇進の夢は一日。・・・・・幻影となりました。

 もう予告編に情熱を注ぐようなこともなく、市川監督からは四コマ風の象徴化するテクニックを、増村監督からはイタリア仕込みのミディアムサイズの繋ぎ方を、衣笠監督からは冬場を夏に見せるような季節撮影の手法を、森監督からはモンタージュを・・・・・。映画くさいテクニックを徹底的に排除し、舞台のようにシークエンスの終りには常式幕代わりにオーバーラップかフェイドイン・アウトを使うだけの溝口演出スタイルには不要なものも覚えましたが、これは大映退社後に記録映画やコマーシャル、企業の宣伝映画などを手がけた時の役に立ちました。
 監督にスランプがある如く助監督にもスランプはあります。そんな波間を漂っている内に古参助監督になりました。
 ネギリ松部長などの言うことは馬耳東風と聞き流しても、会社の門を潜って直ぐの所にある所長室からやくざのような下品な所長の怒鳴り声が聞こえてくるのは、ここが映画芸術を創作するところかと心底嫌になっていました。
 常にその所長とは折合いも悪く、ある日、面と向かって「怒鳴るだけで、映画は作れません。ここは羅生門、雨月物語、山椒太夫、地獄門と世界の賞を取った撮影所です。表門に近づくと所長の、やくざ声が響いてくるのがたまらないと皆が言うています」とやってしまいました。上司に楯つくのは旧制二中時代の教師にさからう癖の延長だったのでしょうか。古い助監督は裏方スタッフに押しが利きますので、制作部は配置転換で呼ぼうとします。やくざ所長の前の所長に会った時 「可哀そうに・・・俺がもうちょっと所長で残っとったらなぁ、今頃監督やっとるのに・・・。お前は、あいつと合わんからなぁ、溝さん墓で泣いとるやろう」と慰めてくれました。

 やくざ所長を私が嫌いなのは上司の副社長永田秀雅さんのことを会議の度に罵ることでした。副社長は東京の本社詰めですから京都の会議には不在です。陰で悪口を言うのは卑劣です。永田秀雅さんは京都二中の先輩でもありましたので、余計に腹が立ったのでしょう。

 この頃の大映の作品は安価なシリーズもの、「悪名」「兵隊やくざ」「座頭市」「中野学校」「眠狂四郎」「若親分」等の役者に頼ったプログラムピクチャーでした。こんな作品のカット割り演出は (被写体は前向きの次には後ろ向きを・・・・ロングの次にはその寄りをというように・・・ブン・チャッチャとワルツのリズムで刻む) 一年生のカット割り文法さえ知っていれば、誰でも演出できます。芝居も役者任せでよいのです。先ず脚本に人間心理の奥底を・・・というような本当の芝居なんかは無いのですから・・・。ハッと驚き、ホッとする、ハッとホッと芝居です。見せ場は立回りだけですから殺陣師が居れば充分で、監督不要、カット割りの職人監督で良いのです。私も雷蔵君の依頼で「若親分出獄」と言うシリーズの二作目を書きましたが、監督の「カット繋ぎのために芝居を変えて欲しい」 「主役を苛め過ぎてはいないか」という訂正注文に驚きました。
 
 カット繋ぎのた為に芝居を変えられてはたまりません。カットのために映画があるのか、映画のためにカットがあるのか判っていないのです。物理現象と同じく人間の魂も締め上げて、堅く縛って、苛めるほどその爆発は大きいことが判らないのです。
 「若親分出獄」は復讐劇ですから、観客の知的共感と同情をあふれる限界まで持ち上げて復讐の爆発に繋げる・・・・・その伏線が主役の苛めだと理解できないのです。シナリオ訂正は他のライターにバトンタッチして、こちらのペンネームを別当昆(ベットウコン)にしました。当時はベトナム戦争の最中で、別当昆=ベトコンで地下に潜るという洒落なのです。それがばれて、問題になったのですが、依田義賢=酔った機嫌、二葉亭四迷=くたばってしまえ・・・と読むような洒落の通じない撮影所では洒落た映画も作れる訳はありません。
 以上酷い映画製作でしたが、伝統の技術を誇る撮影部と美術部は頑張っていました。その頑張りが何とか映画らしい体栽を保って鑑賞させていたのでした。

Part. 8 助監督の終り

 助監督生活の終りは 「華岡青州の妻」 です。ネギリ松の制作部長は、私を制作部へ引き抜きたかったのでしょうが、随分この仕事の邪魔をしました。増村監督は私と親しく、溝口組の仕事も一緒にやった仲で、京都の仕事の場合は私が助手を務めることになっていたのに、他の助監督を勧めたのです。私はチーフと風俗考証担当とのオーバー労働で会社にサービスするのはもう嫌だと思っていたのですから、増村監督にはすまないと思いながら黙っていました。監督から私へ 「ネギリ松にね、僕は助手さんは誰でもいいんだけれど、その助監督さんは宮嶋君と同じ仕事が出来ますか?制作部長は推薦の責任は取れるのか、と言うておいたけれど、おっさん・・・・どうしよるかなぁ」という電話がありました。
 その後直ぐに私にチーフ助手の仕事を回してきたのです。ひとごねして部長の野郎ッ苛めてやろうかと瞬間思ったのですが、止めました。私も仕事らしい仕事に飢えていたのです。まだスタッフも組んでいない時から宣伝部は動き出します。華岡青州の医療機具など遺品の或る和歌山医大行きのバスを出すのですが、制作部から私の所へ連絡はありません。故意に知らせないのです。宣伝部の友人の知らせで、駆けつけた時にはバスは動き出していたのですが間に合いました。智恵のない小餓鬼の苛めに無性に腹が立ちました。
 この作品の資料収集と調整に使った日数は僅か十日でした。若い入社したての助監督に溝口組の準備方法を叩きこみました。
彼等も素直で、「助監督は調べものから始まる」と実体験したでしょう。この新採用した助監督は和歌山弁の「よし、のし、言葉」もわかる地元出身の人を優先して採用しました。

 その後、暫くして市川雷蔵君から「陸軍中野学校」二作目の脚本執筆依頼がありました。一作目は増村作品ですから、本も欠陥はありません。狙いも仕事もしっかりしています。中野学校はスパイの話ですので、スパイという任務の非情さと哀しさがテーマになります。一作目は原作がありますが、二作目はオリジナルですからストーリー組みにも勉強が必要です。そこそこにお茶を濁して誤魔化すのは嫌です。一作目の原作者と勝負するには準備の勉強が大変です。ストーリーのネタを捜す時間的余裕はありませんし、「一作目に勝つ自信がない。先の作品で十分にテーマは消化してあるので、次回作はみな御座なりですよ」と断りました。どうせ京都のカット監督が撮るのだろうから、またの喧嘩は御免だという気もありました。

 ある日突然に所長からの呼び出しがあって 「貴方はシナリオが書けるのだから、企画部を手伝った下さい (言葉はバカ丁寧ですが中身は高圧的です)
 私は黙っていました。所長も「考えて下さい」とは言わないのです。(長年の監督修行をどうしてくれる) と心でにらみつけていたのです。所長室を出ると掲示板に「企画部勤務を命ず」 と辞令が貼ってあります。 所長室へ私が入ると同時に辞令を貼らせているのです。旧軍隊よりひどい。軍隊ですら、強制的に熟練パイロットを整備兵に転科させるような馬鹿はやりません。戦闘戦力は半減してしまいます。彼等は映画創作スタッフの情熱や長年の努力に培われた技術なんかは必要ないのです。私ばかりではなく、ベテランの制作部長も制作主任も撮影部へ転部させられました。煙たい者は全部払って、横には予算課出身や俳優出身の素人を起用したのです。助監督も何人か制作部へ移されました。私はまだ脚本に関する立場ですから幸せだと言われたのですが・・・。企画部に転部させられても企画者ではなく、入社したての社員と同じ待遇の企画部員でした。私より5年も後に入社した企画部員が私の上司の係長になっていました。これは強烈な左遷でした。最初の仕事は企画部長の転居の手伝いです。給料は京都人文学園を卒業しているということで、短大とみなして給料ダウンさせられました。京都人文学園は文部省令で、左右されるのを避けるため、東京の自由学園と同じ各種学校だったのです。(京都人文学園については風間書房より 山嵜雅子著「京都人文学園をめぐる戦中・戦後の文化運動」と「わが青春ー京都人文学園の記録」に詳しく書かれています。)又、大映の労務担当ー山崎は元特高警察の刑事で、人文学園長であった新村孟先生等々の先進知識人を治安維持法の名のもとに次々と収監した張本人でありました。私の件は、総務部長兼任だった鈴木所長の命令で動いたのです。社長に直訴するか、組合で問題にするか、とも考えましたが、この時に退社する覚悟を決めました。

 松竹は既に閉鎖間近でしたし、東映は技術部までも大映に劣っています。リアリズムなどと言えば張り倒されるでしょうから、行く所はありません。
 企画部の最初の仕事は、提出企画のプロット(梗概)を書くことです。宣伝部から転部した企画部の人は、仕事に慣れるまでは・・・・とぶらぶら手をこまねいていましたが、私は転部して三日後に女やくざの物語を企画提出しました。イメージを判然させるために衣裳、結髪、俳優部を駆けまわって、出演女優の扮装テストのスチールを貼り付けました。私には溝口組の意地があったのです。写真つきの企画書は始めて見たのでしょう。
 この企画は保留検討ということになります。
 その直後に同じ女やくさ゜ものが松竹の企画をパスして映画化決定の報が入りました。

Part. 9 映画「祇園祭」に誘われる

 そんなことで落ち込んでいる処へ、溝口勝美という私が育てた助監督よりの連絡で、京都府後援・錦之助プロ制作の映画「祇園祭」の助監督としての誘いがありました。溝口組の撮影で関係のあったロケ地、びわ湖堅田周辺を3日間巡りながら溝口組の仕事を想い出していました。もう一度現場に戻れる、と思って大映を退社します。

 「祇園祭」の監督は巨匠の伊藤大輔さんです。さあ本物の仕事がやれるぞッ、仕事が済めば、巨匠と一緒に東映へ滑り込んでやろうと意気込んだのですが、脚本はテーマはあれど構成はバラバラ、生きた人間は出てきません。毎回の手直しで、修正も利くだろう・・・ところが既に撮影済みのラッシュ(スタッフの検討試写)を見て愕然としました。馬借役(バシャクヤク=荷駄運搬の山賊) 三船が米俵を槍で突き上げるところ・・・槍は六尺、荷の米が白米になっています。考証すれば米は玄米、槍は九尺なければなりません。「日本武器概説」 を読んでいないのです。
 高札を庶民が読んでいるところ・・・高札の形が違います。「駅停史稿」を読んでいないのです。
 庶民の服装が違います。女が腰巻をしています。当時腰巻なんぞはありません。ねんねこで乳児を背負っています。本当は着付けの襟をはだけて肌に直接に背負うのです。行商人がかるさん (今、土建屋さんが穿いているようなズボン)を穿いています。かるさんはポルトガルからの流行品ですから、まだ庶民の衣服にはなっていません。安土・桃山時代の絵巻物を調べていないのです。
 衣裳責任者や小道具責任者と話しても私の言う事が理解できないのです。平行線で噛み合いません。無理もないのです。まともに歴史映画など手掛けたことはないのですから・・・。傍の助監督に香盤 (撮影の段取り表) を書かせても、それが出来ません・・・これは助監督一年生の仕事なのですが・・・・・。

 スタッフルームには映画界に物知りと言われていた伊藤大輔監督の参考資料の一冊もなく、溝口組とは全然違う雰囲気です。助監督も学校出たてのアルバイトの様な者が二人、もう一人のスケジュールを立てる助監督は、後でB班と言う本編撮影の応援をするのですが、キャメラの動きの基本を知りません。説明すると長いのですか、初歩的なカメラの動き (ドンデンまわり) を知らないのです。 衣裳調べも衣装合わせも、扮装テストも済んでいたのでしょうか。私は立ち会っていません。錦之助が初めて出て来て驚きました。膝の下まであるズボンと半腰というのですが膝上迄のショートパンツになっています。たかが紺屋の職人と云うのに正倉院模様を散らしてあるのです。 各々仕出しの参考図も出来ていません。美術者も大映の美術者と違って何も知らないのです。参考資料もなく再教育のしようがないのですが、スタッフ教育の風俗図絵も作られていないのですから、衣裳も小道具も結髪もわからないまま撮影に突入していたのです。

 それから訂正脚本が出来て、撮影に入りますが、この訂正稿ももの凄いのです。自分の住まいのある京都の街が戦火に焼けるのを比叡山から望みながら、ラブシーンを展開するのです。帰宅して家屋の焼失と母の死に愕然とすると続くのですが、平安の時代から京の街は碁盤の目です。山の上から俯瞰で見れば住まいの位置関係は判る筈です。我家が火炎を噴いているのにラブシーンとは呑気なものです。人間を見ず、ラブシーンやチャンバラを芝居の見せ場と心得てスターにおもねる神経がこんな映画製作に繋がるのでしょう。
 この作品では、沢山のスターが友情出演という無料奉仕をしていますが、これなども作品の足引きに繋がってくるのです。仕出し (その他大勢・通行人など) の中に有名スターを混ぜても目立ちます。その上スターのアップを撮影しているのですから、作品第一主義からいうと邪魔以外の何ものでもありません。ヒッチコックは趣味で自作に出演していますが、大衆の中に隠れて目立ちません。書き出せば優にこの作品批判だけでも1冊の紙数になりますのでこの位で止めましょう。プロデューサー、監督、俳優を選んだ蜷川知事の責任も重大でしょう。
 撮影の途中で知事の知的ブレーンでもある太秦病院の和田院長から色々相談を受けた時、「エンドは出せるでしょうが、碌な作品は出来ません」と答えました。和田院長は京都二中の先輩で 「華岡青州の妻」では随分お世話になりました。同級生の高橋徳中(2年の始めに「徳島中学」から編入学したので付いた渾名)君も「祇園祭」の関係者だったと後で聞いて、彼と私があの時逢っていたら・・・と残念に思うのです。

 伊藤大輔監督はこの作品を投げ出して、交替は監督補の山内監督になりました。それが映画の仕上がりを益々悪くしたのです。彼は、プロデューサーにも注文をつけられないイエスマン監督だったからです。
 封切が済んで、フィルムが戻ってから、作品の編集直しを府庁から私に頼んできました。エンドマークの出た作品をいくら編集の鋏で刻んだところで、まともになる訳は無いのですが、嫌なところをチョコチョコと棄てて勘弁してもらいました。 〔これも府庁に対する無料奉仕でした〕 本当は作品訂正は監督の仕事としての責任なのです。助監督が作品に手を入れているのに、伊藤監督からも山内監督からも助言も文句もないのです。これも奇怪な話です。芝居の撮り足しをしてダビング(総合録音)をやり直しても、様になる品物ではないのを彼等も分かっていたのでしょうか・・・無責任な人であります。

 さて、これが私のドラマとの訣別となりました。それでもテレビの 「部長刑事」 や 「座頭市物語」 などの脚本を三本ばかり書きました。
 同じくテレビの 「幻の寺」、「ぼんち」の風俗考証をやりました。
 イベント企画・構成もやっています。その中でちょっと変わったものは「北斎漫画で統一したお化け屋敷」、「ポッピキ・ポッピン・・・浮世絵風俗昔の玩具展」など、他多数。インテリア・デザインにまで手を出して 「平安朝ムードのキャバレー」、「十八世紀ヨーロッパ風喫茶店」など、インテリアはこの二件です。素人が助平根性を出すものではないと悟りました。
 映像表現の可能なものは手当たり次第にやりました。スライド、十六ミリ映画、ビデオ等で記録映画、教育映画、企画宣伝、官庁広報、商品紹介、機械の説明 (これは苦手でした、人間が出てきません) と何でも引き受けましたが人間主体に考えるので、狙いも味もちょっとは記録専門の監督とは違った作品になっていると自負しています。

 映画芸能の世界は、全く特殊な世界です。太秦の映画村では、映画制作の実態はわかりません。絵画の世界では、看板の絵描きと作家とは違う扱いになっていますのに、映画ではポルノ作家でも芸術作家も、ドタバタ喜劇作家もチャップリンのような社会派喜劇作家も、ちゃちなホームドラマ作家も皆一様に監督の呼称になっているのも不思議な世界です。ポルノのベッドシーンなんかに真のドラマはありません。そのシーンのテーマは、只一つ快感を求めて、もつれ合う男女の姿態だけで、魂の高揚や人間懊悩のもつれあいのような芝居の本質はありません。こんなものはチャンバラと一緒です。目的は一つ、斬るか、斬られるかで芝居はないのですから真の監督は要りません。殺陣師の仕事です。こんな監督はカット割りを作って、ワルツのリズムに乗せているだけですからカット督、又はワルツ督と呼称を変えて監督と区別して欲しいものです。

 以上、項目別に整理すれば、夫々が一冊の本になるような話しをすっとんだ自分史として書きました。それにしても随分長い原稿になって了いました。溝口監督の手紙の末尾 『妄言多謝』で終わります。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 団子串刺し式 私の履歴書』 おわり 

ごあいさつ

 まずはご挨拶申し上げます。かって助監督として故溝口健二監督に最後までお世話になった私として、最近の日本映画の風潮に心を痛め、溝口監督を貶めるような言論が流布されることに、怒りすら感じている者です。
 老残の身ですが、映画についての関心は未だ衰えるものではありません。よろしくお付き合いくだされば幸甚です。
        

 ●メッセージ●

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■角川ヘラルド映画株式会社の溝口健二大映作品集 制作責任者の五影雅和 様より   ☆前略 向春の候、ますます御健勝のこととお喜び申し上げます。先日は「宮嶋八蔵の日本映画四方山話」をお送り頂き有難うございました。鈴木所長のくだりなど、辛辣な箇所も見受けられますが、それ以上に、以前お伺いさせて頂きました際にも感じたことではありますが、宮嶋先生の溝口監督へ尊敬の念、そして師匠に対する愛情がひしひしと伝わってくる内容で大変楽しく読ませて頂きました。「山椒太夫」の予告篇演出のくだりなど、普段聞いている溝口監督像からは想像できないほど愛にあふれており、思わず涙ぐんでしまいました。  引き続き、助監督として参加された個別作品に関しても報告を続けられると結ばれておりましたので楽しみにしております。  季節の変わり目、お体ご自愛ください。また、お会いできることを楽しみにしております。                                             ☆    

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                            ☆ ■元大映京都に関係の深い芸能記者 岩崎 健二 様より   前略 「日本映画四方山話」のコピーありがとうございました。「団子串刺し式私の履歴書」を伏字の監督、脚本家、製作部長、所長らの顔を思い浮かべながら、面白く拝見しました。 宮嶋さんが嘆かれるより、今の映画界はもっとひどいと思います。メジャー映画会社が映画を製作していた頃と違い、今は誰でも何処でも撮れる時代です。映画は軽くなり、多作乱作でくだらない作品が氾濫しています。残念です。宮嶋さんにはぜひ作品別のお話も書いて頂きたく思います。 お待ちしています。                     早々                                           岩崎 健二       

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コメント

ひょんな事からこのサイトに来た者です。
20年程前、豊田の方の自動車関連の会社のPRビデオでご一緒させて頂いた者です。
この『団子串刺し式 私の履歴書』、一気に読ませて頂きました。大変面白かったです。
あの頃に少しだけ溝口監督との関係をお話しされていたのを聞かせて頂いていたので反芻しながら読める部分も少しあり、宮嶋さんの話口調を少しだけ思い出させて頂きました。
あの当時まだ私は若く、宿やロケの合間に我々に話して下さるのを絵空事のようなもののように感じておりました。
私は映画全盛の頃を生を受けておらず、まして産業映画の世界のものですから撮影所のことはその当時は全くわからない世界でした。
その後、少しだけ映像京都の仕事に参加させて頂いたりしてこういう雰囲気なんだろうなぁという気分だけは味合わせて頂きました。
宮嶋さんのお話を伺っていなかったら、多分しなかっただろうと思われます。
これからももっとたくさんお話になって下さい。
とても楽しみにしているのです。溝口監督のお話を。


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