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渋沢栄一と東京高峰譲吉邸
実業家、渋沢栄一の反対で、アメリカに骨を埋めた高峰譲吉博士

画家、牧野克次、100年前の遺品が語る

                           準備されていた 東京渋谷・高峰譲吉博士邸                 
                                                                    2020(令和2)5  

 宮嶋サロン※①・ 発見・撮影・著者  竹田美壽恵 
宮嶋サロン   HP担当  勝 成忠

 

はじめに

2018(平成30)年7月中旬、「画家、牧野克次・純一の関連遺品」と竹田が作成した

「寄贈目録、遺品写真集、牧野克次の家族史」を宮嶋晃様(牧野克次の曾孫)と共に

京都工芸繊維大学美術工芸資料館へ寄贈しました。 

その後、故宮嶋八藏先生(映画監督 溝口健二氏の内弟子助監督・宮嶋晃様の父)が

遺された映画芸術、キネマ旬報やシナリオ等のシリーズが山積みになっているのを整理していました
ら、又又包装紙に大量に包まれた牧野克次遺品を発見しました。

 その中に「東京渋谷 高峰譲吉博士邸」 と書かれた建築設計図がありました。

牧野克次は、高峰譲吉博士に依頼され1918(大正7)年には東京渋谷に高峰譲吉博士邸

建設の準備をしていた事がわかりました。

この遺品から東京渋谷、高峰譲吉博士邸建設にどのような経緯があったのか?

高峰譲吉の意向を受け牧野克次は、どのような邸宅を構想していたのか?

実際建設されたのか?等、検証しましたので報告します。

目次

1.化学者、高峰譲吉博士・画家、牧野克次・日本の実業家、渋沢栄一紹介

2.東京渋谷 高峰譲吉博士邸建築設計図 

  ()牧野克次の設計図

   1) 東京渋谷 高峰譲吉博士邸 庭を入れた全景設計図(一階設計図)・全体構想

   2) 東京渋谷 高峰譲吉博士邸 実測平面図

   3) 東京渋谷 高峰譲吉博士邸 2階設計図

  () JOHN V. VAN. PELT (コーネル大学教授・佛國風の建築学者)の設計図

   1) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図  (東側の立面図・玄関側)

   2) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図  (西側の立面図・自宅の裏側)

   3) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図  (南側の立面図)

  4) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図  (北側の立面図)

  5) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図  BASEMENT PLAN

  6) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図  1階プラン

  7) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図  2階プラン

3.高峰譲吉邸の建設計画があったことを記されていた本

4.東京・渋谷、高峰譲吉博士邸は建設されていた!

  (1)読売新聞記事 1922(大正11)年7月28日朝刊 

  (2)東京・渋谷の何処に高峰譲吉博士邸があったのか?

  (3)牧野克次は1916(大正5)年に東京・渋谷の久邇宮邸の設計もしていた!

. 日米親善のため活動をした高峰譲吉博士(無冠の大使と云われる)

6.渋沢栄一の帰国反対で、アメリカで骨を埋めた高峰譲吉博士

     (1) 渋沢栄一の追悼演説 [1922(大正11)11月東京帝国ホテルで行われた]

     (2) 高峰博士、決意の手紙  [1922(大正11)27日付け]

  (3) 高峰譲吉博士最後の日米親善活動

7.高峰譲吉博士の逝去を大きく取り上げた米国の新聞社

8.わかったこと

9.おわりに

 

1.化学者、高峰譲吉博士と画家、牧野克次と日本の実業家、渋沢栄一の紹介

                           

  高峰譲吉博士肖像       画家・牧野克次肖像     渋沢栄一 肖像

出典:『ウィキペディア』  牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵  渋沢栄一記念館所蔵

 (1)高峰譲吉博士 化学者 三共初代社長

      嘉永7年(1854)11月3日~大正11年(1922)7月22日  67歳没

  []米国 []富山県高岡市 []工部大学校応用化学科※(明治12年卒)

     []帝国学士院会員(大正2) []加賀藩典医・高峰精一の長男。越中国高岡

(現・富山県高岡市)で生まれ、翌年父のいた加賀国金沢(現・石川県金沢市)に移る。

  文久2(1862)より藩校・明倫館に学び、慶応元年(1865)選ばれて長崎へ留学。

  英語などを修め、4には京都で安達幸之助の兵学塾、大坂で緒方塾に入門。明治2

  大阪医学校に移り、大阪舎密学校では分析化学を学んだ。5大阪舎密学校廃校により

  上京、工部省工学寮に入る。121期生として工部大学校を首席で卒業した。13

  英国に留学、グラスゴ―大学やアンデルソニアン大学に学び、16帰国。農商務省

御用係として和紙、製藍、清酒醸造の研究に従事。19には、特許局長官代理となり

  特許事業の確立に貢献した。同年渋沢栄一、益田孝、大倉喜八郎、初代浅野総一郎らと東京人造肥料会社を設立。20米国に渡り、17の出張時に婚約していた

カロライン・ヒッチと結婚。23年改めて渡米、25シカゴに高峰ファーマメント社を

設立。27強力消化剤「タカヂアスターゼ」の特許を取得29「タカヂアスターゼ」は商品化され、世界的な名声を博した。33には副腎の有効成分・アドレナリンの純粋結晶単離に成功した。これらの業績により、大正元年帝国学士院賞を受賞。

この間、明治38ニューヨークに日本俱楽部(現・日本クラブ)、40ジャパン・ソサエティー(現・日本協会)を設立。大正2帰国し、理化学研究所の前身となる

国民科学研究所設立に尽力。また、三共商店設立に際して初代社長に就任。同年帝国学士院会員。[]勲四等旭日小綬章(大正4) 、勲三等瑞宝章(大正11)[]帝国学士院賞(2)(大正1) (明治大正人物事典Ⅱ3602011.7.25発行 大阪市立淀川図書館蔵)

*「工部大学校」は明治19年(1886年)に「帝国大学・工科大学」となり。現在の東京大学工学部の前身である 。     

ワシントンのポトマック川にある桜並木1912に東京市が寄贈したが、高峰譲吉は寄贈の計画、発案を当初から参画し尾崎東京市長らと共に実現に大きな役割を果たした。    (ウィキペディアより)

(2)牧野克次 元治元年(1864)4月21日~昭和17年(1942)10月22日78歳没

・大阪の豪商天王寺屋の一族・日本画家・西洋画家・篆刻家・建築室内装飾家

・大阪府高等小学校教員・静岡県師範学校教員・大阪高等工業学校助教授

京都高等工芸学校創立年4月に助教授として着任関西美術会設立に参加・京都で画塾を開き、井上悌蔵、新井謹也、榊原一廣らが学んだ。・田村宗立、桜井忠剛と共に洋画家の懇親会的会合「二十日会」を創立関西美術院設立の発起人・関西美術会、大阪第5回内国勧業博覧会其の他各種展覧会の審査員に従事 

ニューヨーク美術学校教授松楓殿別荘、紐育高峰譲吉博士本邸、紐育日本倶楽部工事設計、室内装飾久邇宮家側近・皇太子裕仁親王(後昭和天皇)妃に内定時、

久邇宮邸内に設けられた学問所で昭和の母になられた良子女王様の皇太子妃教育に尽くし、物心両面で久邇宮家を支えた。 ・趣味 謡曲 ・雅號 天平

画家・牧野克次の家族と人生はこのホームページ内「宮嶋八藏妻の家系」を御参照下さい。

 

 (3)渋沢栄一 1840(天保11)年2月13日 ~ 1931(昭和6)年11月11日  91歳没 

  幕臣、官僚、日本の実業家、教育者、慈善家、

位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。

  生まれ:埼玉県深谷市

  設立組織:東洋紡、王字製紙、日産化学等々

  概説:江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では、大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔、井上馨(かおる)の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行理化学研究所東京証券取引所といった多種多様な会社の設立、経営に関わり、二松學舎第3代舎長(現、二松学舎)を務めた他、商法講習所(現、一橋大学)大倉商業学校(現、東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られている。2024(令和6)年より新紙幣一万円札の顔となる。また、2021(令和3)年に渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ「青天を衝け」が放送される予定。(ウィキペディアより)

     詳しくは・ウィキペディア 渋沢栄一記念館ホームページ

・渋沢栄一 守屋淳 現在語訳 「論語と算盤」ちくま新書等を御参照下さい

 

2.東京渋谷 高峰譲吉博士邸 建築設計図 

(1)-1)  画家、設計家、牧野克次が総監督で準備していた

東京渋谷 高峰譲吉博士邸

    庭を入れた全景設計図に高峰譲吉博士邸の全体の構想が書かれていた!

 

設計者:牧野克次     ・1918(大正7)722日・設計番号NO.1

      ・牧野克次遺品設計図のサイズ:縦56.5㎝×横54㎝・宮嶋晃所蔵・撮影:竹田美壽恵

(1)-2) 牧野克次のサインと上記写真の左上の記載事項を拡大

  

  K:\牧野克次家族史関係\写真3克次設計図。勉学中絵画\2018.7.25~9.26牧野克次建築写真   3\牧野遺品写真\2018-08-01\NO9-1-NO37  高峰博士渋谷邸製図第4号5枚綴り 牧野克次設計\CIMG2817.JPG

 記載内容

 A. 建物の西境界に至る約160

 B .建物の南境界に至る約95

 C. 洋館2階建て 62坪半

 D. 洋館平屋 277分8厘

 E. ベランダ 1725○?

 F. 地下室 184

 G. 日本建築 平屋 265

 H. 表門 裏門

 I. 自動小屋及び車掌の住○?及び掘垣

 J. 邸内にある樹木は、梅の大樹、松樹、茶樹、其の他雑木満載、庭石に見るべきものなし

K. 西側に自動車小屋と雇い人の住居を作る

 L. 低地の土を取りて東部に盛土に使用し溝の流水を引きいれ池を作る

 M. 後方の傾斜地を利用して日本庭園を作る(牧野克次は松楓殿の造庭も行っていた)

 

(1)-3) 東京渋谷、高峰譲吉博士邸の実測平面図  

     測量:下田助次郎  測量結果: 坪数1281坪4合7勺余

     用紙サイズ:縦78.7㎝×横54.5㎝ もう1枚 横断面図あり

               ・牧野克次遺品           ・宮嶋晃所蔵 ・撮影:竹田美壽恵

  K:\牧野克次家族史関係\写真3克次設計図。勉学中絵画\2018.7.25~9.26牧野克次建築写真   3\牧野遺品写真\2018-08-01\NO9-1-NO37  高峰博士渋谷邸製図第4号5枚綴り 牧野克次設計\CIMG2802-2.jpg

 

  

(1)-4) 東京渋谷 高峰譲吉博士邸2階設計図

   サイン:K. .MAKINO(牧野克次)  設計月日:1918(大正7)年723

                      用紙サイズ:縦53.8㎝×横26.5

  ・牧野克次遺品               ・宮嶋晃所蔵・撮影:竹田美壽恵

K:\牧野克次家族史関係\写真3克次設計図。勉学中絵画\2018.7.25~9.26牧野克次建築写真   3\牧野遺品写真\2018-08-01\NO9-1-NO37  高峰博士渋谷邸製図第4号5枚綴り 牧野克次設計\CIMG2791-1.jpg  

  

 

(2)JOHN V. VAN PELT (コーネル大学教授・佛國風の建築学者)の設計図

(2)- 1) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図 EAST EREVATION(東側の立面図・玄関側)

・サインJOHN V. VAN PELT制作年月日:1919.12.30(大正8)NO187-8

 ・牧野克次遺品      ・40.3㎝×横89・宮嶋晃所蔵 ・撮影:竹田美壽恵

K:\牧野克次家族史関係\写真3克次設計図。勉学中絵画\2018.7.25~9.26牧野克次建築写真   3\牧野遺品写真\2018-08-01\NO9-1-NO36    高峰譲吉邸設計図日本東京渋谷邸4枚綴り\CIMG2776.JPG

 

(2)-2) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図 WEST EREVATION(西側の立面図・自宅の裏側)

サイン JOHN V. VAN PELT 制作年月日:1919.12.29(大正8) ・NO187-10

・牧野克次遺品       ・宮嶋晃所蔵 ・撮影:竹田美壽恵

K:\牧野克次家族史関係\写真3克次設計図。勉学中絵画\2018.7.25~9.26牧野克次建築写真   3\牧野遺品写真\2018-08-01\NO9-1-NO36    高峰譲吉邸設計図日本東京渋谷邸4枚綴り\CIMG2771.JPG

(2)- 3) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図  SOUTH EREVATION(南側の立面図)

サインJOHN V. VAN PELT制作年月日:1919.12.29(大正8)NO187-9

 牧野克次遺品           ・宮嶋晃所蔵 ・撮影:竹田美壽恵

K:\牧野克次家族史関係\写真3克次設計図。勉学中絵画\2018.7.25~9.26牧野克次建築写真   3\牧野遺品写真\2018-08-01\NO9-1-NO36    高峰譲吉邸設計図日本東京渋谷邸4枚綴り\CIMG2781.JPG

 

(2)- 4)  東京渋谷 高峰譲吉邸設計図 NORTH EREVATION(北側の立面図)

    サインJOHN V. VAN PELT制作年月日:1920.1.12(大正9)右に写真拡大

   ・NO187-11 ・牧野克次遺品       ・宮嶋晃所蔵・撮影:竹田美壽恵

 

 

(2)- 5)  東京渋谷 高峰譲吉邸設計図  BASEMENT PLAN

    サイン JOHN V. VAN PELT制作年月日: 1919.12.27(大正8) 

  ・牧野克次遺品                  ・宮嶋晃所蔵・撮影:竹田美壽恵

K:\牧野克次家族史関係\写真3克次設計図。勉学中絵画\2018.7.24\2018-07-24\NO9-1・NO2 高峰譲吉博士の渋谷邸建築設計図\P7240727.JPG

 

(2)- 6) 東京渋谷 高峰譲吉邸設計図  1階プラン

  サインJOHN V. VAN PELT 制作年月日: 1918.12.27(大正7)      

  ・牧野克次遺品            ・宮嶋晃所蔵 ・撮影:竹田美壽恵

  

 

 

(2)- 7)  東京渋谷 高峰譲吉邸設計図    2階プラン

     サイン JOHN V. VAN PELT 制作年月日: 1918.12.27(大正7) 

    牧野克次遺品              ・宮嶋晃所蔵・撮影:竹田美壽恵

 

3. 高峰譲吉邸の建設計画があったことを記されていた本

  (1)高峰博士 伝記叢書 塩原又策 173頁 大阪府立図館蔵書

    高峰譲吉博士が亡くなった年1922(大正11)年工学博士の高松豊吉氏は科学知識という雑誌1922(大正11)年9月号に「高峰博士を憶う」と追悼を寄せ、その中で「東京の郊外に地を求め暫く閑雅な郷土に親しまれる積りで準備されていた」と述べている。

    (工学博士の高松豊吉氏は高峰譲吉博士と若い時からの親友)

  (2)「高峰譲吉とその妻」の著者 飯沼信子氏 167頁 大阪府立中央図書館蔵

    「リバーサイドの本邸」や「松楓殿」設計者でもある牧野克次に静養出来る   

     ような所を探してくれと依頼したと記されている。

  (3)高峰博士の面影 52頁 高峰博士顕彰会  石川県立図書館蔵

    1919(大正8)年は最後の帰朝となったが、紐育に帰ってから心臓をそこない健康

    とかくすぐれないので、東京郊外に閑静な地を求めて菟裘(ときゅう)の計を

なすような準備もあったらしいのである。

菟裘(ときゅう:隠居)

 

4.東京・渋谷に高峰譲吉博士邸は建設されていた!

(1) 読売新聞記事 1922(大正11)年728日朝刊 5頁 

   タイトル

「高峰さんの遺族は米国に永住か  渋谷の屋敷は売却するらしい 」

  (高峰博士は1922(大正11)年722日にアメリカで亡くなった)

読売新聞記事内容(大阪市立中央図書館所蔵)

 米国で死去した高峰譲吉博士の告別式は1922(大正11)年(7月)27日午後2時から6時の間に三共薬品株式会社の専務 塩原又策氏の麻布飯倉片町28の邸内 大谷嘉兵衛 瓜生大将等故人生前の知己が相寄ってしめやかに執り行われたが 故博士が故郷日本で悠悠風月を楽しむべく作った市外渋谷の邸宅は時価に見積もれば五十万円を下らぬそうだし、アドレナリン、タカジアスターゼの権利を筆頭に生前発明した種種の新薬から入る利得を合算すれば…三百万円を下らぬと噂されている。……「…下渋谷の邸宅は博士が生前近く帰られて自身で処分せられる筈の所ああした不幸になった故、目下判らぬが誰も居らぬ邸宅はあのまま置けもせぬからこれも竹橋じゅん(高峰譲吉博士の妹)さんの帰朝と共に定(き)まる」と云っているが未亡人(キャロライン)や令息は渋谷の家を売却して第二の故郷米国に永住するらしいとは告別式の席上で誰彼となく噂に上っていた。

 

(2)東京・渋谷の何処に高峰譲吉博士邸があったのか?

 1) 現在の東京都市地図―27赤丸の所にあった!  (大阪市立中央図書館蔵)

 

 

   赤丸を入れている所 :東京都渋谷区広尾3丁目

 

2) 東京渋谷の高峰譲吉博士邸があったところ

日本近代都市変遷地図集成   (大阪市立中央図書館蔵)

江戸東京市街地図集成の231頁 1919(大正8)年~1922(大正11)年の住宅地図)

 

 

・高峰博士邸は、東京市豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字羽根澤195196197198番地にあった(現在の東京都広尾3丁目の赤で囲った所の1281坪) 

 

A. 赤十字病院(現在の日赤医療センター)の西側、

B. 渋谷第2御料地 東京感化院(現在の東京女学館)の南側

C. 江戸東京市街地図集成の231頁 (大正8~11年の住宅地図)と牧野克次の遺品で

目次2.(1)の高峰譲吉邸全景設計図と高峰譲吉邸の土地の実測平面図を突合した。

D. 牧野克次は高峰譲吉博士邸前の道路東側に巾43尺(約13m)日赤病院前道路(現在の日本赤十字社医療センター)と記載し高峰譲吉博士邸の北側に道路幅18尺(約540㎝)を挟んで御料地横と書いています。

3)- A

高峰譲吉博士逝去後東京渋谷邸の所有者は、三共薬品社長 塩原又策氏※②

   住所は東京市渋谷区羽澤町102番地(区画整理後)  1935(昭和10)年時点

『東京地籍図 渋谷区編第1巻』不二出版  東京都立中央図書館蔵

   内山模型製図社が発行した「東京市渋谷区地籍図(昭和10年刊)の復刻です。

区画整理施工後の資料 p.33 渋谷区「羽澤町」の地図  

  

 

 3)-B 東京市渋谷区羽澤町の塩原邸周辺 3)-A 拡大地図・昭和10年時点

 

ア、1918(大正7)7月の牧野克次遺品[目次2-(1)]の高峰譲吉邸全景設計図・実測平面図に井桁喜平氏邸、矢橋賢吉氏邸、矢橋邸敷地と記録されていたが、昭和10年時点の「東京市渋谷区羽澤町」地籍図、地籍台帳でも確認出来ました。

. 昭和10年時点の地籍地図の102番地には塩原邸と永井邸とがあり、次に明示した

地籍台帳では塩原又策氏が所有者になっていました。


 ※②
塩原又策氏 (高峰譲吉博士との関係での紹介)ウィキペディア参考

1877(明治10)年110日~1955(昭和30)年17

日本の実業家。三共株式会社(現:第一三共株式会社)創業者・元社長。神奈川県出身

 1897年、友人が渡米する折に、事業の探索を依頼し1898年に高峰譲吉が発見したタカジアスターゼの輸入販売権を獲得する。1899(明治32)年三共商店を設立。1902年、高峰譲吉のアドレナリンや1911年鈴木梅太郎(高峰博士の友人)が発見したオリザニンの輸入販売権を獲得し1913(大正2)年に三共株式会社を設立し高峰譲吉(アメリカ在住のまま)を社長に迎える。同社専務取締役就任1929(昭和4)年三共社長に就任する。

 高峰譲吉博士逝去後1915(大正15)年に塩原又策著「高峰譲吉」を刊行された。

(詳しくは・インターネットで第一三共の歴史や「高峰譲吉の生涯 アドレナリン発見の真実」著者:飯沼和正・菅野富夫 ・発行:朝日新聞社等 を参照下さい)

 

4) 高峰譲吉博士逝去後の

「東京市渋谷区羽澤町」地籍台帳  東京都立中央図書館蔵

         『東京地籍図 渋谷区編第2巻』不二出版

            内山模型製図社が発行した「東京市渋谷区地籍台帳」(昭和10年刊)の復刻です

昭和103月末現在 区画整理施工後の資料 p.162~165に「羽澤町」の地籍台帳

 

 ・羽澤町の番地欄に 102番地 ・所有者住所欄:東京市渋谷区羽澤町102番地 

・所有者欄:塩原又策氏で登録されている

 ・101番地所有者:井桁喜平氏 ・99番地100番地所有者:矢橋賢吉氏、矢橋みき氏

 

5) 高峰譲吉博士と高峰孝(高峰譲吉の次男)の東京での電話帳からわかること

A. 1919(大正8)年時点の電話帳   東京都立中央図書館蔵

東京中央電話局電話番号簿(大正841日)現行 p.366

  

 高峰譲吉博士は麹町永楽1-1東京海上ビル内に私設電話を設置しています。

高峰博士の次男エーベン孝氏は同住所に高峰興業株式会社の私設電話を設置し

又麻布、新龍土、10に貿易業として電話簿に登録されていました。

B. 1922(大正11)年時点の電話番号簿 東京都立中央図書館蔵

   東京中央電話局電話番号簿(大正1141日現行) p.309

 

高峰譲吉博士は大正11722日に逝去。上の電話帳は大正1141日現行のもので、高峰譲吉博士の電話番号は登録されたままで、高峰興業株式会社の私設電話は解約され、次男の高峰エーベン孝氏の電話は麻布飯倉片28 の塩原方(三共薬品株式会社専務 塩原又策邸)に移設登録されていました。


(3)牧野克次は東京渋谷区広尾4丁目1-4にあった久邇宮邸の設計もしていた!

 1)江戸東京市街地図集成Ⅱの231頁 (大正8~11年の住宅地図)に赤十字病院より南側を見ると久邇宮邸と書かれている。
   [.(2)-2)を参照 ]

 

2)牧野克次の略歴書に久邇宮御本邸設計案御下命其の為御紋章花瓶一対、装身具品々下賜と記し久邇宮御本邸設計図を残している。  

   

   大正7久邇宮邦彦王より賜った御紋章花瓶(写真)・牧野克次遺品

 

宮殿建築平面略図 大正五年四月 M号草案ノ三が残されていた

・牧野克次遺品        ・宮嶋晃所蔵 ・撮影 竹田美壽恵

東京都渋谷区広尾4丁目1-4 にある久邇宮邸は大正7年の竣工後戦災等で一部焼失したが

小食堂や玄関、大正13年築の御常御殿は焼失を免れた。御常御殿の設計は森山松之。

現在の聖心女子大学の中に久邇宮邸は残っている。

3)

1909(明治42)ハドソン・フルトン航海・探検家の記念祝祭に明治天皇の御名代として

久邇宮邦彦王御夫妻様(香淳皇后の両親)が出席された。

その折にニューヨークにあった高峰博士本邸と高峰博士の別荘があったメリーワルドの松楓殿を訪問され、高峰博士本邸の観望台から展望され大変喜ばれた。と牧野克次著

「高峰邸」の冊子に書いている。又、久邇宮邦彦王御夫妻様は松楓殿に宿泊され高峰博士と共に過ごされている

 

5.日米親善のため活動をした高峰譲吉博士(無冠の大使と云われる)

  紐育から160キロ離れたメリーウォルド・パークに別邸「松楓殿」=1904年セント・ルイス世界博覧会に日本政府が建設した建物の払い下げを受けてこれを改築し米国流の実生活に適応できるようにすると共に家屋庭園に純日本様式を備え日米両国の粋を集めた異色ある邸宅=がある。又紐育のリバーサイド・ドライブには1910年~1912年に建築した和洋折衷の広壮華麗、美尽くし善尽くした本邸がある。

 高峰は常に人に語りて曰く「余の社交の目的は、私利私益を謀るに非ずして日米の国交を親且つ密ならしめんとするにあり、これ余の使命なり」としてこの両邸宅を国民外交の場として役立てた。

(1)日露戦争中の20カ月間に日本の実情を訴え借款を得る為、金子子爵の陰の力として東奔西走した高峰は、講和正に成らんとする1905(明治38)5月リバーサイドの邸宅を開放して大規模な金子子爵を主賓とする集会を催した。知名の欧米人100余名、邦人の有力者30余名の盛会だった。当日夫人は黒紋付の楚々たる和服姿で賓客の接待につとめた。

(2)1915(大正4)年渋沢男爵の一行が欧州大戦終結に対する米国識者の意見聴取、加州同胞問題の緩和、万国日曜学校開催等の平和的目的をもって渡米した際には、彼は直接間接百方斡旋の労を尽くした。

 ・日本外交史上に異彩を放つもので、実業界の巨頭モルガンロックフェラ―を始め商業会議所長アフターブリッジ紐育大学総長フィンレィ、グリーンその他政界・教育界・科学界・躁觚界(文筆に従事する人々の社会)等米国一流の人物50数名を網羅して母国の代表者と懇談し、日米両国民の相互理解と共存利益の為に尽くした。

(3)1917(大正6)石井ランキング協約を持った一行が来米の時に紐育市長と提携して大歓迎会を催す。

  ・目賀田男爵の経済特使一行が食料問題・募債問題等の重任を帯びて来米時の斡旋

   その他高峰博士の活動の事例は数限りなく多い。

      (高峰博士の面影  高峰博士顕彰会  石川県立図書館蔵参考)

 

6.渋沢栄一の帰国反対で、アメリカで骨を埋めた高峰譲吉博士


(1)渋沢栄一の追悼演説 [1922(大正11)年11月東京帝国ホテル]

1919(大正8)年高峰博士は最後の帰朝となったが、紐育に帰ってから心臓を悪くし

健康がすぐれず1921(大正10)年、渋沢男爵来米時「帰国したい」と相談した。

  渋沢栄一はその時のことを次のように述べている。

 「…私はこれに対して反対の意見を呈したのでございます。あなたの経営が単に学理ばかりでなく実効があった事を深く悦んでいますが、… 大いに骨を折られた日米関係は、進んでおりません。ややもすると色々な紛議を生ずるという事は免れないあり様です。年齢において私は10以上の年上であるけれども、老体を引っ提げてはるばる

  出かけて来て心配しました。同じく日本の国民で国を愛する気持ちは同じです。

  君が紐育におられて自ら日本の重きをなすことはいかばかりかしれない。日本人に

  ああゆう人があるといえば自ら日本に重みを与えるのである。… 私がかくして来るのも君が留まるのも同じ働きではないかとまで思うのである。

  君の如く日米の間に立って且つ日本人の標本たることの出来る者はない。

  …御病気はお厭いなさるがよいけれども、望む所はもう10年アメリカに留まられたいと希望する …と申した所が(高峰博士は)『大いにそれもそうだ考え直しましょう』

      という事だったが、それがお別れになった。」と。

(高峰博士の面影 高峰譲吉博士顕彰会 石川県立図書館蔵) 

(2) 高峰譲吉博士の決意の手紙  [1922(大正11)年2月7日付け]

高峰博士は自分の帰国に関して高峰家と親戚になる政治家、実業家だった

木津太郎平氏に、手紙を送っている。

             手紙の内容

 先般実業団の渋沢子爵その他一行がアメリカに来られた際過労を覚えて昨(1921)12月中旬より床に伏しており目下療養中であり一時は皆様にご心配をおかけして頂きましたがただ今はお陰様で非常に軽快でありこの分であれば遠からず全快すると予想しています。

   渋沢子爵とはアメリカにて親しく御面会する機会を得て長らく細々としたことまで

  話し合いました。その際私に対し帰国の意思を翻してアメリカの土となる決心で、

日本の為に尽くして欲しいと説得されました。私も過去30年余り(日米親善に)尽力してきましたので、それを捨てて帰国する理由も見出せず、いずれにしろただ今はそのように決意しています。以上のような状況ですので先年来計画している今春の帰国は難しいですが今秋には健康が許せば一度帰国したいと思っています。高峰譲吉」

・(松楓殿再現記念特別展「松楓殿を彩った家具調度品/郷土の偉人高峰博士の功績」:

 2020(令和2)327~29日実施 上記は高峰博士の功績を紹介された資料一部より

・(再現展示「松楓の間」: 2020(令和2)327日~  高岡商工ビル1階 )

現在も高岡商工ビル1階に「松楓の間」常設展示中

(高峰譲吉博士顕彰プロジェクト/ 富山県高岡市・高岡商工会議所)

 

 () 高峰譲吉博士、最後の日米親善活動

1921(大正10)年渋沢男爵一行の実業団の外、ワシントン平和会議参列の日本委員団の渡米も同時にあったので、高峰博士は主治医の厳命をも聞き入れないで、病衰の身で、ワシントンにおける長時間の会議に列席したり、多くの招宴に臨んだり、過度の活動を続けてうまくいくように取りはからった。これが原因で病勢が進み12月再び

  臥床して立つこともできず、翌1922(大正11)年722日日米両国和親の象徴は遂に消え去った。  

   (高峰博士の面影  高峰博士顕彰会  石川県立図書館蔵)

 

7.高峰譲吉博士の逝去を大きく取り上げた米国の新聞社

   高峰博士が亡くなりヘラルド紙では、社説をもって「ワシントン会議にあたり不健康の身をもって、なお東奔西走して日米親善増進に努力せる誠意は、博士の死を早めたと称する事ができる。高峰博士の逝去によって、日本は偉大なる国民の一人を喪ったとともに、米国は得難き友人を、而して世界は最高の化学者を喪ったのである」と賛辞を述べた

そして「紐育タイムス」「夕刊ウォールド」「紐育ウォルド」「雑誌ネーション」「紐育トリビューン」等も社説において国民外交家としての大き足跡をほめたたえた。

 8.わかったこと

  (1)今回の牧野克次の遺品発見により高峰譲吉博士は1918(大正7)722日以前に

 牧野に依頼し東京渋谷の高峰譲吉博士邸建設の準備がされていた。

  (2)牧野克次が総監督で設計し紐育高峰譲吉本邸建設と紐育日本倶楽部建設を共に

    仕事をしたJOHN V. VAN PELT (コーネル大学教授・佛國風の建築学者・

   高峰譲吉博士の妻キャロラインの従兄弟)の設計図があり今回も協力しあっていた。

   牧野克次の最初の原案を取り入れ訂正が加えられた設計図が残されていた。

(3) 牧野克次の建築設計図から 東京渋谷高峰譲吉邸の住所がわかった。

  A.大正8年時:東京市豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字羽根澤195,196,197,198番地。

(現在の東京都広尾3丁目)の1281坪 

  B.昭和10年時:区画整理により東京市渋谷区羽澤町102番地になっていた。

 (4)  東京渋谷、高峰譲吉邸は自宅前に日赤病院(現在の日赤医療センター)があり,

   その南側に高峰博士と親しくされていた久邇宮邦彦王夫妻の住居も近くにあった。

 (5)  高峰譲吉博士は1919(大正8)年暮れアルミニウム製造打ち合わせの為日本へ帰国され翌年1月黒部川(富山  県)水力発電所建設許可になる(アルミニウム製造の為の電力確保の為)1920(大正9)4月ニューヨークへ   戻りました。※➂  

   この日本滞在中、高峰博士は東京渋谷高峰邸の建設状況を見られたのではないかと思いました。この時が、高峰博士の最後の帰国となりました。

  

9.おわりに

 東京、渋谷高峰邸設計図の発見で、画家、牧野克次と高峰譲吉博士は晩年まで信頼関係が築かれていた事がわかりました。

 牧野克次は1942年(昭和17年)戦前東京で亡くなり、第2次世界大戦末期昭和

205月の東京山の手大空襲を受け、牧野の自宅や疎開用に準備していた荷物は殆んど焼失しました。

今回の遺品の発見で、牧野克次自筆の略歴書もありアメリカでの活動内容や帰国後の活躍なども解って来ました。画家牧野克次の業績を改めて評価される機会になって欲しいと願っています。

 

最後に宮嶋晃様(牧野克次の曾孫)、妻の泰子様、大阪市立中央図書館様、大阪府立図書館様、石川県立図書館様、東京都立中央図書館様に多大な、ご協力を戴き感謝申し上げます。

 

参考文献 ※➂:高峰譲吉の生涯  アドレナリン発見の真実

       著者:飯沼和正・菅野富夫  発行:朝日新聞社 大阪市立中央図書館蔵 

 

※①宮嶋サロン:宮嶋八藏(映画監督、溝口健二氏の内弟子助監督・平成27年没)のサロン 

   妻の春様は、画家牧野克次の孫になり、長男晃様は曾孫になる。

  

ホームページ「宮嶋八藏日本映画四方山話 http://katsu85.sakura.ne.jp 」

        1.宮嶋八藏妻の家系(牧野克次の家族と人生)

    2.NY高峰譲吉博士本邸(牧野克次の遺品が語るNY高峰譲吉博士本邸)

3.NY日本倶楽部 (牧野克次の遺品が語るNY日本倶楽部)

4.全米桜まつり  (高峰譲吉博士と画家、牧野克次と全米桜まつり)

5.牧野克次の妻、兄弟、一族 

6.二十日会と牧野克次     以上は上記ホームページに掲載中です。

 

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