雨月物語

溝口健二作品「雨月物語」で、私、内弟子助監督がした仕事

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                                       平成19年6月     著  者        宮嶋 八蔵
                               口述筆記        竹田 美寿恵
                        ホームページ担当       勝  成忠

前に述べましたように、昭和26年10月に大映京都撮影所に助監督として入社となります。試用期間3カ月は給料4300円(その頃、学校の用務員さんの給料が7700円の頃です)試用期間が過ぎ本社員になりますと端数300円はカットされ4000円のギャラダウンとなります。
 その試用期間の間は普通のフォース助監督の仕事をします。御師匠さんの雨月物語に付くまでは母人形、愛妻物語、大暴れ孫悟空、西陣の姉妹(吉村公三郎監督)など14~15本付きました。
今私のノート(雨月物語の時の準備メモ)を紹介します。
原作は上田秋成です。1768年(明和5年)成稿 76年(安永5年)刊。
「白峰」以下日本、中国の古典から選んだ怪奇小説9編から成る。脱化した怪奇小説

台本、準備稿より決定稿までの使用済み台本、香盤、大学ノート、の内容項目紹介

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【台本 準備稿】
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【台本 決定稿】

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      【香盤 第三稿】

Note
     【映画製作メモに使った大学ノート】
と大学ノートに記入したメモImg001


  
  【使用済み台本の 1 】     
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【使用済み台本の 2 】
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【幕 1.2.3 シーン メモ】

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<クランクインまでの参考文献> 大学ノートより  その当時撮影に使った宮嶋八蔵の大学ノートに記載してあります。

 1.日本結髪史 2.日本経済史 3.日本史図録  4.浮世絵年譜
 5.絵巻物集成 6.金剛流能面 7.日本食物史  8.日本歌謡集成
 9.古実叢書  等

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 角川ヘラルド映画社の溝口健二没後50年記念で「溝口健二大映作品集 DVD」が発行され制作者の五影雅和さんよりそのDVD2巻を頂く迄は各作品の前に付けられた説明映像を観られませんでしたので、その映像内容の真実に非常に遠い事実に気がつきませんでした。
 今回の説明の進め方としては角川ヘラルド映画社のDVD内では、ストーリーを各チャプターに分けられ、それにタイトルが付けられていますので、そのタイトルに沿って説明しょうと思います。

1.<オ‐プニング>
 タイトルバックは絵巻の文机(高津商店よりの小道具)3つ程変えている。

 2.<近江国琵琶湖の北岸>
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ロケ地は伏見の裏山に建てこんだ窯と源十郎の家、同じ釜と家の表、中をセットとしてだぶらせて組んでいます。
 荷車の舵棒を1本にするか両腕で持つ2本にするかと、もめたが、少々関東風になるかも知れないがと思いながら1本舵に落ち着きました。

3.<銀3枚>
貨幣史の調べによると、当時の庶民の通貨は銀本位制になっています。
田中絹代さんのしている前掛けは広幅前垂れになっている。
お遊様に比べると雨月物語はカットが短くなっていてバストサイズやクローズアップもある様になりました。大体芝居は一芝居を固めて撮って、寄りの部分はカットインしているのです。
「おい!見ろ!干し魚、油、へしこ、甘ずら、もち」というセリフがありますが、「甘ずら」とは蔦から採った甘味料の事です。

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【家庭団欒がオーラストの宮木が源十郎を迎えた時の伏線となっています。】

1シークエンスが終わるとフエードアウト、フエードインして場面転換をすることが溝口流です。


 4.<宮木の願い> 

庶民はこの時代、寝布団はありません。着物を着たままその上に着物を掛けて眠るのです。

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【陶器の焼成】

 タイトルに、陶技指導は楽焼きの永楽善五郎さんとなっていますが、3回位来られただけでした。下げ板(陶磁器を運ぶ板)の持ち方や陶技指導、釉薬(うわぐすり)の掛け方、窯に松割り木を投げ入れる指袋も作って焼き方の指導を私、宮嶋が致しました。蛇ヶ谷の清水焼、登り窯を参考にしました。私は復員後1年間義兄の寿陶器で陶器製造の仕事をしましたのでそれが役に立ちました。
   楽焼きと登り窯の本焼きとは、焼成温度も焼き方も釉薬も全然違うのです。
広辞苑によると、楽焼きとは、・手づくねで作る鉛釉(鉛入り釉薬)。京都産、赤、黒の2種あり千利休の指示で初代、長次郎が始め3代道入(別号のんこう)も名工。長次郎と共同作業した田中宗慶が豊臣秀吉から「楽」の金印を賜り、以来屋号とする。・一般に素人などが作る低い火度で焼いた陶器。

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 女性は家庭の平和を願い、男は野心に燃えるという本質がある。 


5.<軍勢を逃れて>


6.<船路> スチール写真 5、6、7

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ワンカットのロングはロケーション、後は全部セットで行いました。小津安二郎監 督より「どこでロケーションしたのか」と問い合わせの電話がありましたようにセットがばれなかった。
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霧、雪、雨のようなものは効果部の仕事ですがこの時は照明部のチーフ岩城さんがスモークをたきました。
 湖水のセットは、セットの中にプール型の木の枠を組んでその上にキャンパス(テント生地)を張ってプールにしました。現在のビニールがないので、もともと水漏れ予防の細工をした物(キャンバスは布)ですので、隙間からぼとぼとと水が漏れて録音の邪魔になりました。水漏れの音を抑える為に何度も絞り雑巾を水の漏れ口に詰めるのです。舟は針金を舟底につけてその先端を助監督が持って芝居に合わせ操作しているのです。真冬の撮影なので、私の下のフォース助監督の友枝金ニ郎君は足に凍傷を作りました。
 
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この場面の宮木の着ている着物は辻が花です。
・辻が花は室町中期から江戸初頭にかけて盛行した手描き花柄絵模様染。草花文様を紅色に染めたもので、麻布の単物(ひとえもの)のかたびら。
・田舎の窯元が高価で買えるようなものではないと考えられるが、その時のドラマのキャラクターには実にふさわしい。溝口監督は実証主義のリアリズムであると云われていますが、クソリアリズムではないのです。
芝居の雰囲気と役のキャラクターを優先させているのです。
辻が花の余談辻が花の衣装は雨月物語の後、男物の着物に仕立て直され他の作品で脇役をしていた、荒木忍さんが着ていたことがあります。次にはこの衣装を見たのはその他大勢エキストラ達が着る衣装の中に混じりこんでいたのを見ました。京都衣裳の係が不勉強で知識が不足していたのでしょう。勿体ないことです。

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 舟を漕ぎながら阿浜が唄っているのは、大日本歌謡集成(梁塵秘抄)から取り出した今様歌です。
 今様歌とは、平安中期から鎌倉初期にかけて流行した新様式の歌。七五調4句のものが代表的で、和讃や雅楽の影響から起こる。白拍子、遊女などが歌い、宮廷貴紳にも愛誦され、後には宮中の節会などにも歌われた。


 
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7.<大溝城下>

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 市場の大勢もかぶり物から持ち物に至るまで助監督が最初はガリ版で、次には毛筆(蠅頭や面相筆等も使って)でトレーシングペーパーに書き写し青写真にしてスッタフルームに展示すると共に各部(俳優部、撮影部、小道具、衣装部等)に配布するのです。その他大勢の俳優さんも自分の職業が分かると、衣装、小道具、持ち道具、被り物を知る事ができます。持ち道具などは一人助監督が小道具部屋の前へ行って直接手渡しながら、その俳優さんの扮装テストも済ませるのです。
 
 別紙添付  雨月物語  風俗資料図 

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8.<手ごめ> スチール写真 88
 

  阿浜が野武士に手ごめにされる所、今の映画のように手ごめをする所をそのままズバリ見せない。それは、そういうものの中に作品の品位を失わせるものがある。それよりも、侵された事を観客の思考を刺激して想像させたほうがずーと強烈で刺激も強い。さらわれた後の履物の描写カットがそれ以前の刺激に追い打ちをかけているのです。
  ここの歌は、膨大な日本歌謡集成から選んだものです。この歌謡集成は私が古本屋で見つけて溝口先生に買って貰ったものです。これはシナリオ作家の依田義賢さんも探しておられて、本屋に行かれたところ「先に買った人がある」「八ちゃん、お前が買うたんかいな、溝口邸に納まって良かった。」という付け足しの話もあります。私が27,8歳の時でした。
  欲望を満たした野武士の両股越しに見える阿浜の脇に投げられる銭の音にも気を配りました。この銭音が大きな芝居(訴え)をしているのです。銭と出世欲の2つに絡めた男、籐兵衛の象徴でしょうか。
  阿浜がお堂に出て籐兵衛に対する恨みことばを投げつけるのですが「バカヤロウ、見るがいい私のこの姿を、女房がこんな姿になってさぞ満足だろう。それで出世が出来るのなら大満足なんだろう。籐兵衛の大バカ野郎、籐兵衛のバカ者」と言って座り込む阿浜。この台詞は自分の感情の説明台詞なのですが、これは印象に残さなければならない場面です。後半、籐兵衛が侍大将になって女郎屋で阿浜と再会する時の伏線になっているからです。この場面はしぶといほど何10回もテスト、テストの繰り返しでした。セリフの絶叫とは別にテストで身体が疲れてクタクタと座り込む真実性を掴みたかったのでしょう。これも何度か観ている内に解ったのです。この最後の夜、水戸光子さんのボヤキを聞く会をやって一杯飲んだと田中徳三チーフ助監督から聞きました。この場面で何回もテストを繰り返した溝口監督の意図はチーフの田中徳三さんにも気が付かなかったのでしょう。

9.<朽木屋敷>

 市場から朽木屋敷へ焼き物を届ける場面  スチール写真9 9, 9

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 テーマミュージックが流れている 幸せな時、平穏な時に流れている雨月物語用に作られた。

 スチール写真 10.11

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 源十郎と若狭の出会いからお化けの正体となって消えるまでに、京マチ子の
メイキャップは3度変わっています。参考にしたのは、金剛流能面です。今手元に能面の写真集は持っていませんが、最初は孫次郎と呼ばれる少女の能面であったことを覚えています。
 琵琶湖の芒ヶ原のロケーションの後、オープンセットに繋がるのですが、そのオープンセットは直接セットの入り口へ繋がっているのです。ロケーションの後、朽木屋敷に繋がるのですが、まずセットの前に庭の木戸の入口があってオープンセットの庭関係は直接朽木屋敷のセット内の玄関へと繋がっているのです。
 ロケーションの配光からオープンセットのやや夕景のライテングそれからセットへ繋がる。そのライテングは非常に難しいものです。照明技師の岡本健一さんと撮影の宮川一夫さんだからこそリアルな映像として撮影出来たのでしょう。

芒野ロケーションから朽木屋敷の裏木戸がバタン、バタンと揺れています。そのバタン、バタン屋は私が担当していました。
塀に源十郎と若狭と老婆右近の3人の影が塀に流れてセット荒れ庭の入口に入ります。
キャメラ位置は必ず溝口先生が指定されました。その後、ちょっと俯瞰やローとかのキャメラ操作の変化は宮川さんまかせでした。全部宮川さんまかせ
というのは間違いです。確かに宮川さんの芝居のつかみ方が上手でありましたから、先生からの余計な注文は少なかったというのが真実です。撮影はキャメラマン任せで芝居をつけるだけなら映画監督は要らないでしょう。そんなのは芝居だけの演出なら舞台監督で結構です。映画監督は要りません。
角川ヘラルド映画制作、「溝口健二没後50年特別ディスク時代を超える溝口健二」の中で田中徳三氏は「溝口監督はカメラを覗かず、芝居だけを見ていた。カメラは、宮川さん任せであった。」と述べていますがそれは間違いです。キャメラの真横についたファインダーの後にはどのスナップスチールを見ても溝口先生の目が光っている姿が映っているはずです。小津安二郎監督のようにカメラマンを押しのけて直接レンズを覗く監督ではなかったのです。カメラマンのように直接レンズから被写体を見ていないのですが、キャメラの横に付いているファインダーから同じ映像を見ておられるのです。
 セットの天井には、大型ライトを置く台とそれを運ぶ通路が走っています。
それをガッショ(どんな字を書くか解りません)と呼んでいました。祇園囃子の大ラストの撮影の頃溝口先生はガッショの上まで上られたのです。それは、カメラの位置を視る為です。ガッショの上まであがられた監督を私は他に知りません。キャメラ位置を宮川さんまかせと言うのは間違いです。キャメラ操作は宮川さんの仕事です。
チーフ助監督には、スケジュール主体の制作部的助監督と現場主体の助監督の2種に分かれます。制作部主体も大切なのですが、田中徳三さんは制作部主体で現場へ出られる事は少なかったのでしょう。余談ですが、黒澤監督は、助監督時代制作スケジュールも現場関係も両方に素晴らしい方だったと監督新人協会(助監督の会)で聞きました。


10.<契り> スチール12  スチール13

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  料理が運ばれて来たその内容


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(ノートに記載してある。)撮影 東大寺の食物史で調べた。
   小道具の海老瀬さんが述べていますが、助監督が食器、料理の内容の注文を出しそれを作って出すのが小道具の仕事です。
   古陶器大観を入れる。
11.<若狭の舞>  
12.<芒の庭の宴> スチール14


  寝室から岩風呂の終わり迄のシーンは観客の想像を期待してのカット割りになっています。直接的な表現を避けて観客の思考に委ねるのは自信と勇気と決断が要ります。観客の知性を信頼するからこそ出来るものです。
  岩風呂から芒が原の宴へのつなぎは、江戸中期の画家、尾形光琳の代表作「紅梅白梅図屏風」の感じです。この屏風は男女の睦み合った姿を秘めています。溝口監督より「その感じで撮って下さい。」と言われ私が美術全集を持って、宮川さんに届けました。紅梅白梅の絵を入れる

 
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 ③スチール15

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芒が原の宴は琵琶湖畔のワカモト(消化剤の製薬会社)の社長の別荘を借りたものです。応接間には本物の火縄銃が飾ってあったのが、印象的でした。元に戻りますが、敷物は五羽鶴という馬の尻尾の毛で編んだ珍しい贅沢な大名家らしくしています。 

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歌と一緒に湖水に響く鼓の音には苦労をしました。グランドピアノの蓋を開けて弦を剝き出しにします。鍵盤の上は蓋をします。金剛流の鳴り物師小寺金七さんが鍵盤の上に反り繰り返って鼓を打つのですがそのような形ではひっくり返ってしまうので、私が小寺さんの両足を押さえつけて固定していました。
    今ならエコーマシーンがあって鼓の音にエコーをかけるのは簡単なんですが、さてどちらの音の方が効果的だったのかは分りません。録音の大谷厳さんが角川ヘラルド映画社の「溝口健二没後50年特別ディスク」     で語られている通りです。
13.<飢えと迫害の果てに>
14.<偽りの手柄> スチール16


   籐兵衛が「頭だ知恵だ」と演説しているところは、孫子の兵法から採ったものです。  皮肉な漫才ばやしをバックで流しています。

15.<阿浜と籐兵衛> スチール17、17´



籐兵衛と阿浜との出会いから井戸の裏へもつれ込む芝居場は溝口流の長回しとなっています。

16.<老僧> スチール18
  スチールと参考にした絵もあります。帽子参考資料
  老僧は阿じゃ梨です。
阿じゃ梨というのは・師範たるべき高徳の僧の称・密教で修業が一定の階梯に達 し伝法灌頂により秘法を伝授された僧。・日本で天台、真言の僧位のことです。
17.<さまよう想い> スチール 19

  源十郎の身体の魔除けの凡字は甲斐庄楠音先生が書かれました。「もう一つだねー」と言いながら甲斐庄先生は首をかしげられていました。私、宮嶋が「先生キララはキララはどうでしょう」「アッ そうだ!」と甲斐荘先生が言われました。
 きららというのは、浮世絵の大首やらフルサイズの人物の背景に振る雲母粒のことです。この凡字がキラキラと光って神秘的な感じを出しているのは浮世絵版画からの発想です。
  源十郎が朽木屋敷の縁側から庭へ転げ落ちる場面は、3回テストが行われました。2度のテストで3回目にオッケイとなりました。キャメラ位置は俯瞰です。先生はキャメラの横におられます。私は丁度芝居をしている森さんに近い位置に身を隠していました。3回目の本番の時森さんは縁側から敷石に転げ落ちた時ごつんと大きな音がしました。本番が済みOKになると、すぐ森さんの処へ駆け寄りました。
 森さんの頭に手をあて「森さん大きな音がしたし頭にコブができていまっせ」といって擦りました。森さんは「一生懸命になっていると何も自分では感じなかった。この監督さんは大変な大物ですよ。八ちゃんがんばりな」と言ってくれました。
 雨月物語までに吉村公三郎監督の組みで森さんとは2度ばかり一緒の仕事にかかわりましたのでよく知っています。森さんに教わった重大な芝居の事があります。 「普通映画ではロングとか寄りとかクローズアップとかサイズを変えて観客の思いを引っ張り回すけれども、舞台のように客観ポジションだけでも舞台役者は芝居によってアップの手元足元バストのサイズ目元まで芝居によって観客の視線と意識を集めることが出来る。」と教わりました。溝口先生のロング演出を思い浮かべて下さい。

18.源十郎の帰宅
  源十郎が腑抜けのようになって自宅へ帰って来て、宮木の雰囲気とその見えない影に呼ばれて、家を廻るのです。又入って来た時、食事と夕餉の明かりをつけて鍋をかけ、生活のよそおいを作る仕事は助監督の仕事です。
 小道具係は助監督や美術部からの注文で道具は調えますが、それを設定して動くのは助監督の仕事です。芝居に関係するものですから、よその部は関係しないのです。その設定は友枝金次郎と私宮嶋がしました。
   ここの場面について田中絹代さんが後日語っておられた事を聞いたことがあります。「OKが出て森さんがホッとして近くのスタッフよりタバコを貰って口につけました。溝口先生は『御苦労さまでした。』と大満足な様子で森さんのくわえタバコに自分のライターで火をつけられました。」と絹代さんの話。その時のたばこは私が森さんに差し上げたタバコです。

19.戦いの残した傷跡

追加
 源十郎と若狭の出会う市場のモッブシーン等は香盤と仕出し、特殊仕出し等人数、風俗、男女別等等一括整理した資料は私が作成しましたので残しています。それも膨大な量ですので部分紹介にとどめます。
  資料の一部を入れる

詳しく知りたい方は竹田を通じて連絡して下さい。 
竹田連絡先 TEL 06-6397-5372




2.先にも溝口組の特徴を述べましたが追加します。
 1)田中徳三氏は「溝口組は徹夜が多い」と言っていますが、溝口組での徹夜は1回ありました。夜10時迄の夜間は始終ありましたが徹夜はしないのです。10時に夜間送りする為の自動車を用意するように自動車部へ伝えるのは内弟子、私の仕事でした。
 10時以降の夜間をすると人間の通常の生理に逆らう事になって仕事などは出来ないというのが溝口先生の持論でした。
 覚えているのは、唯一度だけ山椒太夫のアフレコでした。アフレコルームでは声が籠りますので、映像を反射させて戸外のスクリーンに映すのです。場面は山椒太夫の一部、厨子王の母、田中絹代さんが岸壁に立って「厨子王!」と叫ぶアフレコ場面です。外の雰囲気もざわめきがありますので、夜間1:00からアフレコをしました。ブースからアフレコ迄離れていますので、その間に監督の声が田中絹代さんに届くようにマイクを付けるのが常識ですが、溝口監督はそのマイクを付けさせないのです。そこで田中絹代さんと溝口監督の間を走って連絡する係をしたのが私1人でした。私が俳優さんに夫々の監督のだけでなく他の言葉も必要になってくることがあります。その話している内容は全て溝口監督に聞こえているのです。他の助監督はそれを恐がって逃げてしまっていません。私は内弟子ですから当然逃げられません。
 「明け方近くにもう2度ほどテストをすれば声が枯れるでしょう。その時に回しましょう。」と言われました。 
2)溝口組では撮影スケジュールをはみ出して完成予定日を超えたということはありません。山椒太夫では、
3日間監督が流感でお休みになりましたが、それでも規定、期日に遅れなかったのです。他の組の作品で私が付いた市川昆監督の「破戒」は1週間まるまるの徹夜をやらされました。衣笠組は昼と夜とを置き換えられてしまうのが度々でした。短い切り返しのカットなども中抜きをしないで順どりをするものですからライト移動だけでも時間がかかります。
 当然夜間料は昼寝ていても夜働いているのですから、夜間料がつきます。その金額は大きくなります。そういうお金を各組に理屈をつけてばらまいて予算を合わせていたのが所長になる前の鈴木あき成とその子分の値切り松と言われていた松原でした。溝口組も衣笠組の夜間料のつけがまわってきた被害者でした。溝口組はしぶとく粘ったうるさい人という印象を膨らませて衣笠組の予算はみだしを背負わされていたのです。
 私がそのような事を知っていて田中徳三氏は知らなかったのでしょうか。                      
3)テスト本番の掛け声は監督によって異なります。
 安達伸生監督は笛を吹きました。「ヨーイ、ドン」と云った監督もいました。ふざけた感じで嫌でした。普通テストの掛け声は「用意ハイ!」です。本番では「用意スタート」です。
溝口監督の掛け声はテストでは普通の「用意ハイッ」ですが本番は違います。助監督が「本番!」と声をかけますと「小道具さん良いですか美粧部さん、結髪部さん良いですか照明部さん良いですか!録音部さん良いですか!撮影部さん! 良いですか!」の連呼が監督の口から出ます。最後に「助監督良いね!!」と各部へのダメ押しの後で「ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ、スタート!」となります。最後のヨーイが何度も続くものですから「現場の見えない録音ブースでトラック、フイルム(録音)のスイッチを入れるのに困った」と録音チーフに聞きました。以上の掛け声はスタッフ全員が各持ち場の責任を再確認せよということです。「カット!鬢の毛がほっつけました!」小道具「酒盃の位置が違っていました。」
 助監督「キャメラ前の仕出し持ち道具と被りものがあっていません!」と言うが如しです。
溝口監督は文句一つ言わずに撮り直して下さいました。このような撮影現場なので、スタッフは一寸セットを抜けてお茶でもと言う訳には、ゆきません。」監督の真剣な取り組みとスタッフの責任感との勝負です。俳優さんも同じです。「先生失礼しました。もう一度お願いします。」と言えるのです。
 各裏方部門の責任者はその部門の専門家です。常日頃から何度も溝口監督に聞かされていた言葉は「専門家を大切に判らぬ時は専門家に聞きなさい。」と云う言葉でした。監督は監督業の専門家、風俗学者は学者の専門家、守衛さんも掃除婦さんも専門家です。他の職業では判らない専門知識があるのです。助監督はその裏方専門家にも表方の俳優さんにも注文を出さねばなりません。一層の広い勉強が必要だと仰っていました。「本番、お願いします。」「本番!!」と叫ぶのは助監督の仕事。監督の顔色と芝居の仕上がり具合を見計らって、本番の声を出すのです。

4)先に述べましたが黒板システムでの黒板には、依田さんのシナリオのト書きは書きませんので、自由な修正が利くのです。「修正に困ると『シナリオライター依田を呼べ』と言われた」と田中徳三氏はいいますが1回も呼んだ記憶がありません。(依田さんとの連絡は私の仕事です)溝口監督が黒板の前でセリフを決定して記録係に書きなおしたのです。シナリオ修正については「山椒大夫」紹介の折に詳しく述べます。
5)内弟子助監督は溝口邸図書室の全ての図書に目を通して不足分は図書館巡りをもするのです。メイクの小林昌典さんや衣装、結髪部の溝口組のスタッフと図書館で出会う事もありました。こんな事は他の組には無い事です。参考図書の例は林屋辰三郎先生に教わりました。
6)雨月物語が済んで、次の作品の頃には、複写コピー機が売り出されていましたので総務部の主任が気を利かせて「買いましょうか?」と云うてくれましたが溝口先生は即座に「便利だろうけれども助監督が覚えません!!助監督本人の為にも良くはないでしょう。」と断られました。
                           H.19.6.4
口述筆記  竹田美壽恵
     写真、資料パソコン挿入応援 勝  成忠

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(
おわり)

 

20076 8 () 1545 | 固定リンク

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コメント

 はじめまして。溝口健二監督の一ファンの折居と申します。
以前から溝口監督に関するファンサイトを作っておりましたが、
溝口監督に関する貴重な証言を残されている宮嶋先生のサイトが
存在するとは、寡聞にしてつい先ごろ知ったばかりで
お恥ずかしい限りです。

 巷間に流布されている溝口健二=奇人変人説には密かに憤りを
感じており、宮嶋先生のインタビューや成澤昌茂氏の証言を
弊サイトで大幅に引用させていただいていたのですが、
宮嶋先生御自身のお言葉が直接読めるサイトは大変に貴重
だと思います。

 大変な残暑が続きますが、宮嶋先生とサイト製作者の
皆様には、これからも貴重な証言を我々邦画ファンに読ませて
いただけると幸いです。楽しみにしております。

投稿: オリイ | 2007825 () 1950

宮島八蔵先生。「雨月物語」のブログを書き記すにあたり、先生のブログを拝読し、僭越ながらトラックバックをさせていただきました。大変貴重な資料、ありがとうございました。私は今、映画の学校に通って、映画の勉強をしております。今後ともご指導の程よろしくお願いいたします。

投稿: 谷国大輔 | 20071010 () 0233

折居様 私のブログをご覧頂いただき、メッセージを寄せてもらいありがとうございました。
朝夕涼しくなりましたが、温暖化の都合でしょうか夏やら春やらわからなくなって、夏過ぎた今、桜がさいたりしますので俳句の季寄せも当てにならなくなりました。
 この度「宮嶋八蔵 日本映画四方山話し 団子串刺し私の履歴書」「溝口健二先生作品『雨月物語』で私、内弟子助監督がした仕事」にアクセスして投稿して下さり、私にとりましても大変励みになりました。有り難うございました。
 新藤兼人の「ある映画監督の生涯」を中心として作られた嘘の溝口健二像が世間で定着しています。溝口先生は作品の上でもスタッフを含めた人間同士の生活の中にも、嘘を一番排除して生きた監督です。たくさんの芸術作家とも付き合いましたが、溝口先生ほど誠実で人間愛のある監督さんには出逢ったことはありません。
 次は「祇園囃子」の制作について出す予定です。それ以後は溝口先生と他の監督との対比と相違についても触れていきたいと思います。
 黄班変性症で眼が不自由なため、口述筆記やホームページも人頼みですので、時間がかかりますがご支援、ご教示宜しくお願い致します。
 夏の疲れが出る時期ですのでお身体をご自愛下さい。
     平成19108
 折居様                   宮嶋八蔵 拝
                       (口述筆記    竹田美寿恵

                                              TOPへ