京滋美保空会に指令を思う

京滋美保空会に司令を思う

       昭和61年9月20日付の「京滋美保第31号」に寄稿

   13期 徳島  宮嶋八藏

     平成28年8月

                                     紹介 宮嶋サロン代表

                                            竹田美壽恵

                       ブログ担当  勝  成忠 

                                        第15回京滋美保空会総会 昭和61年3月30日 於:京都センチュリーホテル

 

私が京滋美保空会を知ったのは、確か第2回の会合からだったと思います。終戦から

25年ばかり経って、久方ぶりに会った戦友のおぼろげな顔の印象から、はっきりと

七つ釦の少年の面影をつかみ出したときの驚き、歓び、そのとき、突然に美保空の

雰囲気が私達を包み込んで、まるで少年のように涙していたのでした。

あのときから十五年も過ぎました。毎年の会誌にも、私と同じ歓びがあふれています。

喜びも悲しみも、パッションは同じ大きさで続くものでないのは分かっているのですが、人は皆、次の会にも同じ感動を期待するものです。会での出会いを切っ掛けに、同期の仲間としての付き合いが始まり、別の会も発足しました。

 私たちも美保徳空会(飛練同期会)をつくりました。その切っ掛けになった京滋美保

空会に、皆、有り難く感謝をしているのです。母体としての京滋美保空会が今もなおその感動のオリジンを持ち続けてこられたのは、一重に十五期の運営委員の方々のお陰であります。加えて、この会の魅力は、他の期の友を得る喜びもあることでしょう。

 私にしていえば、十五期の世話人の皆様とお会いするのが出席の楽しみの一つになっております。飽かせることなく、毎回の催し、企画の運営の苦労は大変だと思います。

さて、私、このごろ戦記を読むことが多く、ラジカセで第十回総会の記念品、「山は大山」を聞きながら海軍を思い、予科練・飛練を振り返って反すうするとき、海軍は楽しい思い出ばかりではなかったと思うのです。

 八十ノットの白菊を三六十ノットのグラマンの群れ群れる中に突っ込ませたのは、誰か!十分な飛行訓練も受けさせず、特攻に狩りだしたのは、だれか!

 あの屈辱のバッターに耐え、流れる汗が飛行靴からあふれ出る飛行作業の罰直 駆け足、そして、訓練、試験、罰直の繰り返し。しかし、そんなことはなんでもないのです。敵艦に当たって死ぬこと、これは目的をもって死ぬことで、厭世自殺ではありません。

魂が誇りを持って生きることなのです。上層部は、誇りを踏みつけて犬死にさせたことになります。

夜の燃料疎開に軍服を後ろ前に着せ、支那服のつもりか、カカシのような格好をさせて、三里(約11、7km)の道をドラム罐を転がして運ぶ。腰が棒を差し込んだように硬直して、激痛が襲う。それでも耐えて、涙をぬぐい、腰をたたいて、罐を運んだ。服装はスパイに気付かれないためだという。バカ野郎! 200人もの練習生が、一本道をカカシ姿でドラム罐を転がして、不審に思わぬ者はない。寝ている赤子でも気が付くはずだ。

ドラム罐の強度を計算ずみか、三里の道を転がせば、大半がぶっ壊れる。 海軍のスマートで、目先が効いて……は、どこへいった! 我々だけがきちょうめん、であった。徳空の指令が悪い。副長もバカか! これは、徳空(偵察飛練)だけのことだろうか?美保空とはえらい違いだ。

 海軍戦史記録には、パイロットはよく戦った、とは書いてあるが、白菊特攻や中練特攻についての責任と反省の記録は、ほとんどないに等しいのです。海軍の上、中、下級の航空関係将校の著書においてすら見当たりません。

 その彼らが、異状・無謀なインパール作戦の牟田口将軍という精神異常者の狂気にオーバーラップしてくるのです。しかし、この作戦には、佐藤中将の勇気と決断による撤退独断命令があります。

 人間の責任において、異常と無謀な作戦への抗命は、軍上層部の無責任を糾弾し、悲惨な飢えと死から幾多の傷兵を救ったのです。その遺徳は、郷土部隊戦記で明らかになっています。海軍戦争指導部のいいなりに、無謀をとおし、自己も、また人間性もなく、無知にして、いまだに、反省がない航空参謀たちを憎みます。

 海軍軍人といっても色々あります。私の海軍は美保空であり、高橋司令の訓育の魂であります。会に寄せられた高橋司令のエッセイこそ、京滋美保空会の精神であると思うのです。航空参謀や戦争のためのシーレーンに関係する海軍関係のお客様の顔は、少なくとも美保の会では見たくないと思うのは私一人でしょうか。

 京滋美保空会の心の純粋性において、旧海軍関係者なら誰でもどうぞ、でしょうが、中・上級の戦争指導者は、選んで招待してほしいと思います。美保空仲間だから、しこりが後に残ることのない事を信じて…  。

 ついでのことに言ってしまいましょう。何回か前の会でした。招待の元海軍中級士官の挨拶を聞いて、背筋に寒いものが走ったのを思い出します。この士官には、戦後の歴史が微塵もないのです。 挨拶の中身は、私たちが小学校、中学校で習ったのと全く変わらない皇国史観でした。

思想に軌跡のない人からは、お化けのような印象を受けます。初めて会に出席した同期生は、「俺は、美保空会に来てあんな化け物と会おうとは……、ねぇ……」と、その時の渋面を最後に、再び会では会っていません。

聞けば、その士官は現在、神主とのこと、なるほど!お経と祝辞は昔も今も変わらんわい、などと笑えるでしょうか。このごろの会は少しずつ変わって来た感じがします。

 会の運営に変化を作り、惰性におちず、楽しい一日を、と考えて下さる世話人の皆様のご苦労には、心から感謝していますが、招待客の士官は、美保の高橋司令や副長のような人がいい。

 私たちは、会の日には、心は美保空へ帰りたいのです。いささかの酒と、昔の練習生と教官・教員と、軍歌とセレモニーがあれば、それでいい。


 昭和61年 向って左前 宮嶋八藏 美保徳空会(飛練同期会)の仲間と

 

 もう一つお願いします。海軍はバッターや下卑た怒声だけが象徴ではないでしょう。特に美保では、バッターは将校練習生には禁止されていたはずです。それでもバッターは振られたけれど… 。他所では毎日のバッター、そして機上にまでバッターはありました。

 飛練では、美保空出身練習生はバッターが少なかったから、「お姫さまかいな」といわれたけれど、それは逆に、私たちの大きな誇りでありました。酷暑の美保空で、十五分の昼寝を許されました。これも他空にはないことです。 私にとっての思い出は、分隊対抗の闘球で、私はタックルを得意としていましたが、

猛烈な試合の最中、司令の合図で一時中断されました。見ると、彌永副長が私の方に寄って来られるのです。私は鼻血を出していたのです。

鼻栓をしていただいた後、仰向いて頸の背をたたいていただきました。耳元で、「今の頑張り精神、よ、ろ、し、い!」といわれたときには、胸が躍りました。鼻血なんかは擦り傷よりも軽いでしょうに……。普通ならば衛生兵の仕事なのに、航空隊の中で第二番目に偉い人が手当をしてくださったのです。

私たちが予科練を卒業して間もないころ、美保空出身者の様子を視察の為、各飛練を回られた高橋司令の温顔に接して、私たちはどれほど嬉しく、頼もしく思ったことでしょうか。

美保で両親が面会に来てくれた喜びにも勝る思いがしたことでした。

 これは、仏法では慈悲、キリスト教では愛、というのだそうですが、宗教に殉じて死んでいった宗徒の気持ちが分かるような気がします。このような上官の愛のもとで死にたいと願ったものでした。加えて一言、他の予科練司令の飛行視察の話は聞きません。

 京滋美保空会が、初期の形になってほしいと申しましたが、過去の思い出やらなんやかや、ヨタヨタとバンクしながらの陳情でして、分かりにくいところはお許し下さい。

 第十五回総会への高橋司令のお便りは、久しぶりの訓話……、短い、短いけれど、海軍批判と反省のエッセイを受け取りました。お便りは、会場(海上)に吹く一陣の涼風のように、美保空の人間愛の魂を思い出させてくれました。

 この号に掲載される司令の便りをお読みくだされば、敗戦の語り部としての京滋美保空会のあり方の精神が示されているように思えるのですが……。

 戦記読みすぎの男の妄言、失礼、お許しください。

筆者

次に筆者が尊敬していた高橋司令のメッセ―ジを紹介致します。(竹田美壽恵)

高橋俊策司令のメッセージ

ー 第15回京滋美保空会総会に寄せて ー

 

       昭和61年9月20日「京滋美保第31号」に掲載された内容

 

年次第十五回総会と申す節目の開催おめでとうございます。

殊に、結成以来、日を重ねるにしたがって同士結合の輪が拡大しつつある実情は、予科練の展開全国に及んだ往時を回想して、感慨しきりであります。

私は明治三十一年生まれの八十八歳、米寿という、これも節目が過ぎていきます。

 七十七歳までは現役で、戦後の社会に追従してまいりましたが、不覚にも二年後、

老病に倒れ、すでに十年、高齢者特養老人ホーム対象になるばかりの存在ですが、幸いにも三世同堂、足腰はともかく、恍惚にも瘋癲(ふうてん)にもならず、元来口だけが達者で、明治の昔の生得でしょう。つべこべ言いたいのですが、もう黙っています。

 老残の生きがいは、明治海軍七十年の栄光を太平洋に沈めた昭和海軍、そのいくさ語り部としての存在ですが、それも春秋尚低い、因縁の深かった予科練同舟を頼むの外ありません。

 今年五月、太平洋の戦跡めぐりの遺族と老兵巡礼の旅が行われますが、海軍と海運、およそ船という船をひっさらえて戦争に投入した、その沈没地点を表示しますと、太平洋は

東西南北屑鉄の鉄底です。そこが永久に還らない海軍と海運戦没者の冷たいやしろです。

 それを忘れたみたいに空ぼけて、再び敵国想定のシーレーンを説くは、なんとむなしからずやと思う私です。恐るべきは敵国ではなく、敵国を想定する頭に意識している戦争そのものだからです。

 およそ戦争の場合、銃後はただ戦争に勝つために国に奉仕することのみが一念で、戦争指導部の方針に従って最善を尽くすの外なく、銃前の兵は黙々として死線に精魂を傾ける

のが任務であることは、古今東西のお仕着せです。勝敗は戦争指導者の頭脳が決定します。 
私がここで兵と申すのは、艦長司令である所轄長以下三等兵に至る実兵で、戦争指導部の
領袖(りょうしゅう)は埓外です。

 顧みれば、明治建軍の初期、日清戦争当時の軍歌に、「忠勇無双の我が兵は」と申す形容詞句がありましたが、這般(しゃはん)太平洋戦争においても、国軍の精鋭は、明治の伝統さながらに力戦奮闘しましたが、戦争指導層に彼我国力の洞察と準備なく、加うるに、戦術あって戦略なく、航空優位がもたらした緒戦の快進撃も開戦半歳で頓挫し、悪戦苦闘の絵巻の敗戦に終わりました。領袖は埓外と申すへそ曲がりのゆえんです。

 顧みて、そんな戦でした。痛恨の老兵が叱咤したいのは、再び大国の戦あるべからずという端的な結論です。戦後40年、今も続いている小火はともかく、大国再び戦えば、核戦争です。世界の結末を聖書が予言するハルマゲドンです。

 今や経済大国だという日本の使命は、大国再び戦わざる平和の(くさび)になることだ、と私は

妄想します。短小な非戦論や軽薄な平和論ではありません。

 世界の将来にハルマゲドンあらしむべからずと、大阪のど真ん中の公開演説で、

大声疾呼したのは、ハワイ急襲の空中指揮官、昭和の英雄 渕田美津雄海軍大佐でした。

すでに故人の昔語りになりましたが、彼は無腰の日本人は、戦用物資運搬の人足であえぐ

戦列のほかあるまいと喝破しましたが、目今の情報は飛躍して、明治海軍を失った昭和海軍の頭脳と(おご)りを反すうせざるを得ません。

 痴人の愚痴をこぼせば、ごうが沸いて血圧の上る戦でしたが、無言の英雄をおぶって

復員した兵も遺族も、大国再び戦わざる夢は同じではないでしょうか。

 京の賢人松下幸之助先生のPHP繁栄の上の平和と幸福は、大国戦わざる世界にのみ

期待される軌跡が、戦後を歩んだ日本の現実でしょう。

 日本海海戦を忘れなかった日本は、有史以来の屈辱と慟哭の敗戦を骨身に刻まなければなりません。その語り部は、今日に生きる戦争体験者を措いて誰でしょう。

                               おわり

 

この高橋俊策司令のメ―セージに続いて宮嶋八藏の寄稿が掲載されていました。