宮嶋八蔵妻の家系      

       宮嶋春様は大阪の豪商・天王寺屋の一族だった!! 
            「画家 牧野克次の家族と人生」

                             平成29年11月

                   

                   宮嶋春様と長男晃様よりの聞き書き    
                            

                                                                             著  者  竹田美壽恵
HP担当  勝  成忠


はじめに                                          
   宮嶋八藏先生(宮嶋春様の夫)の映画資料や遺品を平成28年に早稲田大学演劇博物館へ
  寄贈 されました。寄贈品目表作りをまかされ、整理する中で、宮嶋晃様の曽祖父になる画家、
  牧野克次と祖父に当たる牧野純一の遺品を多数発見致しました。

画家・牧野克次は京都工芸繊維大学の前身の京都高等工芸学校創立時より助教授として関わっていた事と牧野純一は大正5年に卒業しているという縁があり、京都工芸繊維大学美術工芸資料館へ 寄贈されることになりました。その為、引き続き寄贈品目表の作成等をお手伝いさせて頂きました。

その遺品を手がかりに、調査しているとたくさんの真実が解り、平成28年1月にまとめた「宮嶋八藏妻の家系(牧野家の家族史)」を、訂正、加筆する事に致しました。

1.牧野克次が書き残していた過去帳を発見し、天王寺屋牧野家の系図を作成、訂正しました。

2.牧野克次が大正7年、東京に行く前の大阪に旧邸があったとされる地籍地図と

  地籍台帳を発見しました。又京都の仮住まいの住所も分かりました。

3.牧野克次の兄弟やその子孫の方方と一族の感動的な真実が解りました。

 

                                              牧野克次・牧野純一の遺品の一部   

 

     牧野家遺品                           牧野家遺品

                         

目次

1.宮嶋(牧野)春様・八藏様・晃様 紹介 
2.牧野家は代々天王寺屋(系図)             
3.天王寺屋について                           
4.牧野克次の長女、直と長男、純一の紹介 
5.牧野純一と(小笠原)美喜子の結婚  
6.牧野美喜子の実家 小笠原家について 
7.牧野克次邸 
8. 牧野克次の人生                             
   牧野克次が残した略歴にそって人生を辿ります。
9.画家 牧野克次の兄弟と感動的な子孫と一族の人々(別冊) 
             このブログ内の「牧野克次の妻・兄弟」に掲載中     
 
 

 

  

牧野の材料写生

 

1.宮嶋(牧野)春

生年月日 大正15年3月2日生

   

 牧野春 1歳                                   牧野春の母 牧野美喜子

 母美喜子に支えられて      婦人雑誌にも掲載されたことがある

 

 

牧野克次(祖父)が命名
     

 

 一歳下の妹 牧野園(左) と牧野春(右) 

 熱海の牧野克次(祖父)別荘にて ビスケットを食べている

 

1950年(昭和25年)6月11日  宮嶋八藏と(牧野)春の御結婚式

「宮嶋八藏の幼少期の聞き書きと写真で偲ぶ振り返り人生」はこのブログ内で

宮嶋八藏の人生を詳しく書いていますので見て頂けたら幸いです。

 ブログ http://katsu85.sakura.ne.jp 


     宮嶋(牧野)春

宮嶋(牧野)春の経歴

大正15年母美喜子の実家、小笠原医院にて出生し東京の自宅で成長

昭和19年東京都千代田女学園卒業

同年  東京大空襲で京都へ移住(昭和20年自宅全焼)

昭和23年京都基督教女子青年會 夜間料理科修業

昭和24年京都人文学園卒業

昭和25年 宮嶋八藏と結婚

昭和25年松田女学院(洋服裁縫本科課程卒業)

昭和26年松田女学院(洋服裁縫高等科課程卒業)

昭和27年 長男 晃様誕生

昭和33年松田女学院(洋服裁縫師範科課程卒業)

母 美喜子と洋裁を行う

阪神百貨店のオンワード樫山にてファッションアドバイザー

京都高島屋(株)京屋にてファッションアドバイザー


 宮嶋(牧野)春   京都室町の自宅にて


宮嶋八藏様と春様(牧野克次の孫・牧野純一の長女)の長男 宮嶋晃様   


 

長男「晃君」京都室町の自宅にて  右の絵画 小学校時代 の「晃君」の作品

左の写真 祖父・牧野純一のシルクハットを被った晃君

                右上の絵画の撮影 竹田美壽恵(左上蛍光灯の光が反射)

長男の宮嶋晃様(早稲田大学卒業)・泰子様(早稲田大学卒業)ご結婚式

(クリエイテブ、プロジュ-サー)    (テレビ朝日アナウンサー現在もBS朝日などで活躍中)

 2. 

   

      

             

                 3.  牧野家は代々天王寺屋


天王寺屋五兵衛について

 伝説によると天王寺屋は用明天皇上宮太子まで遡り、四天王寺建立のとき用材の

御用達をつとめた家筋という。それによって天王寺屋と号した。初代五兵衛の眉毛が

長く、大眉と称した。天正二年大眉吉右衛門光敦は住吉郡遠里小野村から大坂にいで、

民家となり、慶長十九(1614)年十一月大坂の陣にて再び遠里小野村にひきあげ、元和

(1615)年御陣おさめにて、その年七月に大阪今橋に引越したとある。『日本唐土二千

年袖鑑』によると寛永五(1628)年両替屋を開いたとある。そして手形の制度を案出した

とある。これは初代光重五兵衛のときで、また二代目の元重は小橋屋浄徳の娘の子。

 寛文二(1662)年幕府が初めて、小判の買い入れを命じた時、以上の天王寺屋五兵衛と

小橋屋浄徳と鍵屋六兵衛の三人に東町奉行石丸石見守から公用が命ぜられる。さらに三

名が加入され、寛文十年公然十人両替と呼ばれるようになる。寛文ころから天王寺屋は

大名の御用をなしはじめ、福岡、黒田、久留米、有馬、の蔵屋敷の名代となる。また早

くより讃州高松の掛屋、阿波徳島の掛屋、芸州広島の蔵元、長州防府の掛屋、因州鳥取

の蔵元、肥後熊本の掛屋、伊予今治の掛屋、豊後白杵の掛屋、対州府中の掛屋、讃州丸

亀の掛屋、蔵元となっている。

 今橋一丁目八百屋町筋を十兵衛横町と俗称したが、これは天王寺屋五兵衛と平野屋五兵

衛(高木)の両五平衛家の居宅にはさまった横町であったからで「天五に平五、二五、

十人両替」ともいわれて並び称せられた。

 天明ころの大坂の長者番付を見ると、このころまでは、東方の大関は天王寺屋五兵衛、

西の方の大関は上田三郎左衛門で、鴻池は東方の関脇、三井八郎右衛門は西方の関脇と

なっている。しかし、延宝(1673~1681)(じょう)(きょう)(1684~1687)ころから鴻池の成長は

すさまじく、ついに天王寺屋五兵衛を超えて進出し、加島屋九右衛門と実力を競うに

至る。

平凡社 別冊太陽№171976年発行 豪商100人(頁93・120) 宮本又次 より

宮本又次は、「上方の研究」第3巻のはしがきに「第一部において大阪最古の両替屋と

しての天王寺屋五兵衛家の系図を紹介しその活動形態を概説しておいた。

天王寺屋はもっとも由緒ある名家なるにかかわらず、その資料は煙滅し、その実態を

つかみかねていたが、まず系図を発掘し得たので、今後の研究の手がかりにしたい」と

書いている。 昭和50年(1975年)7月20日記 この著者が長文の論文を

上記に簡潔にまとめたのが平凡社 別冊太陽NO17 1976年発行の 豪商100人である。

 宮本又次 京大経済学部卒業 

福山大学経済大学教授 大阪大学名誉教授 

      京大大学院の頃から大阪市史編集に係わり、

「明治大正大阪市史」編集完了まで参画

他大阪市史第3巻 第五巻等に天王寺屋について詳しく書かれています。

 牧野の 図案

 


 4.  牧野克次の長女、直一家と長男、純一一家

 1) 長女  明治43(1910)年7月 

村山順と北米ニューヨークにおいて結婚する

     

  村山(牧野)直      (直の夫) 村山順 ニューヨーク美術大学教授

                 牧野克次の弟子、京都高等工芸学校第1期卒業生

  「戦後すぐ、湯川秀樹博士夫妻がアメリカ留学中に村山順邸で下宿された」という事を、

牧野美喜子が話しているの聞いた。             (宮嶋晃談)

            

 克次の長女の長男 村山謙        克次の長女の次男 村山捨巳

1930年撮影                     1930年撮影
州立ワシントン大学卒業

戦後日本に在住           ずーとアメリカ在住生活

 「直さんは、アメリカに居住し 日本へ墓参りに帰国した事があります。」

宮嶋(牧野)春談

  

 前列左(牧野克次の長女直)・右(牧野楠枝の妹 楠瀬)  若かりし頃の牧野楠瀬と楠枝と

 後列左(牧野克次の妻 楠枝)・右(牧野克次の長男純一) 思われる(牧野家所蔵写真)

              台紙付き写真 縦31.7㎝×横24.2㎝           古い写真を2倍に拡大した


   牧野の材料写生  

昭和16年(1941年)4月29日撮影 牧野克次の長女 村山(牧野)直

1929年アメリカの村山家の様子を牧野家宛てにクリスマスカードが届く

ホワイトハウス前にて


 先日はとても楽しい夜を過ごすことが出来ました。

     村山一家は元気でしたので御心配なく。

     村山さんの息子さんは牧野克次さんにそっくりです。

     バイオリンを弾いて私達を楽しませてくれています。

     ここを離れて神戸へ行く予定です。 さようなら

                    クーベル他より

                     訳 宮嶋晃・泰子

村山謙様のエピソード  

     謙さんが、戦時日本にいて、その後アメリカに行った経緯として我が家に

口伝として伝わっているのは、「日本人として第二次世界大戦時に従軍したが、南方で病気になり野戦病院に置き去りにされた折に米軍部隊がやって来て

餓死寸前の人達の中に、英語のうわ言を聞きビックリして米軍病院に連れ帰りその後通訳として使った。戦後はアメリカ大使館で勤務していました。」というもので、祖母からも聞きました。

従妹の夏絵(春の妹、園様の次女)さんが村山謙様の自宅へ遊びに行ったと

聞いています。           宮嶋晃様談

 

又、「村山謙さんは、戦艦ミズーリ号(太平洋戦争で日本の降伏調印式場となった)での降伏調印式でアメリカ側の通訳者として乗船していた」と宮嶋家は

伝え聞いているという。

     

 

                      

2)   長男  牧野純一一家

                      宮嶋(牧野)春の父

       

   

牧野純一の経歴    

明治28年(1895年)1月30日 誕生

    大正5年(1916 年) 京都髙等工藝学校 卒業

    大正7年(1918年)  宮内省内匠寮技師 

       昭和7年6月1日発行、発行所・財団法人交訽社、第35版日本紳士録

 頁691に牧野純一 宮内省内匠寮室内装飾技師 四谷南寺、49

所得税 122    TEL  (4)35-3563   等記録あり

大正9年(1920年)純一の最初の妻 (角田)旼子25歳で亡くなる

             京都市内 真如堂内の天王寺屋牧野家の墓に眠る

            (角田)旼子の父は角田敬三郎氏で久邇宮邦彦王を

             保育セシ人で墓は京都東山光雲寺久邇宮塋域内

    大正9年(1920年) 洋画研究の為北米合衆国とカナダへ留学

  

     

  1920年 ニューヨーク・カナダの牧野純一アルバム集より


大正11年 (1922) ニューヨーク美術工芸学校でデザイン、

インテリ装飾を研究

 

  

大正12年(1923)  北米合衆国より帰国 

昭和5年(1930) 大日本帝國外國記章佩用(はいよう)免許證を賞勲局総裁

下條康麿より受ける

         丁抹國皇帝陛下ヨリ贈與シタル金製記章ヲ受領シ及ヒ

佩用スルヲ允許セラル

 

高松宮家の専属デザイナーだった牧野純一

 

  

   真ん中椅子に座っておられるのが高松宮殿下  

後列右から2人目 牧野純一

   

高松宮殿邸の設計建築図 牧野純一設計図が残されている

 縮尺600分のⅠ  縦45.5㎝×横58㎝   昭和16年11月改正

 高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう)

1905年(明治38年)~1987(昭和62) は、日本の皇族。

大正天皇と貞明皇后の第三皇子。今生天皇の叔父にあたる。

 高松宮殿邸内庭木配置図  制作 牧野純一
  
 

  

縦36.5㎝×横56㎝

牧野純一のサインJMが右端に記されている


別図には拡大鏡で見ないと分からないような字で植木の内容がびっしりと

書き込まれている。

5.牧野純一と(小笠原)美喜子の結婚

牧野美喜子(春と園の母)       

 

       

      大正14年4月牧野純一と牧野(小笠原)美喜子の結婚式写真      

牧野美喜子の出身地    

                        京都市中京区御幸町通押小路下る亀屋町394 

小笠原医院が実家

    

 

 

  6.牧野美喜子の実家 小笠原家について

        

  美喜子の実家、小笠原医院にて 両親に囲まれて 真ん中が美喜子

     

小笠原家 美喜子の両親と兄弟、祖母

後に立っている人 小笠原(たけ)(たか)(美喜子の父)

リボンの女の子 美喜子

真ん中男児 小笠原孟比(たけひ)()

美喜子の母に抱かれている赤ちゃん 小笠原(たけ)(のり)

小笠原家について

    角川日本性氏歴史人物大辞典26 

京都市性氏(歴史人物)大辞典より

    Ⅰ、鎌倉期に成立した武士の性

      甲斐源氏加賀美遠光の息長清に始まる。長清は承久の乱の戦功に

より阿波守護となる。鎌倉期には六波羅評定衆を輩出。

室町期には貞宗が尊氏に従い、信濃守護となる。奉公衆三番衆に、

また的始に、多くの小笠原性の者が見える。諸子を分出し、

江戸期には勝山(福井県)・小倉(福岡県)などの藩主となり

明治に至る。満長以下を京都小笠原と称する。

    1、御幸町通押小路に医師の小笠原家がある。初代は1671

(寛文11)に歿した金左衛門という三河の郷士で、1624年

(寛永元年)東福門院御附となって京都に移住。二代目貞右衛門から

 代代禁裏附組同心を務めた。孟政は分家して1849年(嘉永2)

 に漢洋内外科産婦人科を開業。かたわらヨンゲルに師事し、京都府

 用医を拝命した。その三男孟敬(たけたか)も産婦人科医となる。

孟敬は京都府医学校(京都医科大学の前身)を卒業後も同大学の

産婦人科の権威高山尚平に学ぶ。日露戦争時には、軍医として

従軍。1907年(明治40年)頃小笠原病院を開く。

1912年以来府医師会京都支部の上京第四連合常議員兼幹事長

を務め、1921年には京都市医師会購買組合の設立許可を得ている。

その間、1917年に京都市会議員1919年に府会議員に選ばれる。

流行していた狂犬病被害者に対する迅速な処置問題、府立第一

中学校の改築、音楽学校の設置等に尽力。立憲政友会京都支部の

幹部として護憲運動にも参加している。

 

明治11年(1878)小笠原孟政は医制発布までの京都における

助産師教育を担っていた。

      又孟敬は、昔からの座産より仰臥位出産を取り入れ実践した。

 

 小笠原家のエピソード      

祖母(美喜子)から聞いた話ですが、幕末 北面の武士をしていた

小笠原の家族の一人に切れ者がいて、ある日幕府から呼びだされて

江戸へ旅立ち、その後病死の知らせが来て、それっきりだったとか。

暗殺に違いはないのだけれど、朝廷と幕府の関係を慮って泣き寝入り

するしかなかったとの事          (宮嶋晃様談)

    牧野美喜子の経歴      

京都府立京都第一高等女学校卒業 

入学試験は1番で合格し卒業時は3番という成績。学生時代

英語版のシェイクスピアを読んでいたと言う。卒業後は

奈良女子大などを進学希望したが、両親より女性はそれ以上

教育は要らないと反対されたので残念している。

大正14年(1925年)牧野純一と結婚。

東京の牧野克次邸へ入る

 7. 戦前の東京での自宅  牧野克次・純一 邸

  宮嶋(牧野)春様に、お家は、どのように使われていたのか聞いてみました。

           

  住所 四谷區南寺町四拾九番地  牧野

  敷地 総坪数 壱百貳拾六坪四合八勺

  下階 五拾六坪壱合八勺七オ

  上階 貳拾四坪

 右端の居間は克次の部屋・その左横が克次の義妹、楠瀬の部屋・食堂はリビング

 としても使用されここで重要な話し合いがされていた所・左端の和風座敷は克次が亡くなった時葬儀を行った場所・2階の洋間座敷で美喜子が洋裁を教えていた・

 2階の左端の洋間に春と園の机が備えられ勉強室だった。

美喜子は夫の牧野純一と東郷平八郎宅に結婚の報告と御挨拶にお伺いした時

さらさらと物怖じせずに、東郷元帥の質問に応対したので、元帥は驚いて「私の

前で初対面に堂々と対話出来るとは、アッパレな女子じゃ」と大笑いされ

純一に「奥さんを大事にしてあげなさい」と言われたという。(宮嶋晃様の話)

 大正15年1926年) 長女 春 誕生

 昭和2年 (1927年) 二女  誕生  

その頃の牧野春の家族状況

父 牧野純一 明治28(1895)130日―昭和35421日没

母 牧野(旧姓小笠原)美喜子 平成91212日没

父方祖父 牧野克次 元治元年 (1864)-昭和17年(1942)

父方祖母 牧野楠枝 大正6年5月 没(上京前年に亡くなっている。)

姉妹 妹 牧野(結婚後関戸)園

牧野克次の義妹  牧野楠瀬(くすせ)

牧野家と小笠原家(美喜子の御兄弟)の人々との家族写真

前列 右 牧野克次 左 小笠原(たけ)(のり)(克次の長男の妻である美喜子の弟)

後列 右端より美喜子(克次の長男純一の妻・春の母)牧野春(後 宮嶋八藏の妻)

小笠原孟比古(美喜子の弟・現小笠原孟史院長の父)

 牧野園(春の妹)牧野純一(克次の長男・春の父)

   東京の写真屋さんで撮影

 美喜子は、東京の大田区にあった、東京ドレスメーカー女学院2回生か3回生で、

 師範科卒業後、自宅で洋裁を教えていた(皇室関係の子女も来られていた)

昭和17年  牧野克次 没 

昭和20年 第二次世界大戦 東京大空襲にて東京の牧野邸は全焼した

  疎開の為、牧野邸の食堂に持ち出す荷物を準備していたが

  全て財産は焼失した。

美喜子は京都に移住後服飾デザイナーとして活躍

昭和25年(1950年)戦後第一回ミスユニバース出場時の

山本富士子さんのロングドレスのデザイン縫製をする

当時ロングドレスを作る人がいなかった中、グランドピアノの
ビロードのカバーを使用したドレスは高く評価された。) 
 
   

      牧野美喜子がファッションショーに出品した一部

 

一緒にお仕事をしたスタッフ 後ろ左端 宮嶋(牧野)春

前列左端 牧野美喜子・ エスコート洋裁店経営者 岩崎様(前列中央) 

三条 朝日会館と教会の間にあった。

美喜子の孫になる晃様は、妻に迎える泰子様(平成29年現在、テレビ朝日スポーツコメンテーターとしてBS朝日のザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~などで活躍中)
を紹介する為にここを訪れている。

                         (宮嶋春談)

 牧野純一・美喜子一家のその後

戦後 東洋レーヨン株式会社滋賀工場 工場長附き勤務   

  

(大津市石山北大路町)昭和27年頃 前列 右端 牧野純一 

  

牧野園(牧野春の妹)の御結婚

  

     関戸寿夫様と(牧野)園様の御結婚式

   お二人には3人のお嬢様が誕生され現在全員ご結婚されて

   お幸せに過ごされています。

   平成27年4月3日の宮嶋八藏様(春様の夫)のお葬式には、

全員出席されお会いする事が出来ました。  竹田美寿恵


画家 牧野克次のひ孫になる人々 (関戸家と宮嶋家)

 
前列左側より 関戸寿夫(牧野園の夫・関戸家当主)関戸睦美(長女)
後列左側より 宮嶋 晃 ・関戸夏絵(次女)・関戸香織(三女) 昭和47年頃
関戸寿夫氏のこと
 
「義理の叔父は、温和な人でした。満州から引き揚げて九州の六高から
京大の経済学部を卒業し川鉄で勤務しました」宮嶋晃談
 
 
左側から 田中(関戸)香織 ・手島(関戸)夏絵 ・中村(関戸)睦美     
                                                 平成30年4月京都にて


 

  昭和28年8月9日 京都髙等工藝学校卒業38周年集会記念

   信州 渋 温泉 於 つばたや旅館

    昭和11年11月22日 京都髙等工藝学校卒業20周年記念 

伊豆、長岡古奈温泉於 白石館での写真も残されている

 
 昭和30年11月

    京都髙等工藝学校で牧野克次の教え子だった関係の霜鳥之彦家の

ご子息様と狩野家のお嬢様(長女)のご結婚式(京都松尾大社にて)
の仲人を牧野純一、美喜子夫妻が務めている写真が残されている。


発行 府中市美術館・京都市美術館・京都新聞社 浅井忠と関西美術院展

企画・編集 志賀秀孝(府中市美術館主任学芸員)清水佐保子(京都市美術館学芸員)

 昭和33年頃 

   

 牧野純一 孫の晃君(宮嶋八藏と春の長男)を連れて魚釣り

  

昭和35年2月21日 新春例会 ぼたん鍋をつつく

   於 京都 桂 狩野様宅  (左の方が狩野様)

 

昭和35年4月21日 牧野純一 65歳で亡くなる

   

昭和35年10月16日 京都嵯峨 釈迦堂 清凉寺にて

京都髙等工藝学校卒業45周年物故學夕慰霊追悼法要 

 牧野純一の妻 美喜子に連れられて孫の晃君(前列中央)も参加しました。

 (晃君の服は全て母・宮嶋春の手づくりでした)

  

平成91212日 牧野美喜子94歳 没

   

 体調を崩し、ある病院に入院中 看護師が車椅子で散歩に連れて行って

 下さって、坂になっている所でブレーキを掛け忘れた為、車椅子が動き

転倒、骨折し寝たきりとなって亡くなった。

 美喜子も、家族も「看護師が良かれと思って散歩に連れて行って

下さった。若い看護師の将来が大切なので訴えはしなかった」と

その当時竹田は宮嶋八藏(春の夫)様より聞きました。

牧野家、宮嶋家、小笠原家の方は本当に慎み深く、優しく、良い

方々だなあと思いました。             

竹田美壽恵

 

8. 牧野克次の人生

 

牧野克次     宮嶋(牧野)春の祖父

       若かりし頃の克次

    牧野克次 誕生 元治元(1864)年~昭和17(1942)年没


牧野克次  略歴  號 天平


(牧野克次の略歴書が残されていました) 縦20,9㎝×横29,5㎝ 手書き2枚


 (牧野克次の略歴書が残されていました) 縦20,9㎝×横29,5㎝ 手書き 

もう1枚 活版印刷の略歴書も残されている 縦36.8㎝×横43.5㎝

 前記の略歴書は天王寺屋平右衛となっているが、下記の

活版印刷の物は天王寺屋平右衛門と記されている。


 活版印刷の略歴書

牧野克次 略歴  號 天平

(残された略歴をそのまま書き起こし、読みにくい漢字にはルビをつけた)

家昔ヨリ大阪ニ在リテ代代天王寺屋平右衛門ノ稱ヲ継承ス世人略シテ天平ト呼ビ同族ト共ニ諸侯ノ藏屋敷ニ金融ヲ業トセンガ明治維新債権(ことごと)(ほろ)ビ同族離散ノ悲運ニ遭遇セリ

祖考苦慮()(ざい)ヲ集メ僅カニ酒造ヲ經營セシガ不肖己レノ()(せつ)ヲ識リ別途ヲ歩ミ終ニ今日

(しゅん)()ヲ守ルニ至ル天平ノ呼稱ハ家人酷ダ之ヲ喜バズ余(かえ)ッテ有意義トナシ採テ雅號

トナス

賜號天趣其他雪幹松里等ノ號ヲ併用ス

 

次からは、牧野克次が残している略歴にそって

克次の人生を辿ってみたいと思います。

牧野克次 
誕生 元治元(1864)年4月21日~昭和17(1942)年10月22日 没  

元治元年四月 (1864年)河内國道明寺村の母の実家(杉本家)で誕生する

            幼き頃より儒祖父杉本石瀬の下で漢学と書道を修めた      

昭和14年(1939年)頃の杉本家 ・白石美知子様提供(牧野克次の兄の孫になられる)

              アルバム写真を竹田美壽恵が撮影

     

       昭和14年頃の杉本家               昭和14年頃の杉本家

白石美知子様提供(牧野克次の兄の孫になられる)

杉本家の写真は御兄弟の所で紹介します。

 

(この年、池田屋事件・禁門の変があった)

 

明治10年(1877年)2月10日~11日    牧野克次 13歳

 明治天皇大和行幸につき行在所給仕を務む

 藤井寺市立図書館の藤井寺市史の中に行幸の項があり明治天皇は道明寺を行在所とされています。杉本家(牧野克次の生家)は、行幸供奉された德大寺宮内卿や東久世侍従長の御宿泊所になっていた事が、記されている。(牧野克次の兄弟を紹介した所でもう少し付け加えたいと思います。)

 その頃、羽倉可亭(書画家・篆刻家)が諸国を巡り我が家に滞在された時に

始めて篆刻(てんこく)の教えを受ける それ以来篆刻刀法を踏襲研究して今日に及ぶ

これまで高貴な方の御印を拝刻すること蓋し之に由る。

(この年、西南戦争起こる)

    

 羽倉可亭小伝 (牧野克次遺品)             羽倉可亭

明治16年17年(1883年~1884年)     克次19~20歳

堺に於いて土屋弘(鳳洲)(漢学者)の教えを受ける。

(明治16年 鹿鳴館完成)

 

明治18年(1885)                           克次21歳

 堺師範学校卒業

 

明治18年19年20年( 1885~1887)         克次21歳~23歳

 大阪府高等小学校教員を勤務

 当時日本画守住貫魚(つらな)に 西洋画をその子守住勇魚(いさな)に学ぶ

 

明治21年~25年 (1888~1892)      克次24歳~28歳

 東京にて小山正太郎(洋画家)の家塾に居り西洋画を学びながら狩野友信(狩野派)

に日本画を学ぶ  

 (明治22年 大日本帝国憲法発布)

 

明治25年1月(1892)            克次28歳

 文部省始めて師範学校、中学校、女学校の教員検定試験を行う。これに日本画、

西洋画、習字科を受験して合格免許状を受ける

 

明治25年  (1892)            克次28歳

 静岡県師範学校に奉職


明治28年 (1895)               克次31歳

 牧野克次・楠枝 婚姻届    長男牧野純一誕生

 

明治29年  (1896)            克次32歳

 大阪高等工業学校に転任

 (4月第1回オリンピックアテネで開催・6月 明治三陸地震大津波死者2万人)

 

明治34年(1901)                克次37歳

  関西美術会設立には大阪側委員として参加した

  関西美術会第1回批評会では審査員に就任

  関西美術会に出品「山村秋興」が1等賞「清流洗馬」「夏の海浜」が3等賞

  上京区寺町今出川に移住後画塾を開き井上悌蔵、新井謹也、榊原一廣らが学んだ

 同画塾は明治36年に開設した聖護院洋画研究所と合併

 関西美術会第一回批評会褒賞證 「山村秋興」 壱等賞



関西美術会・京都彫技会聨合秋季展覧会 感謝状  受賞者: 牧野克次 

明治3411月 会頭正五位勲四等工学博士 中澤岩太より・27,7㎝×横40,3

(スエーデンでノーベル賞創設第1回はX線のレントゲン氏・高峰譲吉アドレナリン創製)


明治35年(1902)                           克次38歳

 京都高等工芸学校の創立により同校へ転任 

 関西美術会第2回批評会の審査員に就任

 第8回新古美術品展では「秋林」 3等賞(どう)(はい)(銅メダル)を受賞

同年田村、桜井と共に洋画家の懇親会的会合である二十日会を開いた

 (日英同盟成立・当時八甲田山“死の行軍”大惨事あり)

 

明治36年(1903)                           克次39歳

  第2回関西美術会展に水彩画「夕日」「海浜」のほか油絵、墨画、

装飾画など11点出品

  夕陽 牧野克次作品 東御市梅野記念絵画館所蔵 31.0×49.0

企画編集 滋賀秀孝・清水佐保子               水彩

浅井忠と関西美術院展 発行 府中市美術館・京都市美術館・京都新聞社 より

  

 

第5回内国勧業博覧会その他の展覧会の審査に従事する        

   同時に「落葉」を出品

  落葉 牧野克次作品 京都市美術館所蔵90.8×151.8㎝ 油彩、キャンバス

企画編集 滋賀秀孝・清水佐保子

浅井忠と関西美術院展 発行 府中市美術館・京都市美術館・京都新聞社 より

  白壁の道 牧野克次作品 東御市梅野記念絵画館所蔵30.0×44.0㎝ 水彩

    (明治35年―37年)     企画編集 滋賀秀孝・清水佐保子

浅井忠と関西美術院展 発行 府中市美術館・京都市美術館・京都新聞社 より

加茂の林 牧野克次作品 東御市梅野記念絵画館所蔵 39.0×28.7㎝ 水彩  

 (明治35年―37年)      企画編集 滋賀秀孝・清水佐保子

浅井忠と関西美術院展 発行 府中市美術館・京都市美術館・京都新聞社 より

 

明治37年(1904)                           克次40歳

 宇治平等院修繕工事に出張を命ぜられる

(京都高等工芸学校委嘱により沢部清五郎と共に宇治平等院の天井画の修復に従事)


茶屋 牧野克次作品 京都国立近代美術館所蔵 31.3×41.4 水彩

 浅井忠「光」の系譜 間部時雄と京都の仲間たち 発行  府中市美術館

八坂の塔 牧野克次作品 京都国立近代美術館所蔵 45.2×29.6㎝ 水彩

浅井忠「光」の系譜 間部時雄と京都の仲間たち 発行  府中市美術館

この年頃 牧野克次作品 黄色い日傘 (2003年星野画廊で展示)

(この年日露戦争開戦 東郷平八郎、乃木希典、大山巌、児玉源太郎らの大将が活躍)

 

第3回競技会賞証 壱等賞 賞証・ 受賞者:牧野克次・水彩画 林

 明治37410  関西美術会会頭従四位勲三等工学博士 中澤岩太より

        

明治38年(1905) 関西美術院設立の発起人となる 克次41歳

 

  2006年 浅井忠と関西美術院展 京都市美術館主催 発行パンフより

 

2006年の 浅井忠と関西美術院展 京都市美術館主催 発行パンフより

 

 牧野克次  ほし網  明治末 28.3×45.0

1987年 福島県立美術館 発行 水と光との出会いー近代日本水彩画の展開―展図録

 

明治38年作(1905年)牧野克次作品 軽井沢

(2003年星野画廊で展示される)

 

牧野克次  南部の山  明治末 27.8×41.6㎝  宮嶋晃所蔵

1987年 福島県立美術館 発行 水と光との出会いー近代日本水彩画の展開―展図録

(日露戦争終結のポーツマス条約成立・アインシュタインが特殊相対性理論を発見)

 

明治39年(1906)                                              克次42歳

絵画研究の為2カ年間米国及び欧州へ留学を許されその間休職し海外に

滞在すること前後9年となり退職し外国にて自営する。

 8月4日京都高等工芸学校での教え子霜鳥之彦(正三郎)をともない渡米

 

  (当時は巡査の初任給 12円・夏目漱石が「坊っちゃん」を発表

 

 

明治39年(1906)より

 ニューヨーク美術学校に招かれ水彩画の教授をなす

     THE NEW YORK SCHOOL OF ART

     2237-2239W. 

     BROODWAY  CORNER OF 80TH  ST.

         NEW YORK  CITY, U.S.A.

 ニューヨークにて洋画の研究を行い日本画の紹介をする

(京都繊維大学 玉田浩之博士のニューヨークにおける高峰譲吉自邸の建設経緯と室内意匠論文)

  (アメリカで日本移民制限・東北凶作失業者激増)

 

明治41年(1908) より                     牧野克次43歳

ニューヨーク州メリーウオルドパーク所在松楓殿の室内装飾及び造庭に

従事する

 明治37年(1904)セントルイスで万国博覧会が開催されメインパピリオン

「鳳凰殿」が出品された。

翌年高峰譲吉博士はこの建物を日米友好の舞台にしようとニューヨーク州

メリーウオルドパークに移築し「松楓殿」と命名、建物は藤原時代風の寝殿

作りで内装は牧野克次(京都高等工芸学校教授)が担当した。

 (金沢ふるさと偉人館 http://www.kanazawa-maseum.jp/ijim/  より)

 

(高峰譲吉博士所有時)(横24,8㎝×縦19㎝)以下同じサイズ 牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵 

 

  松楓殿入口門 (高峰譲吉博士所有時)牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵      

 

  

松楓殿車寄せ・松楓殿本館に続く道(高峰譲吉博士所有時)牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵
  

松楓殿車寄せ 松楓殿本館(高峰譲吉博士所有時) 牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵 

松楓殿本館(高峰譲吉博士所有時)     牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

 松楓殿本館・松楓殿別棟(高峰譲吉博士所有時)牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵 

 

 (高峰譲吉博士所有時)         牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

 (高峰譲吉博士所有時)         牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

 松楓殿本館(高峰譲吉博士所有時) 松楓の間  牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

 (高峰譲吉博士所有時)    松楓の間  牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

 

(高峰譲吉博士所有時)  ダイニングルーム  牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

 

(高峰譲吉博士所有時)          牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

 

 

 (高峰譲吉博士所有時)          牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

 

 (高峰譲吉博士所有時)       牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

 
   

 高峰事務所 、松楓殿、に配置された絵画名記入した用紙 
  牧野克次自筆サインあり   牧野克次遺品 宮嶋晃所有

明治40年41年のニューヨーク、ボストン、ヒラデルヒヤ、ワシントン等の

絵画展覧会に入選出品

 大正4年に天平堂画集として発行された中にニューヨークで書かれたと

 思われる絵画がありますので後で紹介致します。 

 (明治41年 ブラジル移民始まる第1回は781人渡航・味の素発売)

 

明治42年(1909)           牧野克次45歳

絵画及び図案研究の為欧州各地を巡り歩き、更に日本に帰り建築装飾に関する

 材料蒐集し且つ各方面より委嘱された物品購入の要務を行い約1年滞在した。 

 (特許法公布・新聞紙法公布・伊藤博文ハルピンで暗殺さる・国技館落成)

 

明治43年(1910)                      牧野克次46

  再渡航ニューヨーク市の高峰博士邸及び日本俱楽部其の他外人邸の

日本式室内装飾をする。

高峰邸 著者 :牧野克次 内容 :写真 6枚・目録・総説と各室の説明

縦22.2 ㎝×横15.3 ㎝   牧野克次遺品  宮嶋晃所蔵

 

高峰邸冊子内容

第一章 総説

ニューヨーク地方に於いて高峰邸と通称されるもの二か所あり、一は高峰博士の住宅にして、ニューヨーク市中に在り、一は博士の別邸松楓殿にしてニューヨークの西北約百二十里にあり、松楓殿の説明は別冊に譲り、ここには住宅のみに就きて説明す。

工学博士、薬学博士高峰譲吉氏の家庭は当時、婦人及長、次男の四人にして、其他の

人々は総て使用人なり。

第一節 位置と構造

 ニューヨークなる高峰邸はリバーサイドドライブの三百三十四番地にして百五町目と

百六町目との間に對し、水を隔てて、ニュージャージー州の断崖を望み、雄大の気、豪岩の景窓前に迫る。

家屋の外構は、ルエネサンス式にして、五層の石造なるも、上部後方に一層と、地下に一層あり日本式に之を數ふるときは總て七階なり。

 この邸宅を修築するに先ち博士の最初の希望は、全部を日本式とし、第一階は奈良朝の

雄大なるもの、第二階は藤原式の優麗なるもの、第三階は鎌倉式に室町式を加えて閑雅なるもの、第四階は桃山式の燦爤たるもの第五階は徳川中世以後の式を取り、別に茶席を設け、歴史的に作らんとのことなりしも、斯の如く全体を参考館風に築造するときは、外国に於ける尋常の住宅地としては、種種の不便支障を生じ、容易に適応せしむる能はざるを以て、他日別に地を相して、其初志を満足せしむべく、今は、只之を其一部分に止めんとの識に決着し、即ち表玄関より第一第二の二層を日本式、其の他を洋式とすることと

なれり。 続く……

  大正元年(1912)ニューヨークのリバーサイド。ドライブに建てた5階建て

の高峰博士邸宅。

  1階は宇治平等院鳳凰堂風。2階の客室は、書院造り。3階から5階は

洋式で1,2階は松楓殿と同じく牧野克次が設計。

この和洋折衷の邸宅はアメリカ財界や政界の有力者に接し日本への

理解を深めてもらうことが目的だった。

(金沢ふるさと偉人館 http://www.kanazawa-maseum.jp/ijim/  より)

高峰譲吉博士1854年~1922年)は日本の科学者、実業家、工学博士、

薬学博士で1894年に消化薬のタカジアスターゼを発明、1900年に

アドレナリン(止血剤)結晶抽出に成功し医学の発展に大きく貢献した

1922年アルミニウム製造事業の推進に取り組んだ。

ワシントンのポトマック川にある桜並木は1912年に東京市が寄贈したが、

高峰譲吉は寄贈の計画、発案を当初から参画し尾崎東京市長らと共に

実現に大きな役割を果たした。  (ウィキペディアより)


 桜を贈った日本側からポトマックの米委員会に宛てた感謝状。


ワシントンのポトマック湖畔やニューヨークのハドソンにある桜並木を高峰譲吉博士が寄贈時、牧野克次も博士を支持し参加していた。

牧野克次遺品    宮嶋晃所蔵

 


前記の書類が読みにくくなっていた所、早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系

講師の石井香絵様が英語の文字起こしをして下さいました。 




横20,5㎝×縦15,5㎝

                 右端 牧野克次   牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵


   

 横10,5×縦8㎝      右端 牧野克次   牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵



            

横15,5㎝×縦20,5㎝   牧野克次遺品写真 宮嶋晃所蔵               

詳しくはNPO法人高峰譲吉博士研究会

http://www.npo-takamine.org/info/27.htm を参照下さい。

   一時帰国の後、澤部清五郎をともない渡米しニューヨークの高峰博士邸の

装飾を手掛けた

 

   

    1987年発行 ―近代日本水彩画の展開―展 福島県立美術館107ページより

 

(明治43年・大逆事件幸徳秋水ら検挙・白瀬中尉らの南極探検隊出発・白樺創刊)

 

   

大正3年(1914)                牧野克次50歳

台湾へ避寒中、牧野克次の旧作数十点の絵画展を行った。

林本源の依頼があり(へい)橋(きょう)(地名で1920年板橋と改称)の 別墅(べつしょ)林本源の別荘

・邸宅)の数圖を作り約半年滞在した。

  林家 枋橋邸 牧野克次作品 天平堂画集より

 

 牧野克次作品 第628号 林家 枋橋邸 「汲古書屋」 林熊徴殿藏

  天平堂画集より 大正4年11月発行  

 

 

  台湾の「林本源邸- 林家花園」はインターネートで現在の様子が

  出ています。

  

 

 牧野克次作品  第629号 林家 枋橋邸 「方鑑齋」  林熊徴殿藏

  天平堂画集より 大正4年11月発行  

 

牧野克次作品  第630号 林家 枋橋邸 「來青閣」

天平堂画集より 大正4年11月発行  林熊徴殿藏

 牧野克次作品  第631号 林家 枋橋邸 定静堂 林熊徴殿藏

天平堂画集より 大正4年11月発行   

 

大正4年(1915)                  牧野克次51

   久邇宮御本邸設計案御下命ありその為御紋章花瓶一対装身具等品々下賜

     (くだしたまわる)

   

   牧野克次 天平堂画集を発行 表紙

 

 

       21㎝×横28.9

天平堂画集発行ごあいさつ 天平 牧野克次

 

 

 

 

 

 

  天平堂画集 目録

 

        
               
天平堂画集 目録2

 

 

       天平堂画集より一部紹介します

 

  牧野克次作品 第534号 富士橋畔 台北鉄道ホテル殿藏

  天平堂画集より 大正4年 初秋発行

 

 牧野克次作品 第543号  厨房    毛利千代次殿 藏

  天平堂画集より 大正4年 初秋発行

牧野克次作品 第546号  漁村    台湾総督府 藏

天平堂画集より 大正4年 初秋発行

 

牧野克次作品 第558号  三保の松原  坂本素魯哉殿 藏

天平堂画集より 大正4年 初秋発行

 

   牧野克次作品 第605号 ホドソン河畔    佐田家年殿 藏  

天平堂画集より 大正4年 初秋発行

 

  

  牧野克次作品 第606号 ニューヨークウォーズアイランド 

林本源製糖株式会社殿 藏  天平堂画集より 大正4年 初秋発行

  牧野克次作品 第607号 ニューヨークウォーズアイランド 

小松仁三郎殿藏  天平堂画集より 大正4年 初秋発行

 

 

  牧野克次作品 第683号  海岸  中川小十郎殿藏  

天平堂画集より 大正4年 初秋発行

 

久邇宮御本邸設計案御下命ありその為御紋章花瓶一対装身具等品々下賜

(くだしたまわる)

  

        宮殿建築平面略図 大正五年四月 M号草案ノ三が残されていた




久邇宮邸は現在の聖心女子大学の中に残っているとの事。この設計図との関係はどうなっていたのだろうか?

大正6年5月9日 牧野克次 妻 楠枝 京都において亡去

         東山真如堂 法輪院管理 墓地に納骨(牧野氏墓地)

 

大正7年(1918)                    牧野克次54

  大阪の(きゅう)(てい)(旧邸)(へい)(ならびに)に京都の寓居(ぐうきょ)(仮住まい)を引上げ

東京に移る。

大阪の旧邸 大阪市北区臼屋町43番

     京都の仮住まい 京都市上京区下長者町

     7月東京    霧ケ丘町へ

  牧野克次の大阪の(旧邸)があった所の地籍地図と地籍台帳
 
 大阪市立中央図書館所蔵 明治44年6月発行 大阪地籍地図復刊 柏書房
 川崎町・臼屋町・今井町の地籍地図

  大阪市北区臼屋町 ピンクで囲っているのが当時、牧野家一族が所有していた所
  造幣局の近くで天満橋を渡ってすぐの所で、天満1丁目の一部になっている。
牧野克次の居住していた所には、現在ニチレイ天満橋ビルが建ち一族の所有地には、
大阪技術専門学校や天満研修棟が建っている。
「借家経営し 當時臼屋町殆ンド全町二渉ル俗…牧野町ト称サレタリ通称天平ト唱エラル」と克次は天平詩鈔に書き残していたが、明治44年の時点でもこれだけの家屋を
所有していた事が分かった。
京橋2丁目の方にも一族は居住地として地籍地図に名前が記載されてあった。
又、宝暦13年(1763年)生まれで安政4年(1857年)に亡くなった天王寺屋牧野孫兵衛の時代は八軒家にては、伊勢屋と称して商売(薬問屋と聞いたように思うと孫の
宮嶋春様の話)をしていたと、昨年発見された過去帳に記載されている。


 

大阪市立中央図書館所蔵 明治44年6月発行 大阪地籍地図復刊 柏書房
 川崎町・臼屋町・今井町の地籍台帳
赤で囲っているのが牧野家一族が所有していた所。 牧野楠栄は克次の妻の名前

 

現在、ニチレイ天満ビルが建っている・ 現在、大阪技術専門学校が建っている
(牧野克次と家族居住していた所)  (牧野克次と妻楠枝の名義だった所)

牧野克次の京都の(仮住まい)
  住所 京都市烏丸通下長者上る龍前町605番地   145.61坪
  丁度、京都御苑蛤御門前 現在京都ガーデンパレスの玄関あたりになる
牧野克次の
仮住まい

京都府立京都学・歴彩館 京都市地籍図第1編上京の部 資料より

 大正5年頃  と 大正元年 現在の京都市上京区の地図
京都市町名変遷史1  京都府立京都学・歴彩館 資料より
大正元年時の所有者は佐伯義勇と云う方、大正5年頃は湯浅治郎と云う方の名前が
地籍台帳に記載されていた。牧野克次の孫にあたる宮嶋春様は「牧野克次は下長者の
ホテルがある所に昔住んでいたと聞いている」と話されていた。
大正4年11月20日に発行した「天平堂画集」の発行者、牧野克次の住所は
京都市烏丸通下長者上る龍前町605番地と記されている。
天皇陛下の事を龍顔うるわしくというように、御所の前にあるので、龍前町という。
大正7年「京都烏丸蛤御門前より(東京へ)引越」と牧野克次は天平詩鈔に記録している。

大正7年(1918年)1月14日に
久邇宮邦彦王の第一女子である良子女王様が裕仁皇太子妃に内定される。
内定にともない学習院を退学され、4月13日以降久邇宮邸に設けられた
学問所で皇太子妃としての教育が始まる。
学問所での教育は2~3年前後の予定であったが、宮中某重大事件さらに
関東大震災の影響により婚儀は延期され続けた。
                      ウィキペディアより   

牧野克次(祖父)は、良子女王様の家庭教師係を担当することになりました。                                                   (宮嶋春談)

下の写真4枚は「昭和の母 皇太后さま 昭和天皇と歩まれた愛と激動の生涯」 2000年7月30日発行・女性自身で紹介されたもの
 国立国会図書館東京本館所蔵
            
 久邇宮邸内に造られた学問所。         学問所内部
現在は都立駒場校内に”迎光寮”として残されている     


御学問所でのご勉強がはじまった良子様  香淳皇后様の作品「春光」花桃

大正8年(1919年)710日 家屋買収 東京都四谷南寺町49番地(牧野家)

          旧屋敷取り壊し新築す

          12月一部竣成 霧ケ丘より移転


戦前の東京での自宅  牧野克次 邸
                  牧野純一のアルバムの閉じ袋の中に原本が入っていたもの

住所 四谷區南寺町四拾九番地  牧野

 敷地 総坪数 壱百貳拾六坪四合八勺

 下階 五拾六坪壱合八勺七オ

 上階 貳拾四坪

 

 

家族 牧野克次 長男 牧野純一 牧野純一の妻 美喜子 

牧野克次の義妹 楠瀬 

住み込みのお手伝い 京都白川より 姉妹 マサさん ウタさん

    マサさんは 牧野克次専属の方だった。

ウタさんが結婚した後は違う若い方が来られた。 (宮嶋春談)

 

 

大正9年(1920)                 牧野克次56

  久邇宮邦彦王の御内命により故朝彦親王のご事蹟(事実の痕跡)調査に従事し

 近江国五箇荘(滋賀県五箇荘)(旧)御料地を発見し同地方へ殿下の台臨

(皇族の出席すること)を仰ぐ(請う)


久邇宮(くにのみや)邦彦王 

  日本の皇族・香淳皇后の父・孫娘 島津貴子様

  邦彦王妃俔子(ちかこ)様 

    久邇宮(くにのみや)邦彦王の妃・ 香淳皇后(良子皇太后)の母

旧薩摩藩主侯爵 島津忠義の八女

               ウィキペディアより     

 

 


大正9年10月7日集る 50回謡会 観世流謡曲の会 

 趣味ノ謠曲ハ幼時先々代中村彌三郎ニ就キ次デ大西鑑一郎ニ學ビ後東京ニテ

大正八年ヨリ宗家観世元滋ニ教ヲ受ク (克次略歴より抜粋)

 

 

   後列 右から4人目 牧野克次

   

  観世謡流  真ん中 牧野克次

 

  熱海の別荘(牧野克次所有)で謡の指導をしていました。

    その時克次は、牧野家の家紋入りを着用しました。

  幼い時、ここへ来た時は、入ってはいけない部屋(克次の部屋)で

私は、とても緊張していました。(右の写真) 

宮嶋(牧野)春 談

 

 

立って居られる方 東園栄子女王(久邇宮朝彦親王次女・昭和天皇の御親戚)
 その右側 第1お付きの方 

右端 牧野克次 謡指導   昭和13年頃

 

天平詩鈔第二

  

   天平詩鈔 第二   縦24㎝×横16.5

(牧野克次が多くの詩の中から抜き書きして書物にしたもの)

  

久邇宮邦彦王殿下にお仕えし大正9年10年11年に渉り、

宮内省某重大事件に参画する事になったことも記されている

 
  暮夜側近事ヲ弁ス然シテ南寺町ノ家ハ諸有志ノ策源所トナル
杉浦重剛氏ノ如キ常々来リテ對策ヲ練ル 本郷大将ノ如キモ亦然リ
少ナカラザル費用ハ終始私財ヲ蓋シテ事二當ル
其額数万円二及ブ 等が天平詩鈔に書かれている

(大正9年当時、米10キロ3.7円・大卒初任給月給40円の時代)

宮中某重大事件  ウィキペディアより
1921年(大正10年)裕仁親王(当時皇太子、のちの昭和天皇)の妃に
内定していた久邇宮良子女王(後の香淳皇后)について、家系に色盲の遺伝が
あるとして、元老・山縣有朋らが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った事
 杉浦重剛 (すぎうらじゅうごう) 1855(安政2)年~1924(大正13)年
若き日の昭和天皇・秩父宮・高松宮3兄弟に帝王学の一環として倫理を
進講する 号は梅窓または天台道士
(牧野克次の遺品の中に天台道士の書が残されている)
本郷房太郎 陸軍大将 1860(万延元年)~1931(昭和6)年
軍を退いてからは久邇宮宮務監督や大日本武德会長
           

大正10年(1921年) 宮内省発表される

 良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し世上種種の噂あるや聞くも

御決定は何等變更なし (大正10210日午後8時)

1921 211日付け 朝日新聞報道より

                    ウィキペディアより

   
 大正11年 良子様ご婚約時代    大正13年1月26日 御結婚式の朝久邇宮邸をご出発の
                          良子様
    
香淳皇后様の作品「さかりに咲く」ハイビスカス  香淳皇后様の作品 須崎にて

上の写真4枚は「昭和の母 皇太后さま 昭和天皇と歩まれた愛と激動の生涯」 
2000年7月30日発行・女性自身で紹介されたもの  国立国会図書館東京本館所蔵

牧野克次が担当した良子女王殿下の京都帝室博物館御見学計画
大正12年5月30日


                                 牧野克次氏遺品 宮嶋晃所蔵
                平成30年11月 撮影 竹田美壽恵



大正12年5月30日の良子殿下 京都帝室博物館における久邇宮御一行 
バックを下げさせられるのが良子女王 と記載されている新聞
京都滋賀附録 第1萬四千三百六十二號 
後ろの石柱より見守る牧野克次    牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵


大正13年2月
裕仁親王様と良子女王様とのご結婚の報告のため伊勢神宮に参拝された時の写真
1989年(昭和64年)1月7日昭和天皇崩御された年、朝日グラフ1月25日号に掲載
(京都府立図書館蔵)  
良子女王様の後ろに控える牧野克次



天平堂(牧野克次)の 印譜集     牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵
久邇宮邦彦王・邦彦王妃俔子様等の印譜集7冊が残されている 横16.8㎝×縦15.4㎝
                                               

     

天平堂(牧野克次)印譜集の一部   
牧野克次遺品  宮嶋晃所蔵

久邇宮邦彦王・邦彦王妃俔子様等の印譜  大正10年
牧野克次遺品  宮嶋晃所蔵


東園栄子女王(東園基愛夫人)      東伏見宮依仁親王妃周子王妃様の印譜
 1868年~1949年                岩倉具視の孫
久邇宮朝彦親王(後伏見天皇19世皇孫)の2女  牧野克次遺品  宮嶋晃所蔵
       

昭和4年 朝融王章の印譜   牧野克次印譜集より
 牧野克次遺品  宮嶋晃所蔵

久邇宮邦英王の印譜 天平堂印譜第3 上  牧野克次遺品  宮嶋晃所蔵


鹿子木孟郎の印譜 昭和11年    高松宮宣人親王の印譜 昭和7年
京都の洋画家 ・関西美術院設立発起人メンバー    (昭和天皇の弟)  
1874年(明治7年)~1941年(昭和16年)  牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵


京都高等工芸学校 卒業證書用印譜  明治35年 天平堂印譜第3 上
牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

園長 中澤岩太(遊陶園・京漆園・道楽園・時習園を設立) 明治37年の印譜
明治35年京都工芸学校の初代校長  天平堂印譜第3 上より
京都帝大および京都高等工芸学校の名誉教授 (日本美術年鑑)
牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵




武田五一章 昭和8年10月 天平堂印譜第3 下に収録
武田五一 1872年(大正5年)~1938年(昭和13年)日本の建築家・ 建築学者
作品として京都府立図書館・丸山公園・関西電力京都支店などがある
牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵

武田五一 ウィキペディアより

印譜とは(いんぷ)印籍の一種で、鑑賞や研究を目的として印章の印影
および印款を中心に掲載した書籍である。(ウィキぺデアより)
たいていの人はハンコのことを印鑑(いんかん)と言っていますが(私もそうでした)正式には
「印鑑」「印章」「印影」にはそれぞれ違う意味があります。
 


                             

 

その後殿下の薨去(こうきょ)(皇族、三位以上の方が亡くなる事)されるまで御内殿に

出入りし美術 其の他直属の御用を拜承す(うけたまわる)

 

大正11年(1922年)頃    牧野克次58歳頃 の作品

 

牧野克次 裸婦 80.5×116.6㎝ 油彩、キャンバス               

浅井忠と関西美術院展 発行 府中市美術館・京都市美術館・京都新聞社 より

企画編集 滋賀秀孝・清水佐保子

滋賀秀孝氏のコメント(府中市美術館主任学芸員)

  伝来によれば、本図のモデルはシャンソン歌手のAであろうと伝えられて

  いる。Aは学生時代に裸体モデルをした事を自ら述べているが、その時の

  作品であるならば大正11年頃の作品であろうと思われるのである。当時の

  Aの顔写真と本図の人物の表情にも共通するところがある。ただし、

  モデルはその絵が二科展に出品された筈といい、牧野の二科展への出品は

  確認されていないことも事実である。いずれにせよ、これまでの牧野の

  作風にはない強い立体感と質感表現の現れから、アメリカで様々な影響を

  受けたことが理解される。

 

大正12年(1923)9月1日 関東大震災

 東京の自宅倒壊は免れました。震災後、牧野克次の義妹、楠瀬が使用していた

部屋を鉄で補強し再度の地震時にはそこへ集まるよう言われていました。 

(宮嶋春談)

昭和3年(1928年)久邇宮邦彦王殿下の側近として赤倉へ随行

   

           久邇宮邦彦王殿下(左端)の側近として仕える 牧野克次(↑矢印)

      赤倉へ随行

 

 久邇宮邦彦王(中央)殿下の側近として仕える  牧野克次礼服 後方左端
真ん中に座ってイチゴ狩り?をされている良子女王様(後の香淳皇后)
   左側の方は邦彦王妃の俔子様と思われる

 

 久邇宮邦彦王(中央)殿下の側近として仕える

 

  

  久邇宮邦彦王殿下の側近として随行     牧野克次所蔵写真

 
 昭和13年(1938)2月21日
   牧野楠瀬 没 82歳  牧野克次邸にて葬儀行われた

 

昭和14年(1939年) 牧野克次75歳

       牧野克次 號 天平 水彩画個人展覽会開催 

  昭和14年12月19日(火)より23日(土)まで

  三越本店(東京)にて  

       牧野克次 號 天平 水彩画個展目録表紙

   

  

 

牧野克次 號 天平 水彩画個展目録1ページ   

正木直彦氏 東京美術学校(現東京芸術大学)第5代校長より

牧野克次の紹介

http://www.geidai.ac.jp/geidai-tuusin/timecapsule/img/photo_b4_1.jpg 

  

 

 牧野克次 號 天平 水彩画個展目録2ページ

 正木直彦氏 東京美術学校(現東京芸術大学)第5代校長より牧野克次の紹介

 

 

 

牧野克次 號 天平 水彩画個展目録3ページ

正木直彦氏 東京美術学校(現東京芸術大学)第5代校長より牧野克次の紹介

 

 

  牧野克次 號 天平 水彩画個展目録4ページ

 正木直彦氏 東京美術学校(現東京芸術大学)第5代校長より牧野克次の紹介

 

 

 

牧野克次 號 天平 水彩画個展目録5ページ

正木直彦氏 東京美術学校(現東京芸術大学)第5代校長より牧野克次の紹介

  

 

牧野克次 號 天平 水彩画個展目録6ページ

正木直彦氏 東京美術学校(現東京芸術大学)第5代校長より牧野克次の紹介

 

正木直彦氏 東京美術学校(現東京芸術大学)第5代校長の紹介

  1901年から1932年までの32年間 東京美術学校の校長を務める

  生年1862年(文久2年)  死没 1940年(昭和15年)3月2日

 

牧野克次 號 天平 水彩画個展目録7ページ左 折りたたみ

 

  昭和15年の貨幣価値

   勤労者世帯実収入1カ月 125円

国家公務員初任給1カ月 75円

   大卒初任給1カ月    75円~80円  ・中卒 42円

   巡査初任給1カ月  45円

   大工手間賃1日 3円  ・ 日雇い労働者1日 2円(昭和14年)


牧野克次 號 天平 水彩画個展目録7ページ右 折りたたみ

            昭和14年12月19日より23日迄 5日間

 

 

牧野克次 號 天平 水彩画個展目録8ページ

 

  牧野克次作品 

牧野克次 號 天平 水彩画個展目録9ページ

 

  

牧野克次 號 天平 水彩画個展目録10ページ

 

 

牧野克次 號 天平 水彩画個展目録11ページ

 

    

  

 宮嶋春様・宮嶋晃様聞き書き 4

牧野克次 絵画作品

 

 牧野克次 加茂の林・池の畔 32.0×44.0㎝ 水彩 

 高野コレクション所蔵

 発行平成16年 府中市美術館 浅井忠「光」の系譜 間部時雄と京都の仲間たち

 

牧野克次 寺社風景27.3×48㎝ 水彩 高野コレクション所蔵

 発行 府中市美術館 浅井忠「光」の系譜 間部時雄と京都の仲間たち

 

牧野克次 松林 30.5×44.5㎝ 水彩 千葉県立美術館所蔵 

発行府中市美術館 浅井忠「光」の系譜 間部時雄と京都の仲間たち

 


牧野克次 醍醐の塔 47.0×30.2㎝ 水彩 高野コレクション所蔵

発行府中市美術館 浅井忠「光」の系譜 間部時雄と京都の仲間たち

 

牧野克次 田舎 43.0×28.3 水彩 高野コレクション所蔵

発行府中市美術館 浅井忠「光」の系譜 間部時雄と京都の仲間たち


牧野克次  木 30.5×44.5㎝ 水彩   京都市美術館所蔵

発行府中市美術館 浅井忠「光」の系譜 間部時雄と京都の仲間たち

 

牧野克次 加茂の林 49.1×32.6㎝ 水彩 高野コレクション所蔵

発行府中市美術館 浅井忠「光」の系譜 間部時雄と京都の仲間たち

執筆 志賀秀孝・前川公秀・山梨絵美子  図録編集 志賀秀孝

 

 

 

昭和17年(1942)牧野克次 永眠

  

       

              牧野家遺品・宮嶋晃所蔵写真
 牧野克次葬儀に 久邇宮家様と東伏見宮家様よりお供えを頂いている  

 

(この年日軍マニラ占領・シンガポール占領・米軍日本初空襲・味噌醤油通帳制)

 

  

 天王寺屋 牧野家の方が眠っておられる京都 真如堂 

平成28年2月3日撮影 竹田美壽恵

   

真如堂 法輪院にある天王寺屋牧野家の墓  石垣に天王寺屋 牧野墓と彫り込んである    

平成28年2月3日撮影 竹田美壽恵

 

 真如堂 法輪院にある天王寺屋牧野家の墓  石垣に天王寺屋 牧野墓と彫り込んである

平成28年2月3日撮影 竹田美壽恵

 
真如堂 法輪院にある天王寺屋牧野家の墓      平成28年2月3日撮影 竹田美壽恵


  
  真如堂 法輪院にある天王寺屋牧野家の墓  平成28年2月3日撮影 竹田美壽恵


牧野克次 元治元年(1864)4月21日~ 昭和17年(1942)10月22日 78歳没
・大阪の豪商天王寺屋の一族・日本画家・西洋画家・篆刻家・建築室内装飾家
・大阪府高等小学校教員・静岡県師範学校教員・大阪高等工業学校助教授
・京都高等工芸学校創立年4月に助教授として着任・関西美術会設立に参加・京都で画塾を開き、井上悌蔵、新井謹也、榊原一廣らが学んだ。・田村宗立、桜井忠剛と共に洋画家の懇親会的会合「二十日会」を創立・関西美術院設立の発起人・関西美術会、大阪第5回内国勧業博覧会其の他各種展覧会の審査員に従事 ※⑤
・ニューヨーク美術学校教授・松楓殿別荘、紐育高峰譲吉博士本邸、紐育日本倶楽部工事設計、室内装飾・久邇宮家側近・皇太子裕仁親王(後昭和天皇)妃に内定時、
久邇宮邸内に設けられた学問所で昭和の母になられた良子女王様の皇太子妃教育に尽くされ、物心両面で久邇宮家を支えた方。 ・趣味 謡曲 ・雅號 天平
 

これまでの文中で、紫色の字は浅井忠と関西美術院展 発行府中市美術館、京都市美術館、

京都新聞社志賀秀孝氏 府中市美術館主任学芸員論文より引用しました。

  年代毎の国内外の主な出来事は新風書房の自分史参考資料年表を引用しました。

                                                                                                                   おわり

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