宮嶋八蔵日本映画
四方山話

雨月物語
祇園囃子
近松物語
ぼんち
京都人文学園
  Jinbun 【ウエブ管理者 高橋の前書き】 宮嶋君の「日本映画四方山話」に今まで書かれたのは、彼の自分史の一断面、京都府立京都第二中学校から終戦前に、甲飛予科練習生教程を卒業。同年726日徳島海軍航空隊に入隊 (飛行術練習生として)した時期を記した 『3987番目の志願航空兵 私の軍隊生活 復員まで』 と、溝口監督について映画界での経験を綴った 『団子串刺し式ですが』 の間の京都人文学園に在学していた時期の話です。   ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 「日本映画四方山話」を書くにあたって、私の師匠である溝口健二先生と、私が卒業した人文学園の生活の理念のつながりが、風間書房より発行された「京都人文学園成立をめぐる戦中、戦後の文化運動」 山嵜雅子著 の中にあるのを発見しました。
 人文学園成立には、敗戦の年、京都に生まれたさまざまな文化団体やそれに関わった知識人、文化人の動きが伏線になっておりその中の1つとして知的文化人が集まった「京都自由人協会」が結成されている。そのメンバーを見ますと
 高山義三(弁護士・後京都市長) 野勢克男、新村猛、住谷悦治(元同志社大学教授)
重松俊明(京大講師)田中和一郎(代議士)淀野隆三(仏文学者)角野玄達(龍谷大学教授)溝口健二(映画監督)などとありました。
 人文学園の生徒の中には、専門学校出、大学卒業者、海軍機関学校生徒、陸軍経理学校甲飛予科練飛練出身者、旧制中学校卒、小学校卒業で日本の小企業社長(韓国出身)など学歴はさまざま。 一回生は無試験、面接のみ。2回生は英語と国語、歴史と面接があったように思います。この事は高橋君が構成、編集した2中同窓会誌の中の「北斗の星・宅間英夫君」という追悼号に詳しく出ていますので、又ホームページに掲載します。
 人文学園の授業と行事について下記に載せます。

京都人文学園 (人文科学部)

各年度科目と講師1946年度 (昼間)
   一般教養   新村  猛
   論理学     久野  収
   国    語      濱田  敦
   日本史       藤谷 俊雄
   西洋史      前川貞次郎
   数   学     田中 益造
   華   語     梅田 武文
   仏   語     加藤 美雄
   社会学      重松 俊明
   経済学      青山 秀夫
   政治学      佐々木時雄
   東洋史      重沢 俊郎
   自然科学     市川亀久弥
   英   語     菅  泰男
   露   語     佐竹  尚
   独   語     臼井竹次郎
1947年度 (昼間)
   一般教養     新村  猛
   論理学       久野  収
   哲   学     久野  収
   社会学       重松 俊明
   経済学       青山 秀夫
   政治学       永井 道雄
              岡田 良夫
   時事解説     佐々木時雄
   自然科学     市川亀久弥
   数   学     田中 益造
   英語初級    山田  
   英語中級    三島 泰治
   英語上級    菅  泰男
   エスペラント  栗栖  継
   法律学     恒藤 武二
             滝川 春雄
   華   語     梅田 武文
   露   語     小林  尚

1948年度 (昼間)
  一般教養       新村  猛
   経済学      青山 秀夫
                         島津 亮二
   法律学      滝川 春雄              宮内  裕
              熊谷 開作
   東洋史      北村 敬直
   心理学      武田 弘道
   生物学      山内 年彦
   時事解説     佐々木時雄
   英語初級・中級
              玉木意志太郎
   エスペラント 佐々木時雄 
   露   語    小林  尚
   独   語    臼井竹次郎
   英語上級    菅  泰男
   哲   学    田中美知太郎
             鈴木  亨
   社会学     杉ノ原寿一
   政治学     永井 道雄
            岡田 良夫
   国文学     森   修
   日本史     北山 茂夫
            藤谷 俊雄
            岩井 忠熊
   西洋史     市川承八郎
   自然科学   井上  健
   芸術論     中井宗太郎
            長広 敏雄
            北野 正男 
   華   語      梅田 武文
   露   語      小林  尚


京都人文学園のこと追加    
 人文学園は別名ヒュマニズムカレッジと呼ばれていました。美容師や調理師と同じ各種学校です。戦前のように文部省からの学校規則を避ける為に各種学校にしてあったのです。
 さて卒業しても文部省の定めた大学の資格はないものですから、就職は大変な苦労があります。就職の事を考えて人文学園の2年生の頃には大学への転校者が幾人も出ました。
 旧制高等学校の3年間の教養課程を確実に教える所で、専門課程は何も無いのですから
直接には就職には結びつきません。小学校の代用教員になるか、自営業、その他自由業、作家、映画人、美術家、雑誌編集関係というところでしょう。
 芸能界には学歴関係無しという風潮がありましたので、誘いがあった時幸いしたのですが、これにもきっかけがありました。
 日本画家の甲斐庄楠音先生は、私の家の向かいにありました。この頃、一町内に電話を持っている家は2-3軒しか無かったのです。私の家は商売をしていたので玄関先に入りやすく近所の人は皆、うちの電話を利用していました。
 溝口先生からの電話だったと思いますが、甲斐庄先生宅へ電話の呼出しに行った時です。壁にバストサイズの花魁の絵が掛けてありました。「アレッ!コレ!モナリザ!」と叫んで甲斐庄先生の顔を見ました。急に甲斐庄先生の顔がほころんで「ほう!そうや!判るかねえ」と云われました。これが溝口先生へ紹介されるきっかけとなります。
 人文学園の基本の知識は、大学での先輩、後輩助監督と仕事や仕事以外の話をする上で役に立っていたと思っています。
 人文学園卒、各種学校卒は後々給料面で非情な差別を受ける事になるのですが、この事は、又後の機会にゆずります。

平成19年4月2日
宮嶋八蔵 黄班変性症にて視力障害あり
                                  
                                     口述筆記  竹田 美壽恵


■京都人文学園の卒業証書
 Sotsugyo
 京都人文学園の卒業証書が出てきたのでお眼にかける。終戦後間もなくのことで、紙質は悪いが、珍しいことにラテン語で書かれたもの。
           
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■ 資料には、延々と1951年度までの教科と講師の氏名が連なっているが、ここでは、いかに優秀な講師陣が揃えられていたか、を知っていただくために三年間の分のみにとどめる。その他、年度別の特別講義・公開講演会、行事についての詳細な資料も添えられている。


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                                                                                            TOPへ