画家・牧野克次は「二十日会」創立メンバーだった
                                     洋画家二十日会と牧野克次の活動
                        (島田康寛氏の洋画家二十日会の基礎的研究と「二十日会記事」から)
                                                        2019(令和1)年11月                
宮嶋サロン・撮影・著者  竹田美壽恵
 宮嶋サロンHP担当  勝  成 忠
 

  はじめに
 牧野克次の遺品を多く発見したことにより、画家、牧野克次は120年前(明治時代)京都を舞台に、どのような活動をしたのだろうか?と考える機会となりました。
牧野家遺品の中に研究者 島田康寛氏が「洋画家二十日会の基礎的研究 」を昭和55年3月31日にまとめられた冊子がありました。この冊子には、「二十日会」の会合を大福帳に記録に残した「二十日会 記事」が付録としてついていました。

     

   洋画家二十日会の基礎的研究表紙 昭和55年3月31日島田康寛氏
   牧野家遺品  宮嶋晃所蔵より ・2018年京都工芸繊維大学へ寄贈


          洋画家二十日会の基礎的研究に付録の二十日会記事 62頁
          上記絵は明治36年8月20日二十日会来会者 鹿子木孟郎宅が会場
   島田康寛氏の「洋画家二十日会の基礎的研究 」と「二十日会記事」を教科書にして
   二十日会の事や二十日会の中で牧野克次の活動を学んでいきたいと思います


  目次
1.二十日会とは
2.二十日会記事について(二十日会の会合の様子を記録にしたもの)
3.二十日会の名称について
4.二十日会の会員について
5.二十日会出席者
6.二十日会の活動
7.島田康寛氏の「洋画家二十日会の基礎的研究」のまとめ
8.「二十日会記事」から
牧野克次邸で行われた「二十日会」はどのようなものだったのか見て いきたいと思います。
9.
島田康寛氏の「洋画家二十日会の基礎的研究」と「二十日会記事」から牧野克次の活動でわかったこと


1.二十日会とは
    二十日会は、明治35年9月20日に第一回例会を開き、大正末頃まで会合がもたれた、
    洋画家を中心とする親睦会的会合である


2.「二十日会記事」について
  二十日会の各例会の記録は三冊の大福帳に記されている。このうち第1巻及び第3巻は都鳥英喜の保管するところで、長く京都、都鳥家に在ったが、現在は千葉県立美術館の所蔵となっている。第2巻は鹿小木孟郎の保管するところであったが、現在は所在不明となっている。
第1巻は、和紙を麻紐でとじたごく普通に市販されていた大福帳で、横31.7㎝、縦11.6㎝の折紙形式の横帳である。表紙、裏表紙は厚手の和紙で、中には和紙96枚がとじられている。なお、表紙裏には別に和紙が1枚添付されており、「此帳面が出来たる前」の第1回から第3回例会の記事が「補遺」として記録されている。表紙には「二十日会記事」と朱書され、鉄鉢を捧げる一人の羅漢が藍色の水彩絵具で墨画風に描かれている。落款はないが田村宗立の筆になるものと推定される。裏表紙には、「明治35年12月20日」とこの大福帳を使い始めた日付けが、朱書きされ、同じく田村の筆と思われる煙を吐くほら貝が墨で描かれている。記事は、明治35年9月20日から同42年1月20日迄の例会の記録である。
 第3巻も、第1巻と同様の大福帳が用いられており、表紙には「大正10年11月/洋画家二十日会記録/第3巻」と墨書されている。なお、「第3巻の大福帳は東京牧野二十日翁より郵送寄贈のもの」と書かれており、東京に在った牧野克次から送られたことがわかる。
記事は、大正10年11月20日、同12年3月20日及び5月20日の3回分の記録のみで、以下は空白のままである。黒田重太郎の記憶によればこれ以後も「まだ律儀に、毎月でなくても、時々は催されていたようであるが、面倒がって、記載を怠ったのであろう」という。

3.二十日会の名称について
 「二十日会」は「洋画家二十日会」の略称ではない。いうまでもなく、二十日会は毎月
 二十日を期して会合を開くところからつけられたもの

最初洋画家の田村宗立、桜井忠剛、牧野克次によってはじめられた同会は単に「二十日会」と表記明治38年6月20日の例会を報ずる京都新聞の記事では「洋画家二十日会」 と表現され ている。 二十日会は、当初洋画家の内輪的な集まりであった為「洋画家」の文字を  冠する必要が なかった、洋画家以外の会員を擁するようになった為洋画家を中心とする会合で  あることを明瞭にするため「洋画家」の文字を冠することになったのだろう。と研究者の島田康寛氏の考察が書かれていた。

4.会員について
「会長なく会規なし 只例月二十日に有志者輪番に幹事となりて会を開き出席者より
五銭の会費を徴す」(洋画家二十日会記録 第三巻)とあるとおり、極めて自由で開放的な親睦の場として性格の強かった二十日会においては、特に定められた入会資格や条件が、無かった。


5.出席者
 第1回   田村宗立・桜井忠剛・牧野克次洋画家
 第2回   上記3人に洋画家の伊藤快彦
 第3回   上記4人に宝石貴金属品製作販売業、関西美術会幹事 
              大沢芳太郎(巴城)
 第4回   上記の方に加え洋画家の小笠原豊涯・浅井忠・都島英喜・
              新聞記者の金子静枝・北村鈴菜・劇作家の大森鶴雄(痴雪)
 その後の参加者

 洋画家   中林僊・荻原一羊・堀規矩太郎・鹿子木孟郎・山本勇吉・
               寺松 国太郎・間部時雄・国松金左衛門(桂渓)等
 日本画   北垣静処・森本東閣・徳永佐助(鶴泉)・岡本橘仙・槇岡芦舟
               菊池左馬太郎(素空)・等
 工芸作家  陶芸の宮永剛太郎(東山)・漆芸の浅野(杉林)古香・
         染織家で京都高等工芸学校教授の鶴巻鶴一等
 その他   関西美術会会頭で理学博士の中沢岩太・建築家で工学博士の
               武田伍一 ,京都高等工芸学校教授で理学博士の福井松雄・
               国文学者で京都帝国大学で教鞭を執る増田千信や池辺義象・
               当時京都高等工芸学校で英語を教え、後
       京都府立図書館長となった詩人の湯浅吉郎(半月)・
                劇作家の高安月郊
        芸能研究科の堂本寒室・花道の西川一草亭・写真師
              某帯地問を営む
       三宅安次郎・妓楼大友に生まれ多くの文人墨客と交遊を持ち
           、一時浅井忠
              図案の陶器や漆器を売る九雲堂を開いた磯田多佳子等
       美術関係の新聞記者では黒田天外・山田桂華・小田春宵・宮田朱雀
       西川千里・豊泉天鼓・川村文芽・麻田湘南等が主な出席者である
       小山源次・得田耕の名前もしばしばみられるが、いずれも不詳である。
              「二十日会記事」第一巻に出席者として名をあげられている人物は、
              約70人にも達している 二十日会出席者がいかに多彩で幅広い
               もので あったかがうかがえる。

 6.二十日会の活動 
 「春宵秋夜清談歓語ニ時ヲ遷シテ」(「洋画家二十日会記録」第三巻)その中に楽しみを求めた二十日会は、決議機関でもなく、事業団体でもない。ひとえに親睦会的集まりであった二十日会は、戯談、珍談、怪談、時には猥談も交えて、いかにも明治時代らしい長閑な会合を続けたが、さすがに洋画家を中心とする集まりで、第5回内国勧業博覧会、東京府主催勧業博覧会、文展等の問題、洋画における新派、旧派の問題、裸体画 の可否  についての問題、水彩画と油彩画の特徴についての問題、北村鈴菜と北垣静処らが組 織した京都の有望  青年日本画の団体鴨緑茶話会瓦解の問題等、美術に関する 話題も出され 真剣に討議された。また、絵葉書流行の波に乗って絵葉書を描いたり、唐紙、画帖、短冊、  時には  屏風への席上揮毫をしたという記事もしばしば見られ、画家以外の 人々も積極的に筆を揮っている  。 こうしたことは 、画家以外の人々に根強い美術趣味を植え付 け、 ひいては広く一般の人々への美術普及にも少なからぬ役割を果たしたと考えられる。 しかし何といっても二十日会の功績として忘れることができないのは、明治35年12月の第4回例会(牧野 克次邸で行われた)で、提議され検討された次の問題の内の第3点であろう。
 1.肝胆相照スベキ日本画家と連絡を通ずる事
 2.月刊機関雑誌発行の件
 3.絵画研究会会所借入のこと

 
1については、浅井忠入京直後に千種草雲や芝千秋等の日本画家が門をたたいていること等とも関連するであろうし、この日の出席者北村鈴菜の存在とも関連するであろう。いずれにしろ、単に洋画家だけでなく広く他のジャンルの芸術家との交流を問題としたわけである。明治36年に神坂雪佳、浅井忠、菊池素空らが中沢岩太を園長として、宮永東山ら陶芸家と趣味的陶芸団体遊陶園を結成したこと、明治39年に浅井忠、浅野古香らが趣味的漆芸団体京漆園を結成したことにもつながる問題である。
2については、実際にはそのままの形で実現した形跡はないが、明治37年に創刊されたと推定される年一回刊行の「関西美術会報告」へと発展したものと思われる。ちなみに二十日会に出席した洋画家はすべて関西美術会のメンバーであった。
第3の問題は、その後第5回(明治36年1月)第7回(3月)第9回(5月)にも討議され6月2日に開所式を挙行した聖護院洋画研究所であることは言うまでもない。「講師幹事は総而二十日会の会員にて持切り」というところはまさに二十日会と聖護院洋画研究所との有機的結合を示すものであろうそして同研究所が発展的解消をとげて、明治39年に関西美術院となり、京都の洋画界の中心としての役割を荷っていくことは周知のとおりである。ここに見られる二十日会、関西美術会、聖護院洋画研究所(関西美術院)の三位一体ともいうべき関係こそ明治の京都洋画発展の礎であったといわねばならない。

 7.歴史の中の二十日会
島田康寛氏の「洋画家二十日会の基礎的研究 」のまとめ
京都における近代洋画の歴史は古く、幕末に田村宗立が陰影画法を発見した時に始まる。その後、明治13年に京都府画学校が設立され、小山三造、田村宗立、疋田敬三らによって洋画法の教授が始められることにより、洋画はようやく発展するかの兆しをみせたが、明治23年に至って疋田敬三の後任がなく実質的に洋画法の教授は廃止となった。
京都の洋画界はここに低迷期を迎えるが、そうした中で伊藤快彦らごくわずかの人々が、地味な努力を積み重ねていた。こうした京都の洋画界を刺激したのは、明治28年に京都で開かれた第4回内国勧業博覧会である。黒田清輝の「朝妝」をめぐる裸体画論争は、一方では一般市民の洋画への関心を高める結果ともなったのである。折から小笠原豊涯、桜井忠剛らも京都に移住した。
 関西における洋画家たちが結束して展覧会を開くという話が持ち上がり、大阪で関西美術会(第1次)が結成されたのは明治27年頃であるが、これはまもなく崩壊、29年頃には再び大阪で同名の会(第2次)が結成され、展覧会も開かれた。ここに関西の洋画界に上昇的気運が生まれていたことは確かである。もちろん、京都の洋画家たちはその重要な一翼となっており、明治34年に至って今度は京都において第3次関西美術会が結成されたのである。この背景には京都における洋画界の高潮があったことは言う迄もない。発起人は、京都の田村宗立、桜井忠剛、伊藤快彦、大阪の牧野克次、松本硯生、
山内愚僊、松原三五郎で会頭に中沢岩太、幹事に金子錦二、大沢芳太郎、委員に発起人の7人が選ばれた。やがて、明治35年の京都高等工芸学校の開校に伴い、教授として東京から浅井忠が、助教授として大阪から牧野克次が、助手として浅井と共に都島英喜が入京した。こうした状況下に二十日会が結成されたのであるから、その会員たちのほとんどが関西美術会、京都高等工芸学校関係者であったのは当然といえる。この経緯は
明治期の京都がすべての分野において持ち合わせていた時代性を無視しては考えられないことで、二十日会はまさに時代の子として誕生したといえるであろう。
しかも、京都の近代化が堅実で着実であり、同時にそれが市民全体の要請であったように、二十日会も、東京における「パンの会」のような華やかさや高踏的な雰囲気はなかったが、その存在と影響は根強いものであった。
 ここで思い起こされるのは、慶応年間に当時の京都画壇の中心的な存在であった中島
来章、土佐光文、盬川文麟、円山応立、狩野永祥、吉村孝一、鶴沢探真、国井応文らによって結成された如雲社のことである。
如雲社は月並に集会して画談をまじえたり、風流韻事を楽しむというのが当初の目的で後には小展覧会を開いて批評しあったりしたという。これももっとさかのぼれば、寛政から幕末に至るまで続けられた東山春秋展観にまでたどれるかもしれないが、それはおくとしても、少なくとも京都にはこうした文化的風土があり、それが二十日会の成立や二十年にもわたる継続を容易にしたのであろうことは想像に難くない。二十日会が時代の子と考えられると同時に、京都の伝統や文化的風土の申し子であったといえるだろう。
 しかし明治40年の第1回文展の開催は、日本の画壇全体が東京を中心として動いていく契機となり、大正3年の二科展の結成はそれに拍車をかけた。明治期には、独自性を保持しながら展開してきた京都の洋画界も、大正期を迎えると、一地方として東京を中心とする動きに従属していくようになり、それぞれの画家の目も「中央」へと向けられていかざるを得ない。にもかかわらず、関西美術会も二十日会も継続されたし、関西美術院は今もなお存在して地味な活動を続けている。
二十日会その最も盛会であったのは明治時代であった。そこに明治時代の二十日会の存在の重要性もあったわけである。



 8.牧野克次邸で行われた「二十日会」はどのような内容だったのか?
  二十日会記事(第1巻)  (主に牧野克次邸で行われた二十日会を抜粋した)
     
  洋画家二十日会の基礎的研究に付録 昭和55年3月31日島田康寛氏
  二十日会記事(第1巻)は千葉県立美術館所蔵のもの

1)明治35年12月20日  (洋画家二十日会の基礎的研究附録9~10頁)
  ①当番幹事  牧野克次宅 御池通河原町東へ入
  ②来会者 (到着順)大沢巴城・桜井忠剛・金子静枝(日出新聞の美術記者)
      木屋町井登の路次・大森鶴雄(痴雪と号す・松竹の劇作家)
      小笠原豊涯(洋画家)
      田村宗立(号は月樵  ・洋画家・日本画家)
      浅井忠(黙語、木魚と号す・明治美術会の
      中心 的画家の1人)・都鳥英喜( 洋画家)
      建仁寺町四条下ル東側 北村鈴菜(本名直次郎・京都新聞社美術担任記者)
  ➂記録 巴城子は神州男子なり矣、卒然として裸体画無礼論を提出し気焔萬丈
       当るべからず反騶四方に興って帰する所を知らず桃季園が罰の金谷の儀を落に蒸 鮓に
         かへて 夜を 更す 正に三更
             此他当夜の問題となりたりは左の如し (次からは行朱書)
               一、肝胆相照スベキ日本画家と連絡を通ずる事
               ニ、月刊機関雑誌発行の件
               三、絵画研究会会所借入の事
                 会主(牧野克次)謝して曰 ○○○○
                 次の会主 歎じて曰く 今夕のもてなし甚だ厚し 窃かに頭痛の気味あり


       
 
        洋画家二十日会の基礎的研究に付録の二十日会記事 11頁
    上記の絵は明治36年6月2日田村宗立宅での二十日会の様子

)明治36年5月20日 (洋画家二十日会の基礎的研究13~15頁)
   ①当番幹事 牧野克次宅  河原町通荒神口上ル東桜町
 ②当日の来会者    都島英喜・小山源次・小笠原豊崖・田村宗立・浅井忠
      ・宮永剛太郎・伊藤快彦・桜井忠剛
   ➂記録 今日は来会者皆々大に後れました しかし都鳥氏第一着 しかも午後六時と云
        時間 を殆んど守 られました会主(牧野克次)も大に心配致し是で
     八日を数へて待って居た大枚五銭の会費がとれそふもなき故妻とも相談して
        仕入れの御馳走を何と処分しよふかと臨時会議の最中へちらほらとの御来客
        やれやれ安心し腹なぜおろし暫くの事目的の会費も算まり明日の厨房予算にも狂を
        生ぜずして済 ました茲にありがたく御来人方にお礼申し上げます 
        物に少々後ればせには候得共例之尼ケ崎先生(桜井忠剛の事)も昨今の身元にも
        不拘来会いたさ れ たること主人の大ニ喜バしく相感じ申したことに存候
    偖今夜の重なる事柄は 洋画研究所(聖護院洋画研究所)の設立を議案したる こと
        開所は来る6月1日よりにして所は聖護院町熊野神社東横町を撰定し
        講師幹事は総而二十日会の会員にて持切り 漸くにして設立実行之運に立至り
        候事返す返すも芽出度事と一同柏手萬歳を唱へたる位なり
     此外余興として珍趣談等も出ましたし博覧会(第5回内国勧業博覧会)の鑑査話 
        審査の報告やら 種種面白き話もありました
   終に彼の会費の五銭を先取りにして みかん ぼたもち 及すし 番茶杯も出し
        ましたなんと大奮発でしょふ
          呵呵      会主しるす
        再白
     当日の最も遺感なりしは例之論客之揃も揃うて欠席なりし事 是を誰とか
     なす曰大沢巴城曰大森痴雪曰北村鈴菜  以上三人
     当夜の散開も例によりて十二時を過ぎました      終
         
      洋画家二十日会の基礎的研究に付録の二十日会記事 11頁
        上記の絵は明治36年6月2日田村宗立宅での二十日会の様子

  3)明治37年1月20日 (洋画家二十日会の基礎的研究附録24~26頁)
    ①当番幹事 牧野克次宅
    ②来会者
 到着順
      伊藤快彦・荻原一羊・小笠原豊崖・黒田天外(本名譲.日出新聞記者)
               都鳥英喜・湯浅吉郎(半月.聖書学者)・大沢芳太郎 ・
               北垣静処(本名確。日本画家)
               高安月郊(本名三郎。別号秋風吟客。詩人、劇作家)・小山源次・大森鶴雄
               北村鈴菜・鶴巻鶴一
      小泉道太郎・中沢岩太・浅井忠・堀規矩太郎(洋画家)・田村宗立
        総勢合セテ拾九人
    ➂記録  当夜突然ビールと蜜柑の贈られ来るあり 其は 北垣隆雄君よりにて
       会主は先例なきの故を以て辞せんとせらるも会員の決議によって之を
       受納すること、したり
       開会第一に半月氏の平曲 宇治川先陣及び物の怪あり 宇治川は1月
                 20日の事にして当会に因みあるより特に撰ばれしものなりと 当夜
                 亦責道具は持出され無理往生の合作はじまる
                 半月氏の平曲に因み髑髏(どくろ)の画及び怪物の成る? 
                前回一羊氏方にて一月の馳走ありしかば当夜は態と師走の料理を撰み邸内に
                 そば店を出張せしめ狐花巻うどんそば 其の好む所に任さしむ
     
半月氏(当時京都高等工芸学校で英語を教え後京都府立図書館長となった詩人の湯浅吉郎)の平曲 
   洋画家二十日会の基礎的研究に付録の二十日会記事 25頁
     
 牧野克次邸にそば店出張 洋画家二十日会の基礎的研究に付録の二十日会記事 26頁
   
    
 狐花巻うどんそば 其の好むものが振る舞われた牧野克次邸
 洋画家二十日会の基礎的研究に付録の二十日会記事 26頁


 4)明治37年11月20日 (洋画家二十日会の基礎的研究附録36~39頁)
  ①当番幹事 牧野克次宅
 
  ②住所 又又転宅して河原町広小路下ル 病院南横
      東は久爾の宮様 北は府立医学校の御門前 門前には、古歌に読たらんと 
              思わるる小川の流れあり
  ➂御来会の面々 到着順に名前を挙ぐれば第一番に馳参じたる北村の鈴菜を始め
         湯浅の吉郎・得田のたがやす・伊藤の快彦・真鍋の要輔・
         浅井の忠どの・田村の宗立禅師に・少時遅れて鹿子木の孟郎に
         写真屋の徳太郎・これに宿六を合わせて無量拾人
  ④記録  出たり出たり怪論 憶説 いつもの如き書きたりや書きたりや
          怪椀禿筆終に画合戦となり木魚さん(浅井忠)の日本屁隊筒口揃えて
                   露の砲兵 陣地を吹飛ばし人も砲も銃も遥かの露兵に舞上れるさま
                   鳥羽僧正はだしでにげる的の怪画を作製せられしばしは
                   ヤンヤノ声止まざりけりしかるに怪画にかけては其の人ありと
                   誰知らぬものなき田村の僧正ダルマの如き眼を見張り いざ一と工夫
                   仕らんと腕こまぬきて しばし思案の体なりしに はとと思付きたる
                   ことの ありやなしや筆とりあげて紙にむかひ 弓矢八幡大菩薩と
                   唱えたりや否やは 知らざれども  必勢の勇を皷し さらさらと
                   書き上たる 国民兵(屁)大募集軍用風船製造の大作さすがの
                   木魚先生もあっと許りに言句も出でず愉快に勝を僧正に譲られし
                   こと古名将の悪びれざる様にさも似たり  何れ劣らぬ老手と老手
                   されど画柄が画柄故 人さまに見せも出来ず 所謂宝のもちぐさり
                   主人も当惑したれども何時か笑いの種ともならんと早速表装に
                   取掛らせ次の二十日会には二十日会之を携帯して終には
                   黄金の花の咲き乱るる迄誰か荒手を入替て再度の合戦望ましく奉存候
                   鹿子木さんの屁画も出たれどとても及びはてず  伊藤さん湯浅さん
                   杯の南宗画もかの屁合戦には 得堪へ(?)たる体なりけり
                   此他短冊をものされ たること(?)
                   しく中には数十枚の葉書を恐る恐る出されたる方もありしが葉書短冊杯の
                   百や二百はまたたく間鹿子木さんや
                   田村さんはまだ物足りないと云う様な御顔付 次番のお宿は浅井さん
                   と決まりて浅井さんはもうもう決して紙や筆などは皆かくして置く
                   との御口上 しまいには銘々御持参の上大怪椀を揮はるることに
                  立至らんかの形勢なり 当夜は中沢 鶴巻両先生の如き大刷毛
                  よろしく藁筆結構と云う 強の者の臨時の故障にて御来臨なかりしは
                  まだしも当番の仕合なりしか
                         呵呵
                      散会例により十二時前
                    
    明治37年10月20日二十日会参会者(洋画家二十日会の基礎研究34頁)
    上段右から牧野克次・得田耕・小笠原豊涯村鈴菜
              ・鹿子木孟郎・?・?
        下段右から宮永剛太郎・伊藤快彦・田村宗立  
        田村宗立宅 写生   

 5)明治38年6月20日 (洋画家二十日会の基礎的研究附録43~45頁)
      ①当番幹事  牧野克次宅  河原町広小路下る東入
      ②京都新聞・この時の二十日会当夜記事抄録切り抜き
       芸術界雑記 洋画家二十日会は予記の如く一昨夜の午後7時頃から牧野克次氏宅 に於いて開かれたが、何分如何な雨師でも之では破産するだろうと思う程の 大降りなので、気の弱い連中は顔をみせず、勇気を奮って来会したのは、 中沢岩太、浅井忠、鶴巻鶴一、都鳥英喜、荻原一羊、福井松雄、堀規矩太郎などの 諸氏で あった
 ◆何が扨連日の霖雨に空も鬱陶しければ気も陰気に滅入る けふこの頃、何 時ものような会合で は余り真面目(然うでもないが)臭くって面白くなければ、今回の会合は何か些と風変りに 面白おかしく鬱気を晴らしたいものだとの話もあったが、然ればとて此の 間中の祗園の正遷宮のように 馬 鹿な騒ぎもならずとあって湯浅半月氏は琵琶を、鶴巻鶴一 氏は尺八、福井松雄氏は西洋奇術
  都島英喜氏は川中島の詩吟、亭主役の牧野克次 氏は 素謡と云う余興の前ぶれがあったが扨当 夜になると出水後の堤防のように種種の故 障が出来て湯浅氏の琵琶は雨の為にお流れとなり都島氏の詩吟は風邪の気味で 音声を痛めたとあって巧く逃げ、牧野氏の素謡は聴き手の方から 断られたという始末。それで、先ず満足に遺ったのは西洋奇術と尺八、尺八は牧野夫人の琴との合奏で頗(すこぶ)るの 喝采であった。◆猶は中沢博士から、前々会牧野氏から送った琴箱の書状の返信があったが、それは頗 る小さいもので、虫眼鏡を持ちだして見ると云う騒ぎ、寸楮などの語は之から始ったのだろう の話もあった。◆この日浅井氏から当番牧野氏へ花瓶一対を贈られたが、右の花瓶は浅井 氏が仏蘭西から八十円ばかりで持ち帰ったものだとの噂であったが、側目で見ればドウやら何十何銭と云う代物のやうだとは皆の云う 処◆斯くして12時頃散会したそうだ。此間二ヶ月は画家の大部分旅行中に付自然の休会となる後日之為め依而如件 証人牧野克次
       
 洋画家二十日会の基礎的研究に付録の二十日会記事 50頁
 上記の絵は明治38年12月 田村宗立宅会場  月樵道人画


6)明治39年3月20日 (洋画家二十日会の基礎的研究附録53頁)
     ①当番幹事 伊藤快彦
   ②来会者    浅井忠・都鳥英喜
   ➂記事     当夜は降雨之処へ名にし負たる難所にて皆々閉口したるも の歟(か)と
                        想像します。
     天平しるす(牧野克次)
       筆者申し上げます
       私は旅行中でしたから参会し得なかったのです。

7)明治39年4月20日 (洋画家二十日会の基礎的研究53~56頁)
  ①当番幹事 牧野克次宅
  ②来会者着順 都鳥英喜・石井柏亭(本名 満吉 洋画家)・湯浅吉郎・北村       鈴菜那波光男・田村宗立・荻原一羊・当番を加えて総勢八人
      
 



    洋画家二十日会の基礎的研究に付録の二十日会記事 55~56頁
     牧野克次邸で行われた二十日会の様子

➂記録    高談放論例之如く奇話奇を加え怪論更に怪を加え停止する所を知らず    散会十二時を過ぎ月樵上人の辞せられしは巳に一時に近かりし
  次の当番は満場一致を以て白羽の箭を北垣静処君へ射込むことになりました 
    

       洋画家二十日会の基礎的研究に付録の二十日会記事 54頁
                牧野克次邸で行われた二十日会の様子

8)明治40年6月 二十日会例会の記録の冒頭
 例によりて快談沸くが如く在米牧野君へ及び大阪北村君へ大々的絵葉書を 発送し在仏鹿子木君へも同じく見舞いしたり…と記載されている

牧野克次の略歴書によると、牧野は明治39年8月より絵画研究の為2カ年間米国及び欧州へ留学を許されその間休職、退職し9年滞在し、ニューヨーク美術学校に招聘され水彩画の教授をしています。

9.島田康寛氏の「洋画家二十日会の基礎的研究」と「二十日会記事」から
   牧野克次の活動でわかったこと

 1)洋画家「二十日会記事」は、明治35年12月20日牧野邸で行われた第4回目の
     二十日の会合において初めて記録がとられ始め、前3回分を別紙に添付して補記
     されている。牧野克次は第1回目の設立時から参加し、創立メンバーだった。
 2)牧野克次は自分が出席してない日でも代筆し、二十日会を大事にしている。
 3)牧野克次邸で当番を務めた日は特に詳しくリアルに二十日会記事が残っている。
 4)明治35年9月20日第1回例会が行われ明治39年8月に渡米し9年在住
   牧野克次は大正10年に第3巻の二十日会記録用紙大福帳を東京から送っており
   二十日会や会員との関係を大切にしていたことがうかがえる。
   この「洋画家二十日会記事第1巻と第3巻」は千葉県立美術館の所蔵となっている。
     牧野克次の水彩画「松林」も千葉県立美術館所蔵となっておりなにか関係はないのだろ     うか?
5)牧野克次 明治39年8月4日に渡米しているが、その1カ月前の明治39年7月20日    
    二十日会定例会に出席した記録があった。
6)牧野克次は二十日会で、「牧の伝兵衛…天平をもじったもの」や「牧野天平」と名前を
    呼ばれていた。
7)妻楠枝が牧野克次の洋画家としての活動をしっかり支えている姿が記録されていた。
     ①牧野克次は当時満38歳位で家族は、 妻楠枝、満47歳位で姉さん女房 長女の直
     (年齢?)、と長男純一(7歳位)であり、大阪から京都に引っ越しして
       まもなく、京都では2年の間に2回の引っ越しをして妻の楠枝はてんてこ舞いで大
       変だったと思う。
     ②たくさんのお客様を迎えての接待「二十日会参会者の尺八と妻楠枝の琴の
    合奏が会を大いに盛り上げ喝采を受けた」ことが京都新聞に紹介されていた。
    楠枝は、豪商天王寺屋のお嬢様としてお琴の教養をしっかり発揮されていたのが分
    かりました。
   ➂「二十日会参会者が遅れての参加になったので、妻と仕入れの御馳走を何と
       処分しようかと臨時会議の最中へちらほらとの御来客 やれやれ安心し腹なでおろ
       し」と記録あり夫婦仲の良いほほえましい場面に笑ってしまった。



* 宮嶋サロン:宮嶋八藏(映画監督溝口健二氏の内弟子助監督・平成27年 没)     のサロン妻の春様は、画家牧野克次の孫になり、長男晃様は曾孫に なる。
   ホームページ「 宮嶋八藏日本映画四方山http://katsu85.sakura.ne.jp 」
  参考文献
   洋画家二十日会の基礎的研究・附録「二十日会記事第1巻」S55.3.31 島田康寛氏

  
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