画家、牧野克次の孫宅で発見!
                      
画家・牧野克次の遺品が語る紐育日本倶楽部建設                                                                                               (牧野克次総監督で紐育日本俱楽部を建築 )
                                                                                  2019(令和1)年8月15日
                                                                  宮嶋サロン*①・発見・撮影・著者  竹田美壽恵
                                                                宮嶋サロン・ホームページ担当       勝  成忠
はじめに
画家・牧野克次が残した紐育日本倶楽部関連の意匠設計図等を2018年7月に発見*②し撮影、
整理致しました。これを機会に紐育日本倶楽部について調べて見ました。
そしてどのような建物だったのか遺品からその当時の様子を見ていきたいと思います。
編者 塩原又策氏(三共株式会社創業者)の「高峰博士 伝記叢書」に「高峰博士が日米親善に関して尽くされた事業の一つに紐育日本倶楽部の創設を忘れてはならない」と書かれています。
日露戦争前においての日本の実力はアメリカ人に認識されておらず、在紐育の日本人で、著名な
アメリカ人と対等に交際出来る者は数人であった。その為高峰博士は、在紐育の有力者(横浜正金銀行・三井物産・森村組・大倉組など)と相談し一倶楽部を創設してアメリカ人と接触出来る社交の場を作る事を提案した。1905(明治38)年3月に創立発会し初代会長は高峰譲吉博士、副会長に内田総領事が推薦された。発会式には、日露戦争の戦費調達の為ニューヨーク訪問中の金子堅太郎と日銀副総裁のポジションにあった高橋是清が講演をしています。高峰譲吉博士は1915年までの10年間初代会長を務めました。紐育日本倶楽部が置かれた場所はマンハッタンの西85丁目44番地で、1カ月300ドルの借家でスタートしましたが、1912年(明治45年)に西93丁目161に牧野克次総監督で、広壮な建築を造り外飾を一新し移転しました。紐育日本倶楽部では、日露戦争の為の日本の外債引き受けに協力してくれた銀行家のヤコブ・シフや鉄道王ハリマン、モルガンなどを招待して日米交流が行われた。在留邦人相互の連絡、交流の場としても機能し娯楽室や日本レストランを有する日本人の集会場ともなっていました。新渡戸稲造や内村鑑三が頻繁に出入りし、野口英世も夜遅くまで将棋をさしに来ていました。
                                                     (高峰博士の面影 石川県立図書館蔵を参考)

  









































 

     紐育日本倶楽部工事中の写真 外観

 目 次
1. 高峰譲吉博士と画家牧野克次
2. 紐育日本倶楽部建設設計考案依頼に対しての画家・牧野克次の返書
3. 紐育日本倶楽部工事中の外観写真と建物内工事中写真
4.1階
    
①フロアの写真 ②1階の建築設計図 ➂高峰譲吉博士の告別式が行われた所
    ④柱の設計図 ⑤階段建築設計図
    ⑥ 擬宝珠 製図 ⑦1階フロアー用スクリーン設計図青写真 
5. 2階
   
 ①西側の客室日本間写真と床の間設計図
     ②東側の客室日本間写真と床の間の設計図
    
➂客室襖用引手原寸図     ④二階日本室用椅子の設計図 
    
⑤柱懸燈籠 現寸設計図    ⑥食堂の写真 
    
⑦ダイニングテーブル設計図  ⑧会席膳製図 
    
⑨ 器具図案ノ一部         ⑩食器のデザイン  ⑪紐育日本俱楽部用皿 
    
⑫色彩配置図ノ一 製図     ⑬2階建築設計図
6
. 3階   ①宿泊用寝室写真   ② 3階建築設計図
7.  4階建築設計図
8. 背面建築設計図 
9
紐育日本俱楽部記章図案・
10. 紐育日本俱楽部 半地下室・ 地下室建築設計図
11.その後の紐育日本俱楽部と現在アメリカにある日本クラブタワー 
12. わかったこと・おわりに

1.高峰譲吉博士と画家牧野克次
 1-1.高峰譲吉博士と画家・牧野克次
    
  高峰譲吉博士     画家・牧野克次
出典:『ウィキペディア』 牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵
 
1)高峰譲吉博士 化学者 三共初代社長
  
 嘉永7年(1854)11月3日~大正11年(1922)7月22日  67歳没
 [国]米国 [生]富山県高岡市 [学]工部大学校応用化学科※(明治12年卒)
  [資]帝国学士院会員(大正2年) [歴]加賀藩典医・高峰精一の長男。越中国高岡
 (現・富山県高岡市)で生まれ、翌年父のいた加賀国金沢(現・石川県金沢市)に移る。
 文久2年(1862年)より藩校・明倫館に学び、慶応元年(1865年)選ばれて長崎へ留学。
 英語などを修め、4年には京都で安達幸之助の兵学塾、大坂で緒方塾に入門。明治2年
 大阪医学校に移り、大阪舎密学校では分析化学を学んだ。5年大阪舎密学校廃校により
 上京、工部省工学寮に入る。12年第1期生として工部大学校を首席で卒業した。13年
 英国に留学、グラスゴ―大学やアンデルソニアン大学に学び、16年帰国。農商務省
  御用係として和紙、製藍、清酒醸造の研究に従事。19年には、特許局長官代理となり
 特許事業の確立に貢献した。同年渋沢栄一、益田孝、大倉喜八郎、初代浅野総一郎らと
  東京人造肥料会社を設立。20年米国に渡り、17年の出張時に婚約していた
  カロライン・ヒッチと結婚。23年改めて渡米、25年シカゴに高峰ファーマメント社を
  設立。27年強力消化剤「タカヂアスターゼ」の特許を取得、29年
「タカヂアスターゼ」は商品化され、
 世界的な  名声を博した。33年には副腎の有効成分アドレナリンの純粋結晶単離に成功※①した。
 これらの業績によ  り、大正元年帝国学士院賞を受賞。
 
 この間、明治38年ニューヨークに日本俱楽部(現・日本クラブ)、40年ジャパン・ソサエティー(現・日本協会)を
 
 設 立。大正2年帰国し、理化学研究所の前身となる
 
 国民科学研究所設立に尽力。また、三共商店設立に際して初代社長に就任。同年帝国学士院会員。[勲]勲四等 
  旭日小綬章(大正4年) 、勲三等瑞宝章(大正11年)[賞]帝国学士院賞(第2回)(大正1年)
  (明治大正人物事典Ⅱ360頁2011.7.25発行大阪市立淀川図書館蔵)
 *「工部大学校」は明治19年(1886年)に「帝国大学・工科大学」となり。現在の東京大学工学部の前身である。
 ・ワシントンのポトマック川にある桜並木は1912年に東京市が寄贈
したが、高峰譲吉は寄贈の計画、発案を
 当 初から参画し尾崎東京市長らと共に実現に大きな役割を果たした。    (ウィキペディアより)

2)牧野克次 元治元年(1864)4月21日~ 昭和17年(1942)10月22日 78歳没

   
・大阪の豪商天王寺屋の一族・日本画家・西洋画家・篆刻家・建築室内装飾家
    ・大阪府高等小学校教員・静岡県師範学校教員・大阪高等工業学校助教授
    ・京都高等工芸学校創立年9月開校に向け4月に助教授として着任・関西美術会設立に参加・京都で画塾を  
    
 開き、井上悌蔵、新井謹也、榊原一廣らが学んだ。
   
・田村宗立、桜井忠剛と共に洋画家の懇親会的会合「二十日会」を創立・関西美術院設立の発起人・関西美 術会、
   大阪第5回内国勧業博覧会其の他各種展覧会の審査員に従事 
    ・ニューヨーク美術学校教授・松楓殿別荘紐育高峰譲吉博士本邸、紐育日本倶楽部の工事設計や、室内装 飾の
     総監督・久邇宮家側近・皇太子裕仁親王後昭和天皇)妃に内定時、久邇宮邸内に設けられた学問所 で  
     昭和の母になられた良子女王様の皇太子妃教育に尽くされ、物心両面で久邇宮家を支えた方。 
   ・趣味 謡曲 ・雅號 天平 
 (自筆略歴書・絵画作品等はホームページ「画家・牧野克次の家族と人生」を参照下さい)
       
真如堂法輪院にある天王寺屋牧野家の墓に眠る 平成28年2月3日撮影 竹田美壽恵

2.紐育日本倶楽部建設委員会から建設設計考案依頼に対しての
                                                               画家・牧野克次の返書


2-① 日本倶楽部建設委員会御中宛て   明治45(1912)年1月1日
                 
サイズ縦84.5㎝×横68.5㎝  (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)           


2-②
紐育日本倶楽部建設委員会から建設設計考案依頼に対しての画家・牧野克次の返書拡大1 
日本倶楽部建設委員会御中   明治45年1月1日 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)



画家牧野克次の返書 下記のように書かれていました。
日本倶楽部建築に関し一宮(正金銀行紐育支店長)、高峰(譲吉博士)、両委員より小生の報酬御下問に対し左に卑見開陳仕候  日本倶楽部の建築に関する委員諸君の御尽力は多少其の内部を伝承せる小生に於いては実にご同情申上げるの外之なく
此の際にあたって未熟非才の小生を挙げて設計考案の任を命でられる事は、一身に取りて名誉なるのみならず将来日本建築を
紹介する上に於いては逸す可からざる好機会にして高峰博士邸における練習と経験とを更に遷して当倶楽部に応用する事を
得るは実に不肖の光栄にして委員諸君の御好意に対し他を顧みる假(か=いつわり)なく喜んでこの事業に従事せんと欲すること
之非才克次の微哀なり。
 左に克次の従事すべき工務の要項を挙げ以て報酬額の御詮考に預からんと欲するものなり。
第一  必要に応じて普通の製図原稿を提出すること。即ち平面図、立面図、裁断図
     透視図を作る。 この項の一部分はすでに今日に至るまで、バンベルト氏のもとに送りて
          同氏製図の原稿となれるもの之なり。

          (ジョン・ヴレデンバーグ・バンペルト:コーネル大学の教授にして仏国風の建築学者
          ・高峰譲吉博士の妻キャロラインの母方の従兄弟)
第二  各部の詳細図を提出すること
     内外各部の装飾、天井、四壁、定則の寸法に由る組込み、床の間、欄干、
     桝組、建具類等各部の組織を原寸図或いは解剖図に製したるもの。
第三  現場の監督をなすこと。
     動かす可からざる 建築形式上の定則を外国人の職工には往々間違いの
           生じ易きことは委員諸君の巳に明知せらるる所にして日本内地なれば少
           も顧慮するに足らざる子細の部分にも眼を離すこと能(あた)はざること
     勿論にして不肖ながら責任を負荷せる以上は自ら工場に出うること能は
           る時は信用すべき監督者を自弁出張せしめざる可(べ)からず しかしこ
           監督は工事の前後に通貫するものにして、且つ請負人に対する敵手に立つ者なり。
  画家・牧野克次の返書拡大 3         画家・牧野克次の返書拡大 2


 要するに克次の従事すべき工務は単に装飾と云える範囲に止まらず愚劣ながら内外に渉りて考案を提出ことは勿論現場の
監督をも併せて負掲するものなれば未熟非才の小生に取りては全く他件に関する余力を見出すこと能わず。
小生の主義方針は偶然にも従来の使用者たる高峰委員のあるあり高峰邸の購入品にして小生の関係したるものに対しては
請負側の牛窪委員のあるありて、小生の平素を占定せらるるの光栄を得んこと切望に堪えず。

 茲(ここ)に於いて小生工務の全部に対して壱千五百弗を要請す。
然(さ)して之を三期に分け1912年の3月末日に五百弗、同年6月末日に五百弗同年九月末日に五百弗の
金券を授受せられし希う (当時NY日本俱楽部は建物は借りていて1ヶ月300弗の家賃を支払っていました)
以上は此の工事に対して裏心差し控えたる要請と信ずるが故に委員諸君の御下問に対し敢て不遜を顧みず所思披瀝仕り候
(つかまつりそうろう=いたしました)不文(文章・文字に書き表していないこと)意を尽くさず平素愛顧を蒙(こうむ=自分にとって
ためになる何かを与えられる)れる委員諸君に対し覚えず(おもわず)礼を失するのことあらんも知る可からず希(こいねが)うは之を諒(りょう=まこと)せよ頓首再拝(とんしゅさいはい=中国の礼式で、頭を地面にすりつけるように拝礼すること・手紙文の末尾に
書き添えて、相手に対する敬意を表す語)
                                                                3129ブロードウエイ  牧野克次   電話5805 モーニングサイド
日本倶楽部建設委員御中    明治45(1912)年1月1日

追伸 今回の委員諸君に対する答申の問題外なるも昨年夏以来現在85丁目の
   倶楽部建設改善設計並びに各階実測図調製等の其の他多少犬馬の労を取りうる
   ことあるも是等一切を挙げて倶楽部に進呈するものとす。小生の畏敬せる委員諸君の尊慮に留めらるれは
      小 生の満足と光栄之に過ぐるものなし 又拝
                                                                         (此の答申書の謄本は各委員諸君のお手元に送りたり)

3.紐育日本倶楽部工事中の写真 外観   
写真サイズ:縦20.2㎝×横17.5㎝
3-①牧野克次遺品 宮嶋晃氏所蔵
 

3-② 紐育日本倶楽部工事中の写真を拡大 
向かって左側 牧野克次・右側 ジョン・ヴレデンバーグ・バンペルト氏か?

3-➂ 紐育日本俱楽部用FRONT ELEVATION・SIDE ELEVATION 
         
外観図の中の1枚・サイン:K. MAKINO 階段中央に桜のデザインがされている
                                        製図用紙サイズ:縦57.3㎝×横58㎝  (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)


3-④-1 紐育日本倶楽部工事中の写真・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)・縦20.2㎝×横25.4 ㎝

3-④-2   紐育日本倶楽部工事中の写真(上記の写真を拡大)
     
 向かって右側に座っている 牧野克次 



3-⑤ 紐育日本俱楽部 建築設計図 立面図・ENTRANCE HALLの1枚
    
記録事項:  FOR THE NIPPON CLUB ・ 44 WEST 85 TH STREET
                                               
 K. MAKINO ・ 3129 BROADWAY
                                                                             
 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)



4-① 紐育日本倶楽部1階フロアの写真  
KINKWAKUJI (BUILT IN 1395 A.D.) と明示された額が設置されている  
日本は古い歴史のある国だとアメリカ人がこれを見れば理解出来る      
                                                      
(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵) サイズ:縦20㎝×横25㎝

・衝立を除けるとメインホールになり、その奥がメインダイニングルームになっている
・メインホールの右側にオフイスルーム・階段・その奥にスモールダイニング 
・写真では見えないが左側に手前からレセプションルーム・コートルーム・読書室がある



4-② 紐育日本倶楽部1階の設計図    
牧野克次が平面図、立面図、裁断図、透視図を作りバンぺルト氏の
もとに送り出来上がったもの。 
サイン:JOHN V. VAN PELT ARCHITECT  1912(明治45)年1月25日・
用紙サイズ:縦101.3㎝×横58.8㎝ ( 牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)


 設計図の上から主な部屋の配置
A) 食器・食料貯蔵庫・配膳室 ・B) 大食堂室
C) (左側) 読書室 ・(右側)スモールダイニングルーム
D) コートルーム・ メインホール  ・男性用、女性用洗面所
E) (左側) レセプションルーム ・(右側)事務所  

4-➂ 高峰譲吉博士の告別式が行われた紐育日本倶楽部
 1921(大正10)年11月から翌年2月迄ワシントン会議が行われ高峰博士は病を推して会議の目的遂行を援助すべく勤め、最後まで日米国交が堅固なものになるよう尽くされた。
心身共に極度の疲労で12月に倒れ 1922(大正11)年7月22日高峰譲吉博士は紐育のレノックス・ヒル病院で亡くなり、
病臥地たるバサイックの新聞は第一面に逝去を報じ、博士の別荘所在地のメリーウッドでは全村挙げて弔旗が掲げられた。
7月24日紐育日本俱楽部で告別室が挙行された。
告別式は、日本俱楽部の大食堂の正面中央に掲げたる高峰博士の肖像画の前に霊柩が安置された。
大小の花輪は200有余に及び、贈花は久邇宮殿下、総理大臣兼海軍大臣加藤友三郎男爵、外務大臣内田康哉伯爵、
幣原駐米大使、三井男爵、堀越善重郎(実業家)、鈴木馬左也(第3代住友総理事)、湯川寛吉(5代住友総理事)、
団琢磨(三井財閥)、紐育日本人会、日本俱楽部其の他各商店、団体の贈花にて広き大食堂は花を以って埋まり、
折柄粛々と雨が降りしきる中、会場に内外人300名が集り告別式が行われた。熊崎総領事と地主延之助(森村組取締役)より
弔辞が述べられ、高見豊彦医学博士(日系人会の創立者)故人の美徳を称賛し紐育タイムス紙の故人に対する社説を朗読された。故人と生前より親しかった前帝大法科教授アレキサンダー・チゾン氏(日本俱楽部創立草案を校閲)も故人の徳を称えられた。
25日日本俱楽部から聖パトリック寺院へ移送されて葬儀が行われ堂内に邦人米国人600名の会葬者と堂前に群衆が押し寄せ
霊柩が墓地に向かう時には一時一般車馬の通行止めという状態であった。後ウッドローン墓地に埋葬された。
[編者 塩原又策 (三共株式会社創業者) 高峰博士伝記叢書 参考]
 
4-④ 紐育日本倶楽部の設計図  柱のサイズ 牧野克次サインあり
   
製図サイズ:縦50.2㎝×横68.5㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵) 
  

 A. 階下大広間の丸柱・B. 両客室の柱・C. 階下の大広間・D. 客室の大 西の間
  E. 客室の小 東の間・NIPPON CLUB SCALE FULL SIZE NO K. M 1
 
4-⑤ 紐育日本俱楽部の 階段建築設計図 NO7 サイン: K.M  
                             
・製図用紙サイズ:縦41.5㎝×横68.4㎝・ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)


4-⑥ 紐育日本俱楽部用 擬宝珠  製図番号 NO 37 牧野克次 
                                    
用紙サイズ:縦56㎝×横32㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
 注意事項が記載されていた。
・底の外径六インチ四分三より大ならざること・内径6インチより小ならざることに
  注意すること
・真鍮鋳物に古物模造七宝花瓶又は七宝火鉢等の輸出品参考のこと



4-⑦ 紐育日本俱楽部スクリーン設計図青写真 (1階フロアに使用されている)
       
サイン: 牧野克次 ・用紙サイズ:縦38.5㎝×横60.5㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)



5. 紐育日本俱楽部の2階
5-①-1  紐育日本俱楽部2階西側の客室日本間 衝立 (鳳凰の彫刻入り)
                                    写真サイズ:縦20㎝×横25.㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

5-①-2 紐育日本俱楽部2階西側の客室日本間  床の間設計図
           ・製図NO21・製図サイズ:縦48.7㎝×横68.1㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

5-②-1 紐育日本俱楽部2階東側の客室日本間の写真

                               写真サイズ:縦19.9㎝×横25.㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)


5-②-2 紐育日本俱楽部2階東側の客室日本間 製図
            記録事項: NO19×D ・ FEB ○ 1912
   スタンプあり: KATSUJI MAKINO 3129 BROADWAY NEW YORK
                        
 サイズ :縦37㎝×横24.6㎝   (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)


5-②-3 紐育日本俱楽部 客室建具
 寸法・ 用紙サイズ:縦25.5㎝×横20㎝
             
記録事項: NO4   客室、襖上、ランマ 寸法 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)


 
5-➂  日本俱楽部客室襖用引手原寸図  サイン:牧野克次
                            
 
                            製図サイズ :縦35㎝×横42㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)


 、 画家・牧野克次の遺品が語る紐育日本倶楽部
5-④
   紐育日本俱楽部 二階日本室用椅子の設計図 1枚  牧野克次 案
        製図番号 三拾号・製図用紙 縦41.8㎝×横66.8㎝ (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

同じ設計図に発注数が記入されていた

甲号 長椅子2脚 内 桜花彫ヌキの分 壱脚・ 菊花彫ヌキの分 壱脚
乙号 普通椅子拾脚 内 桜花彫ヌキの分 六脚・菊花彫ヌキの分 四脚
丙号 ヒジ掛 椅子  四脚・内 桜花の分 弐脚・菊花の分 弐脚
 
5-⑤ 紐育日本俱楽部用建築設計図・柱懸燈籠 現寸 牧野克次 案
  
  明治45年6月1日 製図番号 NC 33号 指示内容:
 ・柱の中心には○?そ真径四インチの電燈座金あるを以て燈篭背後の装置は製図
    第118号(44年3月)背後略図参照のこと
 ・木材は赤杉又は神代杉或は製作上の都合にて檜を用うる時は赤杉若くは神代杉色に
    着色すること 但し親骨と子骨とは必ず同色たるべきこと
 
・燈篭の上下とも吹貫きになし障子其の他のものを入る可からず 親骨 小骨に丸み
    を附け或は系面を取り猿頬に成す等のことは製作上の都合にて適宜酌量のこと 
   内部には金物又はネジ釘を用ひ乾燥の結果 破壊の憂なき様に充分の注意を要す 
                               (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵) 用紙サイズ:縦89.5㎝×横48.5㎝


5-⑥ 紐育日本俱楽部食堂の写真
        
 写真サイズ:縦20.2㎝×横25.㎝  (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

牧野克次の設計デザインされたテーブル、椅子、内装、テーブルの上には会席膳に食器がセットされ、
ズラリと並べられている。



5-⑦  紐育日本俱楽部ダイニングテーブル設計図 ・D NO. NC32
    NIPPON CLUB 2HD FLOOR DINING TABLE・KATSUJI MAKINO
                 
製図用紙サイズ :縦22㎝×横35.4㎝  (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)


5-⑧ 紐育日本俱楽部設計図・ 会席膳・製図番号148号・牧野克次 
                                                               
 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

記録事項:紐育日本俱楽部用会席膳 上等黒漆塗 木地の乾燥製作に充分の注意を要する
 模様は観世水に櫻花の散らし 本金高蒔絵に仕上ること  色漆は一切用の可からず

5-⑨ 紐育日本俱楽部用器具図案ノ一部 ・食器のデザイン・NC 35号・牧野克次
       記録事項:口取皿 色絵伊万里模様 向附丼 錦手
                            
・用紙サイズ:縦40.8㎝×横48.2㎝  (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
   

5-⑩ 紐育日本俱楽部用設計図 食器関係
     ・図案用紙サイズ 縦27.7㎝×横21.5㎝  (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
   吸物椀・天プラ汁入れ・飯茶碗・酢のもの浅丼舟形・茶碗蓋茶碗?・サシミ皿
     ・うまにの丼・焼物皿・椀盛?サイズとデザイン指示、注文数か?100と記録あり
 
5-⑪  紐育日本俱楽部用皿 色彩配置図の一・製図NC34号附図・牧野克次
                 
 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)・製図用紙サイズ:縦34.5㎝×横25.8㎝

5-⑫  紐育日本俱楽部 2階建築設計図 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)
     サイン: JOHN V. VAN PELT  ARCHITECT
    
FEB 3 1912 ( 明治45年2月3日)
  
・設計図の上から主な部屋の配置
A) (左)西の宴会場・(右) 東の宴会場  左右の部屋を解放して使用出来る
B) 西 PANTRY (左) 倉庫・ホール・階段 (真中)・西  PANTRY (右)
C) 西側応接室・ 東側応接室

6-①.3階 紐育日本俱楽部宿泊用寝室写真
  
 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)・写真サイズ:縦19.8㎝×横24.6.㎝

6-② 紐育日本俱楽部3階建築設計図
        
 記録事項:
      ・設計図の上の中央に記載されている
       NIPPON CLUB ・ 161-165 WEST93 th ST  NEW YORK CITY
        THIRD FLOOR PLAN
      ・設計図の下の左端に記載されている
      JOHN V. VAN PELT   ARCHITECT 
     ・設計図の下の右端に記載されている
        FEB 9 1910 ( 明治43年2月9日)
  
・設計図の上から主な部屋の配置
A) CH6・CH5 西側(左側)居室2 ・ SUKIYAKI ROOM 1室
B) BATH、トイレ、洗面所が1室になっているのが2室(西側)CH1・CH2
   ・中央と東側に  BATH、トイレ、洗面所  ・階段 2か所
C) ・CH3・CH4 東側に居室 2室

7.紐育日本俱楽部4階建築設計図    
                     JOHN V. VAN PELT  ARCHITECT・
                                FEB 15 1910 ( 明治43年2月15日)     

 設計図 主な部屋の配置
A) 浴室、トイレ、洗面所が2ヶ所・階段 B)相部屋 G F の2室 
C)  個室 A, B, C, D, Eの5室

8. 紐育日本俱楽部 背面建築設計図
       REAR EIEVATION・JOHN V. VAN PELT ARCHITECT

                                        
FEB 20 1912 ( 明治45年2月20日)  

9-①.紐育日本俱楽部記章図案  34図案が描かれている
              ・用紙:縦19.8㎝×横21.5㎝ ・(牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)

9-② 紐育日本俱楽部建築装飾デザイン図
          
・この図案で、玄関前に装飾されている設計図があった
   
 (牧野克次遺品・宮嶋晃所蔵)・画用紙サイズ :縦50㎝×横33.5㎝   


10-1.紐育日本俱楽部建築設計図  半地下室
記録事項:①設計図の上の中央に記載されている
          NIPPON CLUB・ 161-165 WEST93 th ST  NEW YORK CITY
             ②設計図の下の中央に記載されている
               BASEMENTPLAN (地下室平面図)
          
 ➂設計図の下の左端
         サインJOHN V. VAN PELT ARCHITECT・
           
 ④設計図の下の右端に記載されている
                 FEB 7 1912 (明治45年2月7日)
・DCAWING  NO116- 2

主な部屋

   ・ 食料備蓄室・勤務者用・後方サービス室・ 台所・食堂
     ・ バー ・下ホール
     ・ ビリヤード室

10-2  紐育日本俱楽部建築設計図  地下室
用紙サイズ :縦99㎝×横57.5㎝
    ①青写真下の 中央に記載
      CELLAR PLAN
      JOHN V VAN PELT ARCHIYECT
       ②青写真中央上に記載
      NIPPON CLUB・ 161-165 WEST93th ―ST・ NEW YORK CITY
       ➂青写真右下に記載
      FEB 19 D 1912 (M45年2月19日)

主な部屋
店舗(漆器、漆細工店・総合日用雑貨店・SHOYOストア等)
談話室・キッチン・モーター室・ボイラー室

11.その後の紐育日本俱楽部
   1942 (S17) 年 日本俱楽部の資産は、日米開戦によって米国政府に没収された。
   戦後の1957(32)年に再興された。
   (歴史を深く吸い込み未来を想う・寺島実郎・2002.2.15発行・大阪市立中央図書館蔵参考)
  
 現在のニューヨークにある日本クラブは
①会員制の社交クラブ  企業法人からのメンバーと個人メンバーで構成されている
1963(S38)年に現在の57丁目ミッドタウンウエストにクラブ会館が移転
  住所 145W.57th stNEWYORK.NY10019
1991(H3)年に新館が竣工落成し「日本クラブタワー」というビルになっている。
④現在の日本クラブ会長 中島正樹氏 
   president&CEO Sumitomo Corporation of Americas 
④日本料理が味わえるレストラン、各種パーティー、セミナー、などの多目的利用ができる大小の部屋の
    設備あり
⑤屋外、屋内イベントや趣味教養のカルチャー講座、講演会、コンサートが行われている
   (The Nippon Clubホームページより)

12.わかったこと・おわりに
1.紐育日本倶楽部建設委員会から建設設計考案依頼に対しての画家・牧野克次の
  返書から紐育日本倶楽部の建築は牧野克次が総監督として建設された。
2.牧野克次が紐育日本倶楽部の建築に関連する平面図、立面図、裁断図、透視図を
  作成しジョン・ヴレデンバーグ・バンペルト(コーネル大学の教授にして仏国風の建築学者・
    高峰譲吉博士の妻キャロラインの母方の従兄弟)氏に送り同氏製図の原稿とされた。
3.牧野克次のデザインで、紐育日本倶楽部内の家具、食器、紐育日本俱楽部記章図、紐育日本俱楽部
     建築装飾デザイン図が作られた。 
4.牧野克次が遺した設計図の中で住所が最初はマンハッタンの西85丁目44番地
  (1905年より紐育日本倶楽部が置かれた場所)になっていたが、ジョン・ヴレデンバーグ・
    バンペルト 氏の 設計図になると西93丁目161(1912年に紐育日本倶楽部が新しく出来あがった
    場所)になってい た。 最初は、1905年より紐育日本倶楽部が
  置かれた場所に建設予定が西93丁目161へ建設されている。

「画家・牧野克次の遺品が語る紐育日本倶楽部」をまとめるにあたりまして、ご協力
下さいました大阪市立淀川図書館様、大阪市立中央図書館様、大阪府立図書館様、
大阪市生野図書館様、石川県立図書館様、富山県立図書館様に感謝致します。
ありがとうございました。
又牧野克次の孫になられる宮嶋春様、曾孫の宮嶋晃様と妻泰子様に感謝致します。


*①宮嶋サロン:宮嶋八藏(映画監督溝口健二氏の内弟子助監督・2015年・平成27年没)のサロン
       妻の春様は、画家牧野克次の孫になり、長男晃様は曾孫になる。
   ホームページ「 宮嶋八藏日本映画四方山話 
http://katsu85.sakura.ne.jp
*② 今回の遺品は画家牧野克次の孫の夫で、映画監督の故・溝口健二のもとで助監督を
       務めた宮嶋八藏氏(2015年に88歳で死去)宅にあった。
       自宅に保管されていた映画台本、時代考証の為に集めた資料や口述筆記した
      「宮嶋八藏の日本映画四方山話」18作品など含め数百点を竹田が整理し、2016年5月11日
       早稲田大学坪内博 士記念演劇博物館(東京都新宿区)に八藏氏の長男晃様が寄贈 された。
      その整理中に竹田が画家、牧野克次の遺品を多数発見、整理し2018年7月に
      京都工芸繊維大学の美術工芸資料館に長男晃様が寄贈されました。
      引き続き宮嶋八藏氏の遺品整理中に今回の牧野克次の遺品を発見した。



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