宮嶋八蔵の幼少期                               
                                      平成27年12月
      
              
                                                         宮嶋サロン口述筆記担当者  竹田美壽恵
             ごあいさつ                                                          

      はじめに

 私は、宮嶋八蔵様が加齢性黄班変性症の視力障害者になられた為平成17年より

口述筆記を担当させて頂いた竹田美壽恵と申します。宮嶋八藏様は昨年11月より難治性肺炎で療養されていました所、桜が満開に咲いた平成27年4月1日に永眠されました。4月3日の誕生日で89才でした。故人の遺言で無宗教の家族葬を長男の晃様が執り行われました。

海軍を志願された時、漢文の先生より賜った「人生感意気、功名誰復論」を信条に生きて

     来られました。「愛とは…思いやりの往復」「社会とは…規則を守る事」など自分の言葉で

解りやすく教えて下さいました。

 宮嶋八藏様所蔵の映画関係の遺品や「溝口健二監督の真の人柄」を映画作品から紹介したいとインタネットに掲載しております「宮嶋八藏の日本映画四方山話」http://katsu85.sakura.ne.jp  等は早稲田大学演劇博物館に寄贈される事になりました。

 今後このブログには、宮嶋八藏様の幼少期の事をお聞きしていたのに加えて残されたアルバムで追悼振り返り人生を辿りたいと思います。又、ファイル「その時の記録」で残されていた投稿記事は中学時代、海軍時代、大映時代の宮嶋様の生きざまが生き生きと感じられましたので読んで頂けたらと準備しています。

このブログは最初宮嶋八藏様の同級生(京都府立京都第2中学校時代)だった

高橋恒雄様が平成23年末まで担当して下さいました。

    
     宮嶋八藏の幼少期の聞き書きと写真で偲ぶ振り返り人生
 

                   

 口述筆記 竹田 美壽恵
 HP 担当    勝  成 忠

   


出生

生まれた生年月日  大正15年4月3日 寅年

生まれた所     京都市上京区出水通堀川東入4丁目189番地

健康な赤ちゃん 
八人兄弟の末っ子だった(男5人女3人で上から男女女男男男女男)

母親の話では「八人の子供を産んだけれど一番最後の末っ子(八藏)が 産湯をつかわす時に産湯使いのたらいの端を握って揺さぶった子でこんなん初めてや」と云っていた。
父親の実家は滋賀県の仰木村で酒屋(醸造業)と呼ばれていた。作り酒屋は他に一軒もなく長押には武家の家庭の様に“やり”や“なぎなた”が掛けてあったのを憶えている。父親の両親はおそらく他府県から金を持って幕末にこの村に流れて来たと思われる。母親の実家は滋賀県の西郷州(にしごうしゅう) の伊香(いか)立村(たちむら)大字向在地887番地にて麹屋を営む河合家の四女であった。酒と麹の関係で知り合ったのか?父親は小学校(3-4年生)を卒業していたが母親は学歴なしだった。それでも京都へ女中奉公に行った所が芸術家や学者の家庭だったので自学で文字を覚えた。漢字もお得意様の氏名を読むのに苦労していない。

                                                                             

宮嶋八藏の父 留治郎

「宮嶋家では祖父の留治郎が一番商才とマネ―ジメント能力があったようだ」と                           

  宮嶋留治郎の長男藤一の長男宮嶋滋夫様談



  
宮嶋八藏の母 か祢 23歳の春
八藏が幼少期、外でいじめられて泣いて帰ったら、「男の子はいじめられて泣いて帰って来るものじゃない」ときびしく教育されている。 女の子は女学校を卒業後、家事の見習いや礼儀作法を身につけさせる為、 女中奉公に出した。近くにあったキリスト教会でまだ珍しかったマヨネーズの作り方を学んできて八蔵達に料理を作っている、 親しくしていた呉服店が倒産した時には、在庫品を沢山買い取って 宮嶋家で働く丁稚さんなどの従業員に背広を仕立てたりした。 又宮嶋家がお世話になった開業医が病に倒れられた時には、家へお見舞いに 伺うと先生が「私は沢山の患者さんを治療して来たが、自分が病気になった 時こうして見舞いに来てくれたのは、おか祢さんだけや。」と涙を浮かべて 喜んで下さった。と八藏に話している。  父、留治郎から「お母さん(か祢)は学校に行ってないが、学校に行っていたら大物になっていた人や」と八蔵は聞いている。                           


      
 晩年の母 か祢              1960年2月

母か祢は昭和16年に夫を亡くし、徴兵で5人の息子全員を送り出した上、金属の拠出を要請されればダイヤモンドまで拠出している。長男、次男、4男と3人が戦死した時は60代になっていたのにも係わらず戦後は、サッカリンを使ったおはぎを作って市場へ売りに行ったり、親戚よりお金を借りて自宅を下宿屋に改装して精力的に働きました。戦死した長男一家のその日その日の生活費を支え、残された2人の孫たちを大学まで出し結婚式まで見届けました

      宮嶋八藏の幼少時 すみゑ姉と


あなたのお名前

宮嶋八藏 小学2~3年の頃に姓名判断で名前が1つ増えて侍の名前の
ように 宮嶋八藏、
正興(まさおき) となる。

名前について ①八番目に生まれたから

       ②八つは末広がりで八つの蔵が建つように

誰が名前をつけたか  両親 父  留治郎

              母  か祢(かね)

 

あなたが生まれた時の事を母からどのように聞いていましたか?

  「八人も多いので、生むべしかおろすべきかと悩んだ」と聞いた。

 

 

当時の家庭環境や父母の生活状況

1中産階級京都市の多額納税者名簿の中に炭屋が2軒ありその中の1軒である。

   

  大正10年5月5日 宮嶋家の家族写真 (八藏、すみゑ姉はまだ生まれていない)

 後ろ 父の留治郎   真ん中 母のか祢

 1.屋号が ト 薪炭(しんたん)卸小売業 他 塩、醤油、酒の小売も兼ねる。
 1.得意先の大所としては京都大学、京都府庁、小学校など学校関係へは石炭をストーブ用として納めた。家の裏には炭、たどん、割り木、柴などの収納庫があって小売り用のものを玄関からトロッコで母屋を抜けて直接収納していた。

 

1.母屋は地下つきの和風3階建てで敷坪は100坪あまりで昭和3年位の新築。その前は

武家屋敷で玄関の扉ごと(大きな木枠ごと)大きな扉を鎖で持ち上げて開けていた。

 

1.二条駅はその頃“二条の浜”と呼ばれて物資の集積倉庫が並んでいて、それを仲仕が

馬の荷馬車で公の機関へは直接に送り、母屋の倉庫にも仲仕が運搬していた。

宮嶋の倉庫は3つあった。

 

1.父が薪炭の買い付けに九州から北陸地方迄行っていた。その時必ず持っていく物としては、金の懐中時計と金の小判型の大きな天保銭?を金鎖で繋いだ物を持って行った。

  父の口癖は「これさえあれば、日本全国どこで財布を盗まれても贅沢をして
帰宅できる」だった。

 その時計は次男の籐四郎が京都工兵師団でビルマに渡った時持参していたが、
戦地で戦死した時、徒兵が持ち帰ろうとしたが敗戦後武器解除でイギリス兵に
取り上げられたと言う。その時計は今もイギリスで時を刻んでいるだろう。

 

1.酒の入ったひと樽が玄関入った所の井戸の上に置いてあって仲仕が飲むのは
自由で
あったので仲仕の評判が良かった。

 

1.父は、舶来とその当時言われたプリミヤ(イギリス製)の自転車に乗り舶来の生地で作った“ハッピ”を羽織っていた。その自転車に乗せられて二条駅へ連れて行かれた事を覚えている。

  仲仕が集まって“おいちょ博打”をしていた。親父も仲間に入るのですが、負けた事はなかった。勝った金にいくらかお金を足して酒代にと配って置いて来るのでした。

 

1.母は子供達が帰ってきたら、家に女中さんがいても任せず、必ずたらいに水を入れて汚れた手や足を洗って子供の面倒をよくみてくれた。父は家の金庫の開け方も知らずお金は全て母に任せていた。

 

 

何人兄弟の何番目ですか?

その為にあなたの人生が大きく左右されたことはありますか?

 

1.末っ子やから甘やかされて何をしてもしかられた事はなかった。
 表に家を取り壊した

 空き地があってその築山の上に枝の枯れた大きな柿の木が立っていました。

 それに登っていたずらをしている時、枝が折れて築山を転がり落ちました。
その時右肩がへの字に曲がってしまいました。

 病院は京大に行ったか、府立医大に行ったかは記憶がないが丁度その時子供
の知能テストが医者の間で問題になっていました。
肩の治療の合間に知能テストをさせられ、
医者いわく「この子は、いつも話す事、する動作が違うでしょう?

 知能テストは最高です。今迄にこんな子供に会ったことはない!」
と言われ母親はその言葉を聞いて愕然としたのです。それ以来、親も兄弟も
店の使用人も私を見る目が変わった。大学病院では、骨の治療はそこそこに
知能テストばかり

 引き続きされるので京都東山古門前(ふるもんぜん)にある接骨院で治療しました



        自宅中庭にて 八藏・すみゑ姉

 

 八藏 小学1年生入学写真   最後の列の右から3番目

 

1.籐四郎兄さん(12歳上・次男)が便所に落書きしたのは八藏だと決めつけ、

白状するまでは家に入れないと中庭の敷石の上に正座させられた。

小学校へ入って字を習った最初には違いないが丁度その頃八藏より3つか4つ年上の

“ごろうどん”と云う丁稚小僧さんが書いたのであると大人になってから推察出来た。


小さい頃の冤罪は復員して20歳を過ぎても心に持って謝って欲しかったが、

籐四郎兄さんは南方戦線で戦死した。

京都16師団の歴史が戦後発売されていたのを買い忘れて悔しく思った。

籐四郎兄さんは第三高等学校理乙で第二外語はドイツ語でありましたので、
親戚から「医者になれ、医者になれ」と言われていたのです。

お父さんより「会社員は一生の収入は決まっている。商売人にはかなわない」と言われ

兄は「患者の青い顔を診て奉仕している余裕はない」
と云って採鉱冶金(京都大学)に行きました。

籐四郎兄さんは学業延期で徴集が伸びていたので、家事手伝い(薪炭業)をしていた六郎兄さん
6歳上・四男)と一緒の応召となりました。

送別会は遊郭五番長の片隅にある大市(だいいち) というすっぽん料理店へ家族全員で行いました。私の本家の近くの借家に貸している家の子供を集めてハシリ映画を見せてくれる

おじさんがあって平屋の看板にすっぽんソップと書いてありましたので五番長遊郭にあった大市の事は忘れられません。

二人の兄の入隊送別記念  昭和16年1月9日夜自宅の座敷にて撮影


前列左から母か祢58歳・父留治郎61歳・次男、籐四郎27歳・四男、六郎21歳・

長男、藤一(33歳)・三男吾一がなぜか写っていない

後列左から長男の妻二三枝30歳と甥の滋夫3歳・八藏15歳・長女若林岩子30歳・

三女高櫻すみゑ19

1.小学校2年生の時綴り方を書きなさいと言われた。

「 それから      それから      それから   」で書いたらボツに

なった。兄から作文が下手なのは、①語彙が少ない。②言い回しが一種類 小学校の本の

中から面白い所、上手な所に赤い線を引き何故面白いかと考える事。それをくり返す事と教えてくれた。

グリム童話集、講談社の絵本を見た。立川文庫の霧隠才蔵、孫悟空、清水次郎長など

丁稚さんが読んでいた本を読んだ。

1.映画“鉄砲物語”の作品の時、家にあったオランダの美術全集で風俗考証をするのに役立った。

故郷はどんな所でしたか? 昔と現在

夏蒸し暑く、冬底冷えする京都御所の近くに住んでいた。

 

お茶のお師匠さん田中さん宅         

昔、京屋が並んでいた。真向いには祗園町の舞妓がお茶のお稽古に通っては田中さんというお師匠さん(年配の女性)が住んで居られた。そこは未亡人で長男と二女の20歳過ぎのお子さんが居られた。上のお子さんは京都府立第一中学校を経て三高京大の学生さんになっておられました。私の家の長男も次男もその方より4~5歳年下なので小学校の頃からその御子息より影響を受けていたようです。

長男は文科ですが、次男の籐四郎兄さんは田中秀一さんが電気科でしたので、三高は理科の乙でドイツ語を第2外国語に取りました。高等学校で理乙を専修すれば医者になる大学の医学部にも入れる事が出来るのです。医者になれと勧める親戚もいましたが、「青い顔を終始見なければならないのは自分には向かん」と採鉱冶金を選びました。大学を出る時には、助教授に残れという話もあったのですが、「うちの家庭は商売人で学問をする家庭ではない」と断りました。

その事がゆくゆく戦死に繋がってくるのですが後で述べます。

私が小学校行く前に田中さんの所へ行くとその秀一兄さんは仰向けに寝転んで、両手を

両足膝の間にそれぞれ挟んで両足をそれぞれに振り回すとプップップップと音がするのです。これ“おなら”と云って喜ばしてくれました。

妹さんは、オルガンを弾いて聞かしてくれました。そのオルガンの音の印象が小学校

へ入って4年生から2年間バイオリンを習う契機になったのでしょう。

田中さんの家の右隣は犬病院があって喧しい犬の鳴き声が聞こえていました。

 ひきいっかん 
 飛来一閑さん宅

私の家の東隣は一貫張り(一閑張り)で有名な飛来(ひき)(いっ)(かん)さんのお宅です。

飛来一閑さんのお家は江戸時代初期中国、明国より渡来され漆工芸の技法、一貫張り

(一閑張り)を日本で創始され千家十職の一つで一閑張り細工師当主が代代襲名されて

いる。

 

日本画家の甲斐(かいの)(しょう)楠音(ただおと)さん宅

町内では、飛来一閑さんのお家と森さんという魚の卸売と私の家の3軒しか
電話が
なかった。飛来一閑さんの真向いのお家に(昭和6年)日本画家の甲斐(かいの)(しょう)楠音(ただおと)さんが越して来られました。この方は楠木(くすのき)正成(まさしげ)の子孫で家紋は菊に水で菊水紋です。

 

甲斐庄楠音の作品  大正9年 島原の女(京の女)

1997年日本経済新聞社発行  甲斐庄楠音展表紙より

甲斐庄楠音  1997年日本経済新聞社発行  甲斐庄楠音展より

 

後々、私が復員して人文学園へ通園していた頃この甲斐荘先生の口利きで溝口健二

映画監督の内弟子となるのです。甲斐荘先生は溝口作品の風俗、衣裳考証等をなさって

いたので溝口先生からの電話の取次も私がしていたのです。溝口邸の書生になる前から

溝口先生の声は聞いていたのです。

 

大津事件

大津事件で明治24年ロシアの皇太子22歳(後のニコライ2世)が日本に来遊、大津市に行啓の時、彼を乗せていた人力車が襲われた。襲ったのは津田三蔵という邏卒(巡査のこと)であった。その時、彼を取り押さえて皇太子ニコライを助けたのは車夫の向畑治三郎と北賀市市太郎です。二人はロシア皇太子ニコライと日本政府から沢山の報奨金を受けとることになりました。

ロシア皇太子ニコライ・ギリシャ王子ジョージ像(滋賀県所蔵)

 

北賀市市太郎は、それを機に故郷に帰り勉強して郡会議員になりました。

向畑治三郎は京都の四丁目に住み、飲み、打つ、買うの道楽者になり

私の町内に引き籠った。その息子が三次といって、私の兄(長男藤一)と小学校で

同級であり、ちょくちょく私の家にも遊びに来ていたらしい。

ある時巡査が三次を連れて来て「この男がお前さんの家から盗んだ総額は100円

近くになる」と云う。総額金額100円は当時の金としては相当なものです。

大津事件があった明治24年当時巡査の初任給で月給8円。大正7年で小学校教員の

初任給が12円~20円だった。それ程儲かっていたようです。

敗戦後数年迄は信用貸しと云って売り掛け金は月末に集金する事になっていた。

現金売りの金は無造作に銭箱(2斗缶分位の鍵付き木造の箱)に放り込んでいました。

日常の家庭の金も無造作にタンスや水屋の引き出しに放り込んでありそれから盗んで

行ったのでしょう。

 

貴方にとって“ふるさと”が心の支えとなったような事はありますか?

不愉快な事が一つあります。近くに和気清麻呂を祀る神社があってその神社は

軍隊へ入隊する者が集合して祈願の後、送り出されました。私の4人の兄たちも、

私の予科練入隊の際もこの神社から出発しました。

戦後は始終、町内会を通じて寄付金を集めに来るのですが、私の戦死した兄3人を含め 

て、この神社から送られた戦死者は100人を超えています。

それに戦後一回の慰霊祭を行った事はありません。昔、境内は子供達がセミ取りなどの遊び場になっていました。

今は、文化教室、結婚式場、子供の立ち入り禁止で、ぐるりは駐車場になっています。

私の家へ寄付金集めに来た時、「宮司を呼んでいらっしゃい」と云ったが来なかった。

それ以来寄付金集めは私の家だけ飛ばしていくのです。

軍隊に行くと考える事は、“ふるさと”の事、子供の時に遊んだ事、学校の事、

両親の事、兄弟の事しかありません。

 

その土地特有の言葉(方言)やあいさつがありましたか?

映画撮影所言葉

夜でも昼でも会えば…  おはようございます。

・さようならと云う言葉はなくお疲れ様です。

・かにここ …      ぎりぎり一杯(許容量範囲一杯)

・まあそうやねえ かにここか … まあそうやねえ

例 ライトに当ててしぼっている時や小道具などいろいろに使う

・いもすけ建て … 柱など埋め込みをせず、釘だけでセットしすぐにばらされる

          ような建物

(以上までの質問項目は新風書房の自分史マニュアルを参考にさせて頂きました。 

宮嶋家の人々

   父 宮嶋留治郎 昭和161229日 没(61歳)

   母 宮嶋か祢 昭和51年7月2日 没(93)

宮嶋八藏の兄弟

長男 宮嶋藤一  昭和19102日ビルマにて戦病死(36歳)

         始ったばかりの自動車免許(当時はエンジン等の機械の組み

立て作業もあったようで大変難しく合格発表は府庁で公開された)を取得した為、藤一は予備役で長男という条件にもかかわらず第二次世界大戦開始(昭和14年)と同時に京都師団の

工兵隊徴集される。昭和16年より中国、東南アジア、ビルマと各地を転戦した。(藤一様の 長男滋夫様の話)

妻 二三枝様 子供 滋夫様 博司様が残こされた。八蔵は残された子供達と兄弟のように過ごした。

     

              左から藤一の長男滋夫 妻 二三枝                           前列左側 宮嶋藤一 昭和16年9月33歳    
              八藏(小学5~6年生)と姉すみゑ                   


右上 藤一の長男滋夫君・右下 次男の博司君

左下三女 高櫻すみゑ 真ん中長女 若林いわこ 左上 若林のりこちゃん

 

長女 若林(宮嶋)岩子 京都の若林製陶所(現コトブキ陶春)へ嫁ぐ

 
 若林岩子姉 20歳 昭和5年11月1日撮影

 

八蔵は終戦で京都へ戻って人文学園に入学する前、姉の岩子が嫁入りしていた

製陶所で陶器を作っていた。




京都市東山区今熊野南日吉町16番地 
若林重造方にて陶器を作っていた頃の八藏       
次女 大槻(宮嶋)菊枝  昭和9年 結核にて22歳で没
人里離れた所に家を準備して結核の療養生活を送っておられたが、
体調の良い日に入浴して丁寧に身体を洗って長湯をした為かその後急変された。(八藏談)


次男 宮嶋籐四郎、直行(なおゆき) 

昭和20627日ビルマにて戦病死(31歳)

妻の礼子様がおられたが籐四郎戦死の為離婚となった。

子供はいなかった。



宮嶋籐四郎、礼子結婚記念写真
 宮嶋籐四郎の京都帝国大学工学部採鉱治金学科を
                  修め学士試験合格証明書

昭和15年12月6日


   次男 宮嶋籐四郎  
       
  昭和19年1月13日付け籐四郎(29歳)から母への手紙 1


昭和19年1月13日付け籐四郎から母への手紙 2 

 
昭和19年1月13日付け籐四郎から母への手紙 3


 昭和19年1月13日付け籐四郎から母への手紙 4

 籐四郎はさらにもう1通妻と母共同宛に財産分与の遺書を書き残していた。

三男 宮嶋吾一、清助(せいすけ)  終戦後復員      昭和60年10月16日 没 

四男 宮嶋六郎

  昭和20620日 落下傘部隊で活躍 フイリピンにて戦死(25) 

   

   四男 六郎から八藏へのハガキ

      
                      三女 高櫻(宮嶋)すみゑ  歯科開業医と結婚 

 

   八蔵はすみゑ姉と年の差があまりなく気心が通じて仲が良かった。

   八蔵は高櫻義兄の歯科治療を受け「歯は根っこが少しでもあれば絶対抜くな

   根っこがあれば歯をよみがえらす事が出来る」と言われた言葉を守って

   実践していた。その後違う歯医者さんに行った時、過去の歯の治療が素晴らしい為いつも感心され「どこで治療を受けたのか」と必ず聞かれている。

八蔵は、亡くなる1カ月前にブリッジを支えていた歯1本が抜けたがそれ

以外の歯は残っていて、せんべいでも肉でも食べられて義兄に感謝していた。

五男 宮嶋八藏 平成2741日 没 (88歳)

       |-  宮嶋晃(長男)   クリエイティブ、プロジューサーで活躍する

      宮嶋春(妻)   |

                                       宮嶋泰子(長男の妻) 朝日テレビアナウンサー    

                   順天堂大学特任教授 

 

  

中学時代の八藏

ブログ内には、宮嶋八藏の日本映画四方山話の中の「北斗の星」にガスタレ仲間との

友情が書かれています。

ガスタレ仲間や特攻時代の戦友との写真や書簡がありました。


京都府立京都第二中学校44回生の記録 

尾形周平(力)様(後5代目尾形周平陶芸家)の手記写真より

前列右端 高橋恒雄様 亡くなるまでこのブログの担当者  右から3番目宮嶋八藏

後列右端 宅間英夫様 右から3番目 大森忠行様   

後列左端 山田貴一様 終戦後、消防署勤務をしていた。英語が堪能で進駐軍と消防署の

間で通訳していた。

八蔵は小学時代、中学時代、海軍時代、大映時代の友人とは生涯支えたり支えられたりして友情を大切にした。


昭和
52年日本橋三越にて尾形周平作陶展をされる。
尾形周平様作品


京都府立京都第二中学校44回生の小島昭三様(詩人・木島始様)の詩 表紙

京都府立京都第二中学校44回生の小島昭三様(詩人・木島始様)の詩 1~2ページ

後 法政大学教授

少年時代より水泳が得意だった八藏(右)大森忠行様(左) 

青年期 水泳が得意で  柔道は黒帯4段・海軍時代はラクビーのタックル王と言われた。

  

 

昭和18年 美保海軍航空隊           真ん中が八藏 18歳

甲飛予科練習生(13期前期)の宮嶋八藏  予科練陸戦訓練 鳥取美保空大山にて

 

       宮嶋八蔵が乗っていた同形の「白菊」

 

 

  特攻服姿の宮嶋八藏 徳島海軍航空隊に入隊(飛行術練習生)後・宮崎県角川基地に入隊

 

     宮嶋八藏の航空記録 1


   宮嶋八藏の航空記録 2          宮嶋八藏の航空記録 3

 

宮崎県にあった第35嵐部隊(突撃隊)に海軍一等飛行兵として所属していた宮嶋八藏

昭和20年復員

   

友情 ガスタレ仲間からのはがきがありました。一部を紹介します。

  



 はがき1-2 大森忠行様より    はがき1-1 大森忠行様より

 昭和19年10月30日 

八藏 19歳の頃  

 昭和20年10月2日 宅間英夫様より  大森忠行様より 昭和19年7月10日



山田貴一様より昭和20年6月12日     尾形 力(周平)様より    


人文学園に入学し、京都美術専門学校へは聴講生、

夜は溝口健二監督邸での書生生活

 ホームページ内に宮嶋八蔵が学んだ「人文学園」を紹介していますのでお読み頂けたら幸いです。

 ここでは人文学園に関する資料が出てきました。

 

   昭和22年5月18日 前列より2番目の筋 左から2番目が宮嶋八藏 22歳

   わが青春 - 京都人文学園の記録より

 
人文学園本科学生の宮嶋八藏




1954年度の入学案内が残されていた。講師人が超一流の有名な方ばかりでびっくりです。



宮嶋八藏と牧野春との結婚  1950年(昭和25年)6月11日

 人文学園で2人は知り合い愛を育み結婚に発展。 

人文学園卒業(昭和25年)後に中学時代の親友たちによって会費制結婚式が執り行われた。
両家の親族、人文学園の新村猛学園長(フランス文学者・父、新村出と広辞苑刊行)、

北山茂夫先生(日本史)佐々木時男先生(政治学)鈴木亨先生(哲学)等々の先生方や

友人、中学時代の友人などが参加して2人を祝った。

「受付を山田君、会計と式・旅行のスケジュールを宅間君、祝婚歌を大森君が読んでくれました。酒のない喫茶とケーキでの結婚式でした。」(八藏談)


北山茂夫先生から入学を記念し





結婚当日にも北山茂夫先生の著書を頂いた。

下の写真で八藏が手にしているのが北山茂夫先生から頂いた本と大森忠行様からの祝婚歌






 人文学園 鈴木亨先生と 哲学(大阪経済大学講師




詩人 大森忠行様の詩集 56歳で急逝される

   昭和29年頃グラフィック、デザイナー・後、武蔵野美大で教鞭をとる  




八藏と春子へ大森忠行様(中学時代の同級生・詩人)より祝婚歌が送られた   前半



大森忠行様よりの祝婚歌                         後半

 


長男「晃君」 誕生 1952年     長男「晃君

室町の自宅にて写真撮影


  

   長男「晃君」京都室町の自宅にて      小学校時代 の「晃君」の作品

 
「本といえば家の美術全集が手垢で汚れていた。僕が知らん内に小学生の息子(晃さん)が読んでいたのを知って嬉しかった。」八藏談

 

 


長男の宮嶋晃様(クリエイテブ、プロジュ-サー)・泰子様(朝日テレビアナウンサー)ご結婚式

 

 

 妻の春様の事はエピソードが多い為別に紹介致します。 聞き書き者(竹田美壽恵)          

大映時代 

 宮嶋八蔵は大映退社まで大体98本の作品の助監督につきました。

 詳しくはブログ内の「団子串刺し式 私の履歴書」や各作品紹介をお読みください。

ここではざっと写真で振り返ってみたいと思います。

 

大映時代の宮嶋八藏 

     

「近松物語」の溝口組スタッフルーム前にて

 

昭和23年4月、宮嶋八蔵は溝口健二監督邸書生として師事しながら京都人文学園本科に通い京都美術専門学校の日本風俗史聴講生となる。

昭和26年10月大映京都撮影所監督室助監督として入社。

 



 溝口健二監督(別冊太陽 生誕100年記念 映画監督 溝口健二より)

  

 


 溝口健二監督の近くにて拡声器で監督の指示を伝えている宮嶋フォース助監督

  昭和30年 「新・平家物語清盛編」大ロングモッブシーン

  画面中心に黒いシャツを着て子供の仕出しを送っているのは土井サード助監督



 大映京都監督部 記念写真  2列目左から4人目が宮嶋八藏 30代後半

 

宮嶋八蔵は大映退社まで大体98本の作品の助監督につきました。

 詳しくはブログ内の「団子串刺し式 私の履歴書」や各作品紹介をお読みください。

ここでは宮嶋が大映助監督でついた作品の完成スタッフ写真の一部を紹介致します。

 祗園囃子 溝口健二監督作品 (昭和28年)キャスト木暮実千代・若尾文子 

溝口監督京都作品全てについた宮嶋八藏助監督(前列左端) 

 いなり祭り(1953年昭和28年)

普段演技をしない監督部と美術部スタッフが合同で演じている

演壇中央でヒットラーを演じている宮嶋八藏助監督

いなり祭り(1953年昭和28年)後列左から3人目ヒットラーを演じた宮嶋八藏

稲荷祭りは映画関係者達が竹藪の中に鎮座していた「三吉稲荷大明神」と「中里八坂大菩薩」の二つのご神体を一つに祀った三吉稲荷(さんきちいなり)の事で、昭和初期に、太秦日活撮影所の造営によって元々あった竹藪が無くなり住処を追われた狐や狸を弔う為に建立された。

 


山椒大夫  溝口健二監督作品 キャスト田中絹代・香川京子・花柳喜章 

前列より4列目の右から2人目が宮嶋助監督
1954年度(昭和29年9月)第15回イタリー・ヴェニス映画芸術国際博覧会


サンマルコ銀獅子賞


噂の女 溝口健二監督作品(昭和29年)キャスト久我美子・大谷友右衛門・田中絹代 
前列右側座っている2列目右から3人目(黒のハンチング帽) が宮嶋八藏助監督

 

近松物語  溝口健二監督作品(昭和29年) 芸術祭参加作品      

キャスト・長谷川一夫・香川京子・南田洋子・一番後列の左端 宮嶋八藏助監督

新・平家物語 ・溝口健二監督作品(昭和30年)キャスト市川雷蔵・久我美子・林成年

溝口監督(左は木暮実千代)の真上2人目宮嶋助監督


漫才提灯(昭和31年)・  天野信監督 キャスト・ミヤコ蝶々・南都雄二  

最後列の右から3人目宮嶋八藏助監督 


千代田城炎上(昭和34年)・安田公義監督 キャスト・勝新太郎・新珠三千代

 最後列 左から5人目 宮嶋八藏助監督

残菊物語(昭和31年) 島耕二監督・キャスト・長谷川一夫・淡島千景

左後列より3列目左から2人目 白のハンチング帽の 宮嶋八藏助監督


 朱雀門(昭和32年)森一生監督 

キャスト・市川雷蔵・若尾文子・山本富士子

 1957年度(昭和32年)第4回アジア映画祭(開催地東京)

ゴールゼン・ハーヴェスト・アオード(劇映画最高作品賞)

前列より2列目右から2人目 宮嶋助監督

 鉄砲伝来記スタッフ写真(昭和43年)森一生監督

 キャスト・リック・ジェースン・若尾文子・藤村志保・藤巻潤

 最後列右から3番目が宮嶋八藏助監督


華岡青洲の妻(昭和42年)増村保造監督

キャスト・市川雷蔵・若尾文子・高峰秀子 

高峰秀子さんの斜め後ろ黒のサングラスの方の右後ろに宮嶋助監督


1968年(昭和43年8月

    大映京都撮影所企画部へ転課

1968年(昭和43年9月

中村錦之助プロ、京都府講演、伊藤大輔監督の映画「祗園祭」参加の為

大映退社

1969年(昭和44年1月)より(詳しくは当ブログ内の職歴抄を参照下さい)

    フリー演出家として電通のコマーシャル、宣伝映画、教育テレビ番組映画、宣伝教育用スライド、等の脚本演出を行う。

催し物企画制作、記録映画演出、脚本、テレビ劇映画演出脚本、宣伝映画演出、

    テレビ番組、記録映画、記録文化映画等を手掛ける。

    脚本専門学校講師  

カルビー製菓の「やめられない とまらない かっぱえびせん」のコマーシャル

    宮嶋は、昭和44年頃コマーシャルを作る為に、会社を訪問した時のエピソードを語っている。

    カルビーの会社へ訪問して案内された所は、用務員さんが仕事するような質素な事務所でそこが社長室だった事に驚いた。近くに近代的な立派な宿舎が建っており聞くと、女性従業員さん用で、入居料を全く無料にすると問題になるので

格安料金になっていた。職員をなにより大切にする会社の精神に感動した。

宮嶋は、かっぱえびせんを作っている現場に行き、出来たてのえびせんを食べたら美味しくてやめられない止まらない、コマーシャルがすぐ出来た。以前のコマーシャルから変更しテレビで歌が流れると、倉庫にあったえびせんがアッと言う間に在庫が無くなると言う嬉しい現象だったとか。宮嶋は、亡くなる2週間前

までかっぱえびせんのファンで、買って来て欲しいと希望し、「日本で一番長く続いているコマーシャルや」と嬉しそうに話されていた。

     カルビーのブログより

 

 

大映京都撮影所跡地に記念碑と芸術会館の設立の

    請願運動を女優部、撮影部の方方と共に




昭和61年(1986年)5月24日 毎日新聞夕刊

 


昭和61年(1986年)6月17日(火)東京新聞夕刊の記事 ナンバー1


昭和61年(1986年)6月17日(火)東京新聞夕刊の記事ナンバー2

運動の中心の1人として頑張っておられた山崎輝子さまからのお手紙


大映京都撮影所跡地を芸術会館へと請願書を作って欲しいとOBより依頼あり

宮嶋八藏が上記請願書(案)を作成しました。


請願書が作られた 1  請願書の請願人は女優の小柳圭子さん



大映記念碑の建立要望 1  後の文書割愛




文化芸術会館(仮称)の設置要望 2     後の文書割愛


昭和61年5月10日請願したもの 1


昭和61年5月10日請願したもの 2


昭和61年5月10日請願したもの  後に続く陳情人割愛 3


その後日本映画テレビ技術協会京都支部が京都市議会議長、京都市長に対して陳情

東京では国に、京都では府と市に請願運動が行われました。

その後大映の跡地には、

一部にマンションが建設され残りは京都市立太秦中学になっています。

1988年(昭和63年)8月マンション前に大映の記念碑が建立されました。

京都市立太秦中学校前の大映京都撮影所跡地近くに金獅子像とオスカー像をモチーフとした「羅生門」国際受賞記念の碑が建立されました。

  (宮嶋八藏と親しくしていた大映照明部 青山良様談)



大映京都撮影所東洋一を誇ったA2セット前にて 大映撮影部OB会 

 前列真ん中の着物姿 山崎輝子さん・その右横宮嶋八藏  昭和61年

 「荒廃の大映の跡地に立ってOB皆様の胸に去来するものはなんだったでしょう。

でも、最後ははじまりの日と思います。くじけずがんばる心で参りましょうね。」と

  長い激励文をつけて山崎輝子様は大映撮影部OB会に参加した方々にこの写真を

送られている。



市民の請願運動広がる「文化芸術会館と公園を作る会」発足 

昭和61年5月26日(月)毎日京都版 朝刊 20面

大映最後の書籍を京都文化芸術室に引き渡すのに立ち会いました。


 昭和43年に大映退職後も大映の財産を次の世代に引き継ぐ為OBの方と共に

 力を尽くしました。(クリちゃんと言うのは山崎輝子様の事)





藤村志保さんらと     2001(平成13年)OB会にて

昭和37年市川昆監督 映画「破戒」で藤村志保さんは女優デビューされる

宮嶋八藏は演技研究所で講師も務め、藤村志保さんは非常に演技研究熱心で

誠実な方だと話していた。

「破戒」で助監督につきその後も映画作品で一緒に仕事をしました。


淡島千景さんと  2001(平成13年)OB会にて

(加齢性黄班変性症で視力障害があった為)「淡島さんは料理をとりわけ

優しくお世話をして下さった。」と宮嶋八藏談


京都南座で喜劇100年で藤山直美さんの納涼名作を鑑賞し

出演された淡島千景さんの楽屋訪問をした時の写真。

(山崎輝子様ご夫妻に誘って頂いて)2004(平成16年)8

淡島千景さんとは大映で「残菊物語」「静と義経」「鳴門秘帖」などの作品で一緒だった。


大阪毎日文化センターにて「ビデオ作品の作り方」の講師を務める。

 

1992年(平成4年4月)より大阪毎日文化センターにて「ビデオ作品の作り方」

の講師を務める。

  資料収集方法、撮影方法、選曲、効果音の使い方、シナリオ制作、創作上必要な

  リストの制作など映像の創作に必要な規則と法則等々 生徒の制作物についても

  講習時間外の直接創作援助を行う。宮嶋サロンが誕生。

大阪毎日文化センターにはビデオデッキとテレビしかなかった為、文化センターの

教室終了後は宮嶋サロンのメンバーだった澤井陽子様(さわい製薬創始者の次女)が自宅邸内にビデオ編集機など必要な器材をセットして下さって、生徒は平成22年迄自宅を格安料金で自由に使用させて頂いた。

平成23年澤井陽子様が病気で亡くなり、宮嶋八藏、勝成忠、竹田美壽恵3人で

澤井陽子様へ感謝の気持ちを込めて「澤井陽子さんの思い出」をビデオ制作し、

お別れ会で上映した。会場は音楽会の雰囲気から一気に天真爛漫でリアルな澤井陽子さんが身近に感じられ、スピーチは生前の色々なエピソードが飛び出し宮嶋八藏の

テーブルへは本当に親しくされていた友人が涙ながらに寄って来られました。

さわい製薬前会長澤井治郎様より「映画を観ているようで感激しました!」

澤井武清様よりは「陽子さんが残りました!」と感謝の言葉を頂きました。

  

上映したDVD          DVDの裏面(お見舞いのお花を描かれたもの)

企画・構成 宮嶋八藏

撮影    竹田美壽恵

編集・音楽 勝成忠


2005年(平成17年)よりホームページ作り

   新藤兼人監督の「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」が公開され世間に

   溝口健二監督はいじわるで、奇人、変人、ごてる人というイメージが伝わり、

定着している中「溝口健二監督がヒューマンな人間愛に立って作られた事を

内弟子助監督としてついた京都映画全作品の制作過程を明らかにして残したい。

溝口監督術における助監督の仕事が他の作品にどのような影響を残してきたか、

宮嶋がついた作品を例にあげて説明していきたい」とホームページ作りに取り組む。

   宮嶋八藏はこの5年程前から加齢性黄班変性症にて視力障害あり、宮嶋サロンの

メンバーだった竹田美壽恵が口述筆記を担当。

ブログは旧制府立京都第ニ中学校時代よりの同級生だった高橋恒雄様が平成23年に亡くなるまで担当して下さった。

平成24年より宮嶋サロンのメンバーだった勝成忠様がブログを引き継いで担当

して下さって現在に至る。


2009年(H.21)1月19日 勝成忠 撮影

「新・平家物語」のブログ作りを宮嶋八藏、竹田美壽恵で行っているところ。



2006(H.18)1120日付け 毎日新聞夕刊




2007年(H.19)6月10日 毎日新聞


宮嶋八藏の陶器等の作品一部紹介



宮嶋八藏作品



人生で大切にして来た言葉

五省 一つ 至誠(しせい)に悖(もと)るなかりしか

      ( 真心に反することはなかったか )

   一つ 言行に恥づる なかりしか

      (言行と行いに恥ずかしいところはなかったか)

   一つ 気力に缺(か)くる なかりしか 

      (気力が欠けていなかったか)

   一つ 努力に憾(うら)み なかりしか

      (努力不足ではなかったか)

   一つ 無精に亘(わた)る なかりしか

      (無精になっていなかったか)

 

宮嶋八藏の信条を陶器に





宮嶋八藏作品



清水焼  宮嶋八藏作品


飾る食器ではなく日常で愛用されていたコップ




「縦の線を描くのがむつかしかった」と八藏談   宮嶋八藏作品



宮嶋八藏作品



宮嶋八藏作品




宮嶋八藏作品



宮嶋八藏作品   玄関にあるウエルカム燈籠(上)



「山椒大夫」の仕事をよく頑張ったと大映より頂いた映画スチールパネル


毎日デイリー新聞に紹介された宮嶋八藏

MAINICHI DAILY NEWS Friday June 16, 1995 (平成7年)


1995年(平成7年)6月16日 毎日ディリ-ニューズ 英字新聞11面に掲載

アメリカ人記者にインタビューを受けたもの。

記事内容の映画作品や監督の名前が間違っていた。記者は「訂正稿でなく第1稿を印刷

してしまったので…」とのこと。

 

「京都人文学園成立をめぐる戦中・戦後の文化運動」の著者山嵜雅子さんの取材を受けて著書の中でHとして宮嶋八藏紹介される。

2002年1月15日初版第1刷風間書房より発行された

山嵜雅子先生 博士(教育学) 立教大学講師・東海大学講師(20099月)



2009年(平成21年)9月 山嵜雅子先生と

13年ぶりに自宅訪問して下さった

(山嵜雅子先生のカメラで竹田が撮影)

群像 絵 安土優

滋賀県立大学・人間文化学部・研究報告・2010年(H.22)2月号の「人間文化」に

滋賀県立大学・人間文化学部・地域文化学科教授 京樂真帆子先生の論文が掲載される

 


「本稿は、助監督、宮嶋八藏氏所蔵の資料をもとにして1950年代に日本映画で見られたリアリズムを追求する映画監督・溝口健二の映像製作の背景とそれに協力を惜しまなかった歴史研究者との交流を描いていきたい。」と書かれている。

おわりには「本稿は、溝口映画の助監督を務め、主に風俗考証を担当した宮嶋八藏氏の所蔵資料やインタビューに基づいて、時代考証の具体像を見てきた。近年、リアリティーの追究を軽視あるいは無視した時代劇が流行している。時には歴史的事実をねじ曲げたり、意図的に時代考証を行わないドラマさえ存在する。その背景には歴史学軽視の風潮があり、また、人間を描くのに、時代考証が足かせになるとの誤解がある。

しかし溝口と林屋が実現してみせたように、映像文化の豊かさと、史実に基づいて描こうとする姿勢とは矛盾するものではない。映像文化に対して、より新しく、より正確な時代データを提供するのは、研究者の役目である。逆に、そのように期待される存在でありたい。さらに、映像文化のすごみから分析の視覚や方法など研究のエンパワーメントを得たい。

未来において、映像文化と歴史学研究が再び『邂逅』することがあるだろうか。」と

京樂真帆子先生は結んでおられる。

 宮嶋八蔵は自分がしてきた仕事や資料によって溝口健二監督の真の人柄が理解され日本の映画界に少しでも貢献出来たらこの上ない喜びとしていた。

以下京樂真帆子先生の論文の一部を紹介します。



京樂真帆子教授論文の一部  2ページより



京樂真帆子教授論文の一部 3ページ

 尚 宮嶋八蔵のブログは平成27年7月よりhttp://katsu85.sakura.ne.jpにアップ中

 


京樂真帆子教授論文の一部 16ページ

 2013年6月22日 京樂真帆子先生より研究会で「歴史学と映画―『大仏開眼』と『山椒大夫』」と題して発表されるとのご案内を頂き竹田も一緒に出席させて頂きました。そして、宮嶋八蔵も発言の機会も頂きました。


 

溝口健二映画監督の内弟子助監督、宮嶋八藏氏の口述筆記を担当して

                 平成27年12月     竹田美壽恵

 私は、平成4年頃国立療養所刀根山病院の病棟師長として結核病棟に勤務していました。

その中で、呼吸器の病気に罹り、タバコが悪いと思いながらも止められない患者さんが多くおられました。当時は病院内でも喫煙者に対して指導しても止められないのは仕方ないという風潮がありました。一方個室では、慢性閉塞性肺疾患で長期間24時間酸素をしながら苦しんで亡くなっていく患者さんが多くおられましたので、私はタバコが身体に及ぼす影響を分かりやすく伝えなくてはという強い思いがありました。

  禁煙指導の講習会に参加したりして、スタッフと結核の病気を意識したオリジナルシナリオを作り「それでも吸いますか?」と「結核に立ち向かうあなたへ」という紙芝居風のビデオを制作しました。多くの患者さんが観て下さり、禁煙に挑戦されました。

今でも印象に残っているのですが、絶対禁煙は出来ないといっていたスッタッフのご主人に家でビデオを見せたいと持ち帰って上映したら効果てきめん「禁煙できました」と報告がありました。ビデオは映像が薄暗く見えにくいものでしたが真剣に観て下さったのです。その後もスタッフと禁煙教室をシステム化して根気よく続けました。

  病棟では、その他療養生活上改善しなければならないいくつかの問題がありました。

患者さんの中に、糖尿病に結核を合併された方が結構おられ、結核は栄養を摂らなければいけないし、糖尿病はカロリー制限しなければいけないという事で混乱され、看護師が患者さんに病院食以外は間食しないようにとお話しても反発され、結核菌を排菌している人がマスクをしないで無断外出されるとか飲酒をして患者さん同士がけんかする事もあり,他人に迷惑をかける方もおられました。                                                                              

注意すると逆恨みされ私自身、身に危険を感じて白衣の下に新聞紙を身体に巻いて勤務したこともありました。患者さんが治療に専念し安心して療養して頂くためにビデオを作ろうと思い、私は、毎日文化センターの「ビデオの作り方」というビデオ教室へ通いました。講師は溝口健二監督の内弟子助監督 宮嶋八藏先生でした。先生は、2時間の講義が終了しても必ず生徒達と一緒に昼食を共にし、その後も喫茶室に移動して生徒が何を学びたいのか長時間耳を傾けて下さいました。そんな雰囲気の中、宮嶋サロンが出来ました。

私は教室の授業と先生のお家に行かして頂きシナリオの作り方の実際を直接指導して頂いたお陰で「幸せと不幸の別れ道・選ぶのはあなた(副タイトル糖尿病に結核を合併したあなたへ)」のシナリオを作る事が出来ました。ビデオ撮影しても編集が出来なかったのですが機械を持っておられた勝成忠様(宮嶋サロンメンバー)が協力して下さってビデオが完成しました。患者さん方より療養生活の仕方が理解できたと非常に好評で、看護師との信頼関係も深まりました。
その後も肺結核か肺癌か診断確定するための検査は不安が強いことから実際の検査を紹介して納得して受けて頂けるよう「気管支鏡検査を受ける方へ」を制作。看護の日の小倉院長記念講演をまとめて「肺がんあれこれ」整形外科病棟では、人工関節術後の合併症予防するため鍋島医長の協力を得て、スタッフと「人工股関節置換術後の体位の注意」を制作。「脊髄造影検査」「頭蓋牽引」等等整形外科の検査や治療を正しく理解して患者さんに安心安全を提供できるようスタッフ、看護学生教育用に使用しました。奈良の国立療養所松籟荘病院の重心病棟ではスッタッフが研究発表した「重心病棟の現状と行動改善事例」等等…年に1本位ずつ作る事が出来ました。(制作は勿論時間外、制作費は自費で行いました。)宮嶋先生にはどれだけお世話になったか知れません。今も、感謝、感謝です。

宮嶋先生が加齢性黄班変性症になられ、これから人生の締めくくりをされる時期になられるのを感じ、私に出来るかなと不安に思いながらも口述筆記のボランティアをさして頂きました。宮嶋先生は目が不自由でおられましたが、口述筆記した内容を読み返すと、

すかさず間違いを指摘されました。インターネットで公開後自分のブログに紹介して下さった方、「感動しました。」「もっと書いて下さい。」等等メールを頂き、それが発信している先生や私達には大きな励みであり喜びでした。ここに厚くお礼申しあげます。

私は、溝口監督がどのような方でどんな映画を作られたのかも知りませんでした。身の周りの人に聞いても知っている人はあまりなく1956年(昭和31年)58歳で亡くなっています。黒澤明監督が1998年(平成10年)88歳で亡くなっておられますが

溝口監督も88歳まで生きておられたら昭和61年までおられたのにと非常に残念です。

溝口監督の内弟子だから知っている真実を残して死にたいと言われた宮嶋先生の思いを、書き残す事は大変意義ある事だと思いました。出来上がった「団子串刺し式私の履歴書・溝口組と他の組の違い」のCDを亡くなる2週間前まで、何回も聞かれて、

「よく仕事したなあ」と現役時代を思い出され、私は感謝の言葉を何回も頂きました。

口述筆記をするにあたって京都ライトハウスの
中途失明者指導相談室の高間恵子様、
音訳の竹あや子様よりの力強いご支援を頂きました。ブログ担当とビデオ編集では勝成忠様がいつも力になって下さいました。奥様の春様はじめ長男の晃様泰子様ご夫妻様のご協力も頂きました。ここに深くお礼申し上げます。

最後に宮嶋八藏先生!尊敬されていた溝口監督や先に逝かれたご両親、御兄弟、戦友や親友の方方とお会いしてたくさん語りあって下さい。そして天国より見守って下さい。

宮嶋先生!ありがとうございました。心からご冥福をお祈りしています。


                 

勝成忠主宰「楽しいビデオを作る会」メンバー・神戸布引ハーブ園にて撮影会 勝成忠撮影 平成27.9.5



「月刊ぺんだこ」の表紙の宮嶋八藏    愛用のベレー帽と翡翠のループタイ

(表紙絵 山中和美氏)        (長男晃様の妻泰子様よりのプレゼント)



最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
             宮嶋八藏・代 竹田美壽恵

 

   

   TOPへ

宮嶋八蔵日本 映画四方山話
刺 青
刺青-2
ぼ ん ち
噂の女
朱雀門
残菊物語
雨月物語
山椒大夫
祇園囃子
近松物語
ごくどうもん
新平家物語
千代田城炎上
華岡青洲の妻
華岡青洲の妻-2
溝口組と他 の組との違い
京都人文 学園のこと
溝口作品 映画資料寄贈
3987番目 の志願兵
私の中の予科練
団子串差し式 私の履歴書
北斗の星
京滋美保空会に 司令を思う
想い出の歌
宮嶋八蔵の幼少期
宮嶋八蔵妻の家系
画家、牧野克次の 妻・兄弟・一族
NY日本倶楽部建設
NY高峰譲吉本邸
20日と牧野克次
全米桜まつり
渋沢栄一と 東京高峰譲吉邸
天王寺屋 牧野家の墓  
牧野克次の遺品 京都工繊大寄贈  (1)
牧野克次の遺品 京都工繊大寄贈  (2)